01) 霍光は理想の外戚か
井波律子『裏切り者の中国史』講談社1997
を読みました。
このページのねらい
王莽、司馬懿、王敦と桓温について、知識を補います。
井波氏の本は、タイトルでは裏切り者の列伝と謳っていますが、違います。中国通史の本です。
中国の歴史は、王朝の交代が頻繁です。「裏切り者」を紹介していくと、自動的に通史になるという仕組みです。
正直なところ、人物を掘り下げるという奥深さには、乏しい本でした。代わりに、通史への知識を与えてくれるという面で、読んでよかったと思います。
今回は、ぼくが読み返したいことだけ、抜書きをします。構成も主張もない単なるメモですが・・・宜しければお付き合い下さい。
「まず自分の役に立つページを作れ。自分にとって有用なら、どこかの誰かにとっても有用かも知れない」
とありました。今回のメモは、思いっきり自分の復習用です・・・
地の文は井波氏の要約、グレーの注釈はぼくのコメントです。
董仲舒を知らねばならん
前141年、前漢の武帝が16歳で即位。
文帝と景帝のとき、忠義や孝行を重んじる礼教イデオロギーが優勢。即位直後から武帝は、儒家を登用しようとした。だが武帝は、道家を支持する、祖母の竇太后に阻まれた。前135年、祖母が死んで、董仲舒を登用。
董仲舒は、自然現象を、社会現象の予兆とした。神秘的色彩。前漢と後漢で、董仲舒は、主流として受け継がれた。
前91年、巫蠱の乱。戻太子と、母の衛皇后が殺された。戻太子は、31年間も皇太子だった。前87年、武帝が死んだ。
拳夫人が生んだ昭帝が、8歳で即位、21歳で死去。
前74年、武帝の孫・昌邑王が即位。だが昌邑王は、皇帝として不適格だったので、霍光が27日で退位させた。
昌邑王は、皇帝を取りやめる故事として、東晋で引用される。
前漢そのものに興味がなくとも、知っておきたい人たち。
霍光のいつわりの伝説
つぎの皇帝は、戻太子の孫。巫蠱の乱を逃れ、24歳まで民間で育った皇帝だ。これが宣帝で、在位は前74~前49年。
なぜなら、司馬懿と同じ帝号だ。このあと後漢と曹魏に、宣帝はいない。司馬懿の帝号を決めるとき、必ず前漢の宣帝を意識したはずだ。
司馬懿を知るために、知っておきたい皇帝ではある。
前68年、霍光が死んだ。生前に霍光は、外戚として地位を固めるため、宣帝の糟糠の妻を殺し、霍光の娘を皇后に立てた。宣帝は、霍光が死んだのをきっかけに、霍氏を全滅させた。
結末を知ると、なぜ霍光が、外戚の好例として引用されるのか、分からなくなる。後世に、霍光が脚色されたプロセスを追ってみたいかも? きっと後漢に外戚政治が栄えたころ、ヒーロー像が捏造されたな。
次回、王莽が女心をもてあそびます。