表紙 > 読書録 > 安田二郎「西晋武帝好色攷」が暴く家族愛

05) 定番の史料はウソばっか

前回までで、本論は終了。
武帝の好色は、性欲の暴走ではなかった。
でももっと性質の悪い、ジコチュウの暴走だった。

『資治通鑑』のウソ

史料の読み方に関する、安田論文のオマケ。

なぜ西晋の武帝は、三国統一した後はデカダンな遊び人として描かれるのか。それは、史料の編集者たちの操作による。
例えば『資治通鑑』は人物のイメージを単純化するために、記録を操作している。例を三国時代に求めるならば、
魏の明帝(曹叡)は、諸葛亮が死んで外圧がなくなったので、土木工事・狩猟・女寵に狂った」
とある。
これは、不当に単純化された結果だ。諸葛亮が死ぬ前から、明帝はとっくに暴走して、諫言を受けている。だが司馬光は、時系列を入れ替えたり、イメージに合わない記事を切り捨てたりして、外圧に怯える&外圧が去れば弾ける明帝のキャラクターを作った。

魏の明帝に見られた外懼主義史観が、西晋の武帝にも当てはめられているのではないか。もし、
「呉の外圧が減って、司馬炎は緩んだ」
というのが不当なバイアスだとしたら、司馬炎は呉を平定する前と後で、別人になる必要はない。安田氏が今回言ったように、
「司馬炎の女狂いは、一貫した政策だ」
と言ってもいいことになる。

安田氏の指摘は、引用史料と比べても、充分に成り立つ。
ただぼくは、司馬光の意図は、魏の明帝と西晋の武帝に対しては、それぞれ別だったような気もしている。
魏の明帝は諸葛亮の偉大さを強調するために外懼させられた。諸葛亮みたいに公平無私に頑張りましょうね、というメッセージ。西晋の武帝は王朝の短命さを説明するために外懼させられた。君主たる人は、武帝のマネをしてはいけませんよ、と。

『晋書』のウソ

現行の『晋書』は、唐の太宗が作らせたものだ。編集方針は、
「旧来の同タイトルの本は、事実を漏らさず記録したから、煩雑である。もっと単純にして、歴史から読み取れる教訓を明確にせよ
であった。
教訓とは何か。唐の太宗が死にかけたのは建国から30年。西晋が滅びた年数と同じである。西晋と同じ失敗をくり返して、このタイミングで唐を滅ぼすな、というのが教訓である。
「西晋を反面教師にせよ」
と太宗は言いたい。

西晋の2つの失敗が、太宗の自己弁護と自己正当化に使われている。
太宗は、兄の李建成を押しのけて即位した。第一子の魏王・李泰を退けた。どちらも廃嫡なので、世論から批判を受ける可能性がある。

唐代を知る人には常識に属することでしょうが、ぼくには新発見なみの喜びがあった内容です。

司馬炎は、賢い弟の司馬攸を押しつぶした。司馬炎は、バカな第一子の司馬衷を立てた。2代に渡って嫡子が継ぎ、亡国した。
「太宗は、西晋の武帝と正反対をやった。西晋の武帝を叩き、西晋の恵帝をバカだと強調することで、太宗の判断の正しさが確認される
という仕組みだ。
恵帝のバカぶりは『晋書』から割り引いて読むべきだ。

もし恵帝が『晋書』が言うほどにバカじゃないとするなら、安田氏のこの論文の前提が危うくなるんじゃないか。武帝は「不慧」の恵帝の前途を心配して、後宮やら外戚やら封王やらを、ガチガチに作りこんだという話だったじゃん。
まあ恵帝の素質は別にして、武帝の心配性に帰着させれば良いのか。


恵帝の有名なバカ・エピソードに、
「あのガマガエルは官か、私か」
と聞いたというのがある。唐突にアホなことを口走った構図だ。なるほど恵帝は皇帝の資格がないなあ、と読者は呆れる。しかし恵帝は、脈絡なく言い出したのではない。『太平御覧』『晋中州記』によれば、事前に讖緯として、
「ガマガエルが高貴となるだろう」
という天のお告げが伝わっていた。恵帝はこれを踏まえて、
「目の前にいるガマガエルは、讖緯が言っている高貴になる奴に該当するだろうか、それとも違うのか」
と聞いたことになる。意味が分かりにくい讖緯について、あれこれ解釈するのは、当時の真面目な関心事だ。太宗の『晋書』が前後の脈絡をすっ飛ばしたから浮いたが、恵帝は意味のある発言をしていたのだ。

文脈を飛ばすとバカっぽくなるのは、いくらでもある話で。恵帝を主人公に、周囲に誤解されるシリーズを作ってみたら面白いかも?

家族を愛する人

論文の要約は終わりです。
今回の安田氏の論文で、司馬炎のキャラクターがだいぶクリアに見えてきたような気がします。
目立った特徴と言えばただ髪が長いだけで、三国を終わらせたという外枠で語り終えられるマネキンではなくなりました。

司馬炎は、きっと誰よりも、家族を愛する人だったのでしょう。父を愛し、母を愛し、妻を愛し、子を愛した。
安田氏によれば司馬炎は、服喪のせいで、繁殖能力が盛んな年齢に子作りができなかった。だから皇子の年齢と人数にブランクができた。そのせいで後の政策が、どうもムリヤリ臭くなった。これを指して安田氏は、司馬炎を「名教の犠牲者」と表現していました。
どうなんだろ?

安田氏の目線に揃えて論じるなら、2つの選択肢を作れるだろう。
司馬炎が家族を大切にする気持ちが、形骸化された儒教に由来せず、自然に発露したものなら、司馬炎は犠牲者なんかじゃない。もし型に押し込められていたのなら、やはり犠牲者となる、と。

ぼくが思うに司馬炎は、儒教が教える以外の家族のカタチを知らなかったはずだ。つまり、犠牲者だとも、非犠牲者だとも、自己認識できなかったはずだ。とにかく司馬炎は、知っているだけの全てのやり方で、家族を大切にした。犠牲か、という設問が無意味だ。
ただ司馬炎の前にあるのは、古今東西貴賎で共通の、生死をはじめとした予測不能の家族イベントだけだ。

司馬炎が後先を考えずに服喪したには、父母を慕うから。恵帝を可愛がったのも、他意はない。誰かを陥れる気持ちなんてなかった。まして天下を乱すなんてねえ。
晩年の司馬炎は、定説にあるとおりに政治への関心を失ったのではない。家族への関心が強まりすぎたのだ。とくにバカな恵帝への心配が、胸を占めてしまった。

4段階欲求説

儒教では「修身斉家治国平天下」って言うけどさ、司馬炎は2番目の「斉家」で止まってしまった人でした。
魏末の勝者である司馬一族は、よせばいいのに八達が発達してしまい、なかなか手に負えない怪物になっていた。

司馬氏は巨大で人材が豊富だったから、他氏に勝てた。一族の広がりの功罪は半ばする。どちらとも言えない。微妙なんだ。

マズローの5段階欲求説で、下位の基本的な欲求が満たされて初めて、上位に行けるという話があります。あれと同じで司馬炎は「斉家」がなかなか完了しないから、「治国」や「平天下」に目を向けられなかった。皇帝にあるまじく、封王制の整備で全力を使い果たした。

司馬炎は、司馬師や司馬昭が、他氏を引っかけて没落させるのを見て育った。反動で過剰防衛が働き、何があっても家族、家族、家族という性格になったんだね。
武帝その人の史料をもっと詳しく読みたいと思いました。091117