表紙 > 漢文和訳 > 「呂蒙伝」:『三国志集解』を横目に、自分で翻訳する

06) 呂蒙の次はなぜ陸遜か

呂蒙のことを、よく知るために、目ぼしい『三国志集解』の註釈を抜書きしながら、翻訳します。
『集解』の全訳でないことは、ご容赦ください。学術研究者ではなく、ファンにとって興味深い事実は、漏らさずに書くつもりです。どうしても主観で取捨選択してしまいますが。

孫権が、呂蒙の死をちゃんと悲しんでいる

以蒙為南郡太守,封孱陵侯,賜錢一億,黃金五百斤.蒙固辭金錢,權不許.封爵未下,會蒙疾發,權時在公安,

孫権は、公安まで出張っていたのか!

迎置內殿,所以治護者萬方,募封內有能愈蒙疾者,賜千金.

時有鍼加,權為之慘,欲數見其顏色,又恐勞動,常穿壁瞻之,見小能下食則喜,顧左右言笑,不然則咄唶,夜不能寐.

何焯が言う。孫権は、勾践のようだ。

病中瘳,

盧弼がいう。「瘳」とは、病が癒えること。

為下赦令,臣畢賀.後更增篤,權自臨視,命道士於星辰下為之請命.年四十二,遂卒於內殿.

盧弼がいう。逆算すると、呂蒙は孫権より4歳年長だ。

時權哀痛甚,為之降損.蒙未死時,所得金寶諸賜盡付府藏,敕主者命絕之日皆上還,喪事務約.權聞之,益以悲感.

列伝本文では、周瑜や魯粛が死んだとき、孫権はここまで悲しんでいない。孫権と呂蒙は、周瑜や魯粛と違って、政治的に緊密なんだ。
孫権は、皇帝となり、立場が固まって初めて、周瑜と魯粛を、遡ってほめた。また『江表伝』が脚色して、周瑜や魯粛も、孫権に好かれたことになった。どちらの例も、大人(王朝)の都合による歪曲である。

呂蒙の後任は、朱然に

蒙少不脩書傳,每陳大事,常口占為牋疏.常以部曲事為江夏太守蔡遺所白,蒙無恨意.及豫章太守顧邵卒,權問所用,蒙因薦遺奉職佳吏,權笑曰:「君欲為祁奚耶?」於是用之.甘寧麤暴好殺,既常失蒙意,又時違權令,權怒之,蒙輒陳請:「天下未定,將如寧難得,宜容忍之.」權遂厚寧,卒得其用.

朱然伝がいう。呂蒙が死ぬとき、朱然を後任に指名した。孫権は朱然に、江陵を守らせた。
むかし、呂蒙の二枚舌遺言の真相は?朱然伝を書きました。


蒙子霸襲爵,與守冢三百家,復田五十頃.霸卒,兄琮襲侯.琮卒,弟睦嗣.

呂蒙の子・呂霸が、爵位をついだ。

周瑜と魯粛は、爵位や奉邑を、呂蒙に取られた。呂蒙は、子孫に伝えることができた。
ゆえに以下の説は、当たらない。
「爵位や奉邑は、荊州の任と切り分けられない、役職手当だった。だから周瑜と魯粛は、子孫ではなくて、後任者に爵位と奉邑を渡した」
そうじゃない。孫権は、周瑜や魯粛の力を削ぎたかった。子飼いである、呂蒙の力を、削ごうとは思わなかった。

呂霸は、墓を300守り、田を五十頃もった。呂霸が死ぬと、兄の呂琮が、侯爵をついだ。

なぜ弟が先に家長になったか。妄想でしか、理由を突き止められない。
孫権は、呂氏をいつでも取り潰せた。でも残した。

呂琮が死ぬと、弟の呂睦が嗣いだ。

呂蒙のあとの展望、陸遜論

呂蒙の後継は、2人います。陸遜と、朱然です。ぼくは、呂蒙が2人を示した理由は、それぞれ違うと思う。
 朱然:呂蒙と同じく、孫権に密着した部将。孫権が頼れる
 陸遜:孫権を脅かす名士。大きな仕事を与え、孫権に従わせたい

まず朱然。朱然は、理解しやすい。父の朱治のときから、孫氏に貢献した。戦功もある。有能な軍人として、頼もしい。荊州の守備は、厳密には、陸遜じゃなくて朱然が継いだ。陳寿も記すところだ。
分かりにくいのが、陸遜。陸遜は、言わずと知れた、呉郡の名族です。孫権は陸遜を、臣下に加えるために、抜擢したのだと思う。

ぼくが、まったく個人的に考えていることです。参考文献も、特になし。


どういうことか。
陸遜の列伝は、陸遜が前半生の記録が少ない。『演義』のイメージで、陸遜は若くて、引きこもって学問だけをしたから、無名だとされる。いざ列伝を読んでも、記述が少ない。仕方なく、『演義』の言うとおりかなあ、と思ってしまう。せいぜい陸遜の年齢を知り、年増に驚くくらい。

関羽を討つとき、すでにアラフォー。どこが「書生」なんだよ。

だが、違うのです。
陸遜は、孫権のために、ほとんど働いていないだけだ。だから『呉書』に残らない。もしかしたら独自に、勢力を広げていたかも知れない。山越討伐と書いてある記事は、孫権のためでなく、陸氏のために、戦ったことを指すかも知れない。

列伝が沈黙するのは、周瑜も同じ。孫策が死んでから、赤壁まで、戦功は1つのみ。荊州への道が開きだした途端に、別人みたいに動き始める。


こういう、半独立くさい陸遜を、ひざまずかせるには、どうするか。孫権の臣下として、大きな仕事を与えるのです。孫権のために働いているうちに、主従関係が固まる。
呂蒙は病気で建業に帰り、孫権に言った。
「陸遜は才能があり、未来への展望も明るく…」
建前である。陸遜に、関羽と向き合うという大任を与えましょう。陸遜は、フラフラできなくなりますよ。陸遜が成功したら、孫権の有力な臣下の一員。陸遜が失敗したら、没落してもらう。どちらにせよ、孫権の君主権力が強まる。

関羽は、目上を嫌う。名族の陸遜は、関羽のプライドを阻害する。陸遜なら、関羽の弱みを、もっとも悪いかたちで表に出させる。呂蒙には、そういう読みもあったでしょう。呂蒙の重点は、むしろこっちかな。

おまけ:夷陵の戦いにおける、孫権の狙い

3年後、夷陵の戦い。総大将は陸遜とされる。しかし、荊州の防御は、朱然の役目である。呂蒙の遺言にあったことだし。
なぜ孫権は、陸遜に任せたか。ふたたび陸遜に、孫呉の部将として働いてもらうためだ。だから朱然は、ナンバー2に降りてもらった。

夷陵の戦いの名物は、1年以上の滞陣だ。陸遜伝を読むと、初めから持久するつもりだったのか、成り行きで長引いたのか、よく分からない。そのはずで、1年も孫呉が動かなかった理由は、陸遜の指揮に、諸将が従わなかったからだ。と思う。
列伝を読むと、
「陸遜が持久しろという。孫呉の宿将たちは、戦いたくてイライラした。陸遜の命令を聞かず、勝手に飛び出してしまった」
という構図が見える。違う。
「陸遜が、戦えという。だが孫呉の宿将たちは、今まで半独立を気取った、陸遜の命令を聞かない。陸遜にストライキして、陸遜が降ろされるのを待っている。もちろん、劉備に負けない範囲でだけど」
っていうのが、本当ではないか。
焦った陸遜は、ついに、
「私は孫権さまの命令で、総大将になった。私の命令を聞け!」
と言った。
『孫子』がいう。兵に死力を尽くさせたければ、死力を尽くさざるを得ないピンチに追い込めと。労働組合が聞いたら、絶対に怒る理屈である。だが正しい。
孫権は、陸遜を死地に置くことに成功した。陸遜みずから「孫権さまの命令で」と口走ったのだから、狙いはヒットである。

陸遜は、言い訳できない。
「はじめから私は、この戦いに反対だった。総大将の人事も、納得してないもん。もし敗戦しても、陸氏の名声は落ちないもん」は、説得力ゼロ。


劉備は1年も待たされて、ダラけた。
陸遜が勝った理由と、劉備が負けた理由は、必ずしも一致しなくてもいいと思う。「陸遜の焦らし作戦が効いた」というのは、劉備が負けた理由だ。陸遜が勝った理由ではない。

こうして荊州は、孫権の忠臣・陸遜が守ることに。陸遜は名族だが、周瑜や魯粛のように、荊州で好き勝手はやれない。孫権の勝ち。
おまけの陸遜のほうが白熱したが(ぼくが)、呂蒙伝おしまい。100331