表紙 > 読書録 > 安田二郎「西晋武帝好色攷」が暴く家族愛

03) 過保護が、司馬氏の家風

武帝が名家の女子を集めたのは、恵帝を守るための政策だった。外戚を厚くする。皇子を多くする。ただの色狂いではない。
次は藩屏たる「封王制」について論じるようです。3段階に分けられて、意味づけがとても興味深かったです。

長老・司馬孚の特別扱い

武帝が即位した翌日の265年12月18日、封王制を実施した。武帝の曽祖父・司馬防の直系の子孫が王になった。喪服の制度で、武帝から見て小功親よりも近い人が恩恵を受けた。

司馬防とは、司馬懿の父である。いわゆる八達の家が優遇された。

祖父の世代で唯一生き残っている司馬孚が、40100戸で飛び抜けた。

司馬孚は、あざなを叔達。司馬防の三男だから、司馬懿のすぐ下の弟。

以下は、尊卑、長幼、親疎、嫡庶と、年齢や資質、行政地理上の重要度を基準にして、封戸が決められた。

司馬孚とその直系の子孫は、武帝から家人の礼を受け、優遇された。東晋初の史家・王隠がわざわざ強調したことだ。
優遇の理由は、武帝が長老・司馬孚の訓導を必要としたからだという。武帝が西晋の初めに、他氏の長老を優遇したのと同じである。他氏の長老とは、王祥、鄭沖、何曾、荀顗らである。

司馬昭が残してくれた取り巻きだ。青二才だった武帝を助ける人々だ。

当の司馬孚は、魏晋革命に正面から反対した。曹髦を殺した賈充を、強く断罪した。禅譲して去った曹奐を見送って、
「私は死ぬまで、大魏の臣です」
と言った。遺言では、陵墓に魏の貞臣だと刻んだ。

司馬孚については、このサイト内の
死ぬまで魏の純臣なり、司馬孚&司馬望伝
でやりました。2008年7月19日に書き終えてるが、字が小さいという欠点を抜きにしても、内容がちょっと読めたもんじゃない (笑)

武帝から見ると、司馬孚は最高に煙たい。しかし司馬孚を優遇せざるを得なかったのは、まだ地位の安定しなかった武帝の妥協だ。

武帝の妥協は、司馬孚のみが例外だった。
司馬順(司馬懿の六弟・司馬通の子)は、司馬孚と同じように魏晋革命にネガティブな態度を取った。ただしネガティブさは、司馬孚よりずっと軽微だった。司馬孚は革命そのものを否定したが、司馬順は革命のプロセスにケチを付けただけだ。革命を否定したわけじゃない。
だが司馬順は、西域に流罪になった。兄が北海王で、弟が陳王になれたのだから、血筋は充分に貴かった。明らかに司馬順の行動が不興を買った結果だ。

司馬炎の本心に照らせば、露骨に反発した司馬孚は、殺してしまいたいくらいだったでしょう。司馬順の例から逆算する限り。

天下を疑う政策

王船山は、西晋の封王制の本質を見抜いた。
「魏は同姓の曹氏を疑ったから、諸侯を削った。晋は天下を疑ったから、司馬氏の王に兵を持たせた」
武帝が30人以上の王を封じたのは、司馬氏以外を敵視したからである。

すごい!この指摘だけで、ご飯3杯はいける。


封王制は、武帝が一族を統制する目的もあった。
魏朝で有数の大族である司馬氏は、司馬昭の死後にバラバラになりかねない。司馬孚を「長老の傘」として祭り上げて利用し、武帝が家督をきっちり嗣ぐ必要があった。司馬孚とは反対に、西域に飛ばされた司馬順は、スケープゴートである。

長老の傘がなくなった

271年6月に司馬望が67歳で死んだ。272年2月に司馬孚が93歳で死んだ。

司馬望は、司馬孚の子。司馬望は父より早く死んだから、親不孝ではあるが、92歳の父に先に死んでくれとも言えないし。

277年8月、武帝は封王制を改めた。ポイントは、
 1)封国と出鎮する場所をそろえる
 2)王国を3ランクに分ける
 3)新しく封じるのは、武帝の皇子だけ
の3点である。

1)は藩屏を機能させるため。
司馬亮を扶風から汝南に移し、司馬伷を東カンから瑯邪に移し、司馬駿を汝陰から扶風に移し、司馬倫を瑯邪から趙に移したのが、これに当たる。司馬駿は有能な人物で、羌族の平定を期待された。これを巡って玉突きで、王が移された。4人は、許昌、下邳、長安、鄴で要衝を抑えた。

2)について。
王を移したとき、周辺の郡県から戸数を切り取って、増封された。
増封して最高ランクの大国を得たのは、武帝から見て皇叔(司馬肜と司馬倫)と、皇弟(司馬攸)だけ。いっぽう武帝の従祖父の系統は、冷遇された。司馬孚と司馬望が死に、武帝を中心に司馬氏が回り始めた。

兄弟は他人の始まり。世代は移り変わるのが常。
史料を丹念に追っていくと、安田氏の論文のようになると思うのだが、まあ想定できる範囲の指摘ですよね。


3)について。
武帝を中心に置いた封王制を作っている。だから武帝と近ければ、幼くても構わずに王に封じられた。司馬瑋が7歳、司馬允が6歳、司馬カが5歳。このとき王に封じられなかった司馬乂は1歳だ。

八王の乱の主役たちが、みな児童だよ!新鮮だ。

武帝のチチバナレ

277年、武帝を中心とした封王制と同時に、宗師が設置された。皇叔・扶風王の司馬亮が初代に任命された。
だが安田氏は、宗師を重視しない。表向きは宗室(司馬一族)を優遇し、長老を尊重する。だが司馬氏でも、罰するときは罰する。
長老依存を辞めて、武帝を中心とする体制に転換した。それが2回の封王制の間にある265年から277年への変化だ。武帝が自ら族長の立場を築き、チチバナレしたんだと。

チチバナレの表記も安田氏より。親の庇護を必要としなくなった「乳離れ」という原義と、「父」である司馬昭のお膳立てに頼らなくてもよくなったことを、かけたのでしょう。ふーん。

恵帝を中心とした封王へ

武帝が病死する前年の289年、皇子を対象に封王制が改められた。成人した3人が、封地と出鎮を揃えて、藩屏に配置された。
恵帝の弟で最年長28歳の司馬柬は秦王として長安に。19歳の司馬瑋は楚王として襄陽に。18歳の司馬允は淮南王として寿春に。

悲しい結末だが、司馬柬と司馬瑋と司馬允は、291年に賈氏に葬り去られる。藩屏として機能せず、成人した順に八王の乱の餌食になる。

注意したいのは、司馬泰が隴西王から3年で外されたこと。司馬泰は、司馬懿の弟の子。封王の基準を、武帝ではなく恵帝からの血縁距離に移したとき、司馬泰は王の資格がなくなった。病気が理由とされているが、恵帝からの遠さがクビの理由である。
武帝は死ぬ前に、恵帝を中心として親等をカウントする封王制を作った。

恵帝を中心に、皇子や皇孫が同じ日に王になった。
13歳の司馬乂は長沙王、11歳の司馬頴は成都王、9歳の司馬晏は呉王、6歳の司馬熾は豫章王。生きている皇子(恵帝の弟)の全員が、王になった。重度の障害者・司馬演も然り。

この人たちは、武帝の8年のブランク後に生まれてきた子供たちだ。例外なく、300年代の八王の乱で全員が片付く (笑)
司馬昭は武帝のために、万全の体制を整えて死んでくれた。武帝もまた、恵帝のために万全を心がけた。親から子への手厚い継承が、司馬氏の強みであり、同時に弱みだよね。司馬懿に始まったことです。代を経るごとにエスカレートして、ついに武帝の過保護に到った。
「子供がバカなら、保護すればいい。バカならバカなほど、お膳立てする甲斐がある。子供がバカだから廃嫡するなんて、もっての他だ」
ひどい誤解である。天下の弊害だよなあ。

恵帝の下の代では、司馬遹が広陵王になるなど、乳児まで王になった。武帝が切ないまでの願いを込めて、恵帝の周りの整備した。