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03) 曹操の臣下たちの列伝

10年のゴールデンウィークのテーマは袁
準備のために、史料を抜粋します。

曹操の功臣たち

(韓浩伝)魏書曰:韓浩字元嗣.漢末起兵,縣近山藪,多寇,浩聚徒為縣藩.太守王匡以為從事,將兵拒董卓于盟津.時浩舅杜陽為河陰令,卓執之,使招浩,浩不從.袁聞而壯之,以為騎都尉.夏侯惇聞其名,請與相見,大奇之,使領兵從征伐.

韓浩は、袁術を振りました。

(曹仁伝)太祖之破袁,仁所斬獲頗多.
(曹真伝)魏略曰:興平末,袁部黨與太祖攻劫,太祖出,為寇所追,走入秦氏,伯南開門受之.寇問太祖所在,答云:「我是也.」遂害之.由此太祖思其功,故變其姓.

曹仁と曹真は、ただの戦闘要員。

(荀彧伝)破布,然後南結揚州,共討袁,以臨淮﹑泗.
三輔決錄注曰:象字文則,京兆人.少聰博,有膽智.以督軍御史中丞詣揚州討袁,會病卒,因以為揚州刺史.

袁術のつぎに、曹操が送った揚州刺史は、厳象。

(荀攸伝の何顒)張璠漢紀曰:顒字伯求,少與郭泰﹑賈彪等遊學洛陽,泰等與同風好.顒顯名太學,於是中朝名臣太傅陳蕃﹑司隸李膺等皆深接之.及黨事起,顒亦名在其中,乃變名姓亡匿汝南間,所至皆交結其豪桀.顒既奇太祖而知荀彧,袁紹慕之,與為奔走之友.是時天下士大夫多遇黨難,顒常歲再三私入洛陽,從紹計議,為諸窮窘之士解釋患禍.而袁亦豪俠,與紹爭名.顒未常造深恨之.

何顒は、袁術との交際を断った。何顒が批評した人物は、みな袁紹の派閥に属しています。袁術側の鑑定士の名前は、残らない。

漢末名士錄曰:常於坐數顒三罪,曰:「王德彌先覺雋老,名德高亮,而伯求之,是一罪也.許子遠凶淫之人,性行不純,而伯求親之,是二罪也.郭﹑賈寒窶,無他資業,而伯求肥馬輕裘,光耀道路,是三罪也.」陶丘洪曰:「王德彌大賢而短於濟時,許子遠雖不純而赴難不憚濡足.伯求舉善則以德彌為首,濟難則以子遠為宗.且伯求嘗為虞偉高手刃復仇,義名奮發.其怨家積財巨萬,文馬百駟,而欲使伯求羸牛疲馬,頓伏道路,此為披其胸而假仇敵之刃也.」意猶不平.後與南陽宗承會於闕下,發怒曰:「何伯求,凶德也,吾當殺之.」承曰:「何生英俊之士,足下善遇之,使延令名於天下.」乃止.後黨禁除解,辟司空府.每三府掾屬會議,顒策謀有餘,議者皆自以為不及.遷北軍中候,董卓以為長史.後荀彧為尚書令,遣人迎叔父司空爽喪,使并置顒尸,而葬之於爽傍.
魏書曰:議者云表﹑繡在後而還襲呂布,其危必也.攸以為表﹑繡新破,勢不敢動.布驍猛,又恃袁,若縱橫淮﹑泗間,豪傑必應之.今乘其初叛,心未一,往可破也.太祖曰:「善.」比行,布以敗劉備,而臧霸等應之.

何顒と袁術との仲たがいのため、荀攸伝をチェック。


(張範伝)袁備禮招請,範稱疾不往,不彊屈也.遣承與相見,問曰:「昔周室陵遲,則有桓、文之霸;秦失其政,漢接而用之.今孤以土地之廣,士民之,欲徼福齊桓,擬高祖,何如?」承對曰:「在德不在彊.夫能用德以同天下之欲,雖由匹夫之資,而興霸王之功,不足為難.若苟僭擬,干時而動,之所棄,誰能興之?」不悅.是時,太祖將征冀州,復問曰:「今曹公欲以弊兵數千,敵十萬之,可謂不量力矣!子以為何如?」承乃曰:「漢德雖衰,天命未改,今曹公挾天子以令天下,雖敵百萬之可也.」作色不懌,承去之.

張範、張承、張昭の兄弟に嫌われた。

(崔琰伝)續漢書曰:太尉楊彪與袁婚姻,僭號,太祖與彪有隙,因是執彪,將殺焉.融聞之,不及朝服,往見太祖曰:「楊公累世清德,四葉重光,周書『父子兄弟,罪不相及』,況以袁氏之罪乎?易稱『積善餘慶』,但欺人耳.」太祖曰:「國家之意也.」

崔琰は、袁術と姻戚なので、損をした。


(何夔伝)何夔字叔龍,陳郡陽夏人也.曾祖父熙,漢安帝時官至車騎將軍.夔幼喪父,與母兄居,以孝友稱.長八尺三寸,容貌矜嚴.避亂淮南.後袁至壽春,辟之,夔不應,然遂為所留.久之,與橋蕤俱攻圍蘄陽,蘄陽為太祖固守.以夔彼郡人,欲脅令說蘄陽.夔謂謀臣李業曰:「昔柳下惠聞伐國之謀而有憂色,曰『吾聞伐國不問仁人,斯言何為至于我哉』!」遂遁匿山.知夔終不為己用,乃止.從兄山陽太守遺母,夔從姑也,是以雖恨夔而不加害.

何夔は、袁術をこばんだ。親類だけに、余計に憎まれた。

建安二年,夔將還鄉里,度必急追,乃閒行得免,明年到本郡.頃之,太祖辟為司空掾屬.時有傳袁軍亂者,太祖問夔曰;「君以為信不?」夔對曰:「天之所助者順,人之所助者信.無信順之實,而望天人之助,此不可以得志於天下.夫失道之主,親戚叛之,而況於左右乎!以夔觀之,其亂必矣.」太祖曰;「為國失賢則亡.君不為所用;亂,不亦宜乎!」

何夔と袁術が、こんなに密接なのは知らなかった。

(華歆伝)時袁在穰,留歆.歆說使進軍討卓,不能用.歆欲棄去,會天子使太傅馬日磾安集關東,日磾辟歆為掾.

華歆は袁術に、董卓を討てといった。いつだ? 華歆には、袁術を本気で導く気持ちがあったことが分かる。

(程昱伝)後又遣備至徐州要擊袁,昱與郭嘉說太祖曰:「公前日不圖備,昱等誠不及也.今借之以兵,必有異心.」太祖悔,追之不及.會病死,備至徐州,遂殺車冑,舉兵背太祖.

程昱は、兗州を守りきった。

(郭嘉伝)傅子曰:會太祖使備要擊袁,嘉與程昱俱駕而諫太祖曰:「放備,變作矣!」

郭嘉はいう。劉備を放置してはいけない!


(董昭伝)奉由是失望,與韓暹等到定陵鈔暴.太祖不應,密往攻其梁營,降誅即定.奉、暹失,東降袁

献帝を失った楊奉が、うろうろする。

太祖令劉備拒袁,昭曰:「備勇而志大,關羽、張飛為之羽翼,恐備之心未可得論也!」

劉備が、袁術の戦略を踏襲します。やめなさい!

(劉馥伝)劉馥字元穎,沛國相人也.避亂揚州,建安初,說袁將戚寄﹑秦翊,使率與俱詣太祖.

劉馥は、袁術に就職しようとした。

(鄭渾伝)鄭渾字文公,河南開封人也.高祖父,父興,皆為名儒.渾兄泰,與荀攸等謀誅董卓,為揚州刺史,卒.渾將泰小子袤避難淮南,袁賓禮甚厚.渾知必敗.時華歆為豫章太守,素與泰善,渾乃渡江投歆.

鄭渾は、袁術を見限った。鄭渾は、同じく袁術を見限った、華歆と仲がよかった。

張璠漢紀曰:鄭泰字公業.後又與王允謀共誅卓,泰脫身自武關走,東歸.後將軍袁以為揚州刺史,未至官,道卒,時年四十一.

鄭泰は袁から、揚州刺史にしてもらった。要チェック。


(陳羣伝)劉備臨豫州,辟為別駕.時陶謙病死,徐州迎備,備欲往,說備曰:「袁尚彊,今東,必與之爭.呂布若襲將軍之後,將軍雖得徐州,事必無成.」備遂東,與袁戰.布果襲下邳,遣兵助,大破備軍,備恨不用言.舉茂才,除柘令,不行,隨紀避難徐州.

陳羣は、袁術の対応について対立し、劉備を去る。

(陳矯伝)避亂江東及東城,辭孫策﹑袁之命,還本郡.太守陳登請為功曹,使矯詣許,謂曰:「許下論議,待吾不足;足下相為觀察,還以見誨.」矯還曰:「聞遠近之論,頗謂明府驕而自矜.」登曰:「夫閨門雍穆,有德有行,吾敬陳元方兄弟;淵清玉絜,有禮有法,吾敬華子魚;清脩疾惡,有識有義,吾敬趙元達;博聞彊記,奇逸卓犖,吾敬孔文舉;雄姿傑出,有王霸之略,吾敬劉玄德:所敬如此,何驕之有!餘子瑣瑣,亦焉足錄哉?」登雅意如此,而深敬友矯.

陳矯は、袁術と孫策を断り、曹操に味方した。

(韓暨伝)暨散家財以供牛酒,請其渠帥,為陳安危.山民化之,終不為害.避袁命召,徙居山都之山.荊州牧劉表禮辟,遂遁逃,南居孱陵界,所在見敬愛,而表深恨之.

韓暨は、劉表と袁術をさけた。