表紙 > 漢文和訳 > 「呂蒙伝」:『三国志集解』を横目に、自分で翻訳する

04) 呂蒙が魯粛を継ぐ、隠れた意義

呂蒙のことを、よく知るために、目ぼしい『三国志集解』の註釈を抜書きしながら、翻訳します。
『集解』の全訳でないことは、ご容赦ください。学術研究者ではなく、ファンにとって興味深い事実は、漏らさずに書くつもりです。どうしても主観で取捨選択してしまいますが。

寒門の気持ちが分かる人

時蒙與成當﹑宋定﹑徐顧屯次比近,三將死,子弟幼弱,權悉以兵并蒙.蒙固辭,陳啟顧等皆勤勞國事,子弟雖小,不可廢也.書三上,權乃聽.蒙於是又為擇師,使輔導之,其操心率如此.
ときに呂蒙は、成當、宋定、徐顧と軍営が近かった。成當、宋定、徐顧が、3人とも死んだ。3人の子弟が幼弱なので、孫権は3人の兵を、呂蒙に合併しようとした。
呂蒙は固辞した。呂蒙が述べた。
「3人は、みな國事に勤勞しました。子弟が幼くとも、解散させてはいけません
呂蒙は孫権に、書状を3回提出した。孫権は、呂蒙の言い分を認めた。
呂蒙は、3人の子弟のために、先生を選んであげた。呂蒙は、3人の子弟の教育を助けた。呂蒙の心遣いは、こんな感じだった。

2ページ前で呂蒙は、益州からの降将のためにも、軍団の解体を防いだ。


魏との国境・廬江で活躍しますが、省略。

ぼくの呂蒙への関心が、荊州政策にあるので。

郝普をだまして、零陵郡を得る

是時劉備令關羽鎮守,專有荊土,權命蒙西取長沙﹑零﹑桂三郡.蒙移書二郡,望風歸服,惟零陵太守郝普城守不降.而備自蜀親至公安,遣羽爭三郡.權時住陸口,使魯肅將萬人屯益陽拒羽,而飛書召蒙,使捨零陵,急還助肅.

このとき劉備は、関羽に荊州を守らせ、専有させた。

何焯がいう。かつて荊州は、孫堅が平定した地だ。だが劉備に懐いている。

孫権は、呂蒙に命じた。
「西に行き、長沙郡、零陵郡、桂陽郡の3つを取れ」
呂蒙は、2郡に書状を送った。2郡は、呂蒙の風聞を聞いて、帰服した。だが零陵太守の郝普だけは、城を守って、呂蒙に降らなかった。

『集解』がいう。郝普は『季漢輔臣賛』にある。

劉備は、みずから公安にきた。劉備は関羽に、3郡を争奪させようとした。孫権は、陸口にきた。
孫権は、魯粛に1万を率いさせ、益陽で関羽を防がせた。孫権は書状を飛ばし、呂蒙を召した。呂蒙は孫権の命令を受け、零陵郡を捨て、急いで魯粛を助けた。

ここで零陵郡を諦めないのが、呂蒙のすごさです。詳細は次行より。


初,蒙既定長沙,當之零陵,過酃,載南陽鄧玄之,玄之者郝普之舊也,欲令誘普.及被書當還,蒙祕之,夜召諸將,授以方略,晨當攻城,顧謂玄之曰:

これより前のこと。
呂蒙は、すでに長沙郡を平定し、零陵郡を攻めようとしていた。呂蒙は酃を通り、南陽郡の鄧玄之をピックアップした。鄧玄之は、零陵郡を守る、郝普の古なじみだ。呂蒙は鄧玄之に、郝普を説得させようと思った。
呂蒙は、孫権からの書状を受け取った。すぐに魯粛を助けに行かねばならない。だが呂蒙は、帰還の命令を隠した。
呂蒙は、夜に諸將を召し「明朝、郝普の城を攻めるぞ」と方略を授けた。呂蒙は、鄧玄之を顧みて、言った。(後略)

鄧玄之が郝普をだまし、零陵を奪う話は、ぼくが妄想を膨らます余地がないので、翻訳を省略します。

『集解』も過疎ってるし。

呂蒙は、長沙郡、零陵郡、桂陽郡の3郡を手に入れました。

蒙留(孫河)[孫皎],委以後事.即日引軍赴益陽.劉備請盟,權乃歸普等,割湘水,以零陵還之.以尋陽﹑陽新為蒙奉邑.

呂蒙は、孫河をとどめて、零陵を任せた。

『集解』がいう。孫河はすでに死んでいる。ここは「孫皎」の間違いだろう。孫皎と潘璋と魯粛が、関羽を防いだのだ。

呂蒙はすぐに(魯粛が待つ)益陽に向かった。
劉備が孫権に、和解を申し出た。孫権は郝普らを帰した。湘水を境界線に定めた。零陵郡は、劉備に還した。

『集解』がいう。他の列伝を読み比べると、郝普は、劉備に帰っていない。呉に仕えて、廷尉になった。
ぼくが思うに、郝普と同じ運命を潘濬がたどっているから、参考になるかな。郝普の記述は、ほんとうに少ないので、立場が見えにくい。

呂蒙は、尋陽陽新を、奉邑にもらった。

合肥で張遼と戦う

師還,遂征合肥,既徹兵,為張遼等所襲,蒙與淩統以死扞.後曹公又大出濡須,權以蒙為督,據前所立塢,置彊弩萬張於其上,以拒曹公.曹公前鋒屯未就,蒙攻破之,曹公引退.拜蒙左護軍﹑虎威將軍.

呂蒙は、張遼から孫権を守った。左護軍﹑虎威將軍になった。

呂蒙は荊州専任でない。孫権の命令さえあれば、どこへでもいく。このあたり、周瑜や魯粛と違う。孫権は、呂蒙を使いやすい。

魯粛をつぐのは、孫権の君主権力の勝利?

魯肅卒,蒙西屯陸口,肅軍人馬萬餘盡以屬蒙.又拜漢昌太守,食下雋﹑劉陽﹑漢昌﹑州陵.與關羽分土接境,知羽驍雄,有并兼心,且居國上流,其勢難久.初,魯肅等以為曹公尚存,禍難始搆,宜相輔協,與之同仇,不可失也,蒙乃密陳計策曰:

魯粛が死んだ。呂蒙は西に行き、陸口に駐屯した。魯粛軍の人馬・1万余は、全て呂蒙が継いだ。

孫権の意向を無視して、好きにやった周瑜と魯粛。彼らの独創性はすごいが、煙たくもある。
魯粛が死に、孫権の忠実な部下・呂蒙が、すべて接収した。孫権が、荊州を自領だと認識できるのは、このときからだろう。違うかな。笑

呂蒙は漢昌太守となり、下雋﹑劉陽﹑漢昌﹑州陵を食邑とした。

周瑜がもらい、魯粛がもらった食邑だ。周氏にも魯氏にも、世襲させず。
食邑を、呂蒙が召し上げた。孫権の君主権力の勝利だ。

呂蒙は、関羽と国境を接した。呂蒙は考えた。
関羽は驍雄で、荊州を併合しようとしている。しかも劉備は、長江の上流にいる。現在の同盟状態は、長く続かない。

呂蒙は、自分が劉備ならどうするか、と考えたはず。
「関羽がいる。上流を占めた。荊州は、きっと孫権から奪えるな」
呂蒙が着任した時点で、孫権は不利だったことが分かる。

かつて魯粛は、考えた。
「曹操が健在だから、劉備と孫権は助け合い、ともに曹操を討つべきだ。劉備との同盟を、壊してはいけない」と。
だが呂蒙は、ひそかに孫権に建策した。

魯粛の考えを覆すわけですが。内容は次回。