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04) フィンガーボール、王敦

井波律子『裏切り者の中国史』講談社1997
を読みました。
西晋を飛ばして、井波氏は東晋の話をしています。

どこが「気のいい」叛逆者なのか

王敦や桓温は「気のいい叛逆者」である。

なぜこの形容が出てきたのか、先に結論だけメモしてしまいます。井波氏は、最後までナゾのまま保留してましたが、まどろっこしい!


王敦や桓温の叛乱は、東晋の貴族・王導や謝安にいなされた。
貴族のしたたかさに比べれば、王敦や桓温の、欲望むき出しの叛乱は、無邪気に見える。裏切り者のもつ、陰惨さがない。
王敦も桓温も、気持ちだけは貴族の一員であり、東晋と価値観を共有していた。けっきょく敵対の立場を貫けなかった。

『世説新語』には、王敦や桓温のお茶目なエピソードが多い。
井波氏が「気のいい」と言ったのは、『世説新語』のイメージに引っ張られたからだ。
ではなぜ『世説新語』には、カワイイ叛逆者が出てくるのか。ぼくが改めて考えたいテーマとして、大きく残ります。


東晋を滅ぼした劉裕(363-422)は、根っからの軍人である。東晋は、貴族社会と無縁な人物に滅ぼされた。

『世説新語』を作ったのは、劉裕の皇室だ。
東晋を悪罵し、東晋につばを吐いた人を褒める目的なら、王敦や桓温が英雄に化けることはあっても、無邪気にはならない。
「東晋を継ぐべきは、王敦でも桓温でもなく、劉裕であるべきだ」と言いたいなら、王敦や桓温は、下劣な人物になるはずだ。曹丕の周辺の人が、前に同じく禅譲をやった王莽を、決して肯定しなかったように。
とりあえず、保留で・・・

王敦に正義はあるのか

親孝行で名を挙げた王祥が、王導と王敦の大叔父である。瑯邪の王氏は、司馬睿の協力者だ。王導の政治力と、王敦の軍事力のコンビネーションのおかげで、司馬睿は即位できた。

だが司馬睿は、王導を煙たがった。
司馬睿は、狡猾な側近である、劉隗や刁協を重く用いた。司馬睿のやり方に怒ったのが、王敦である。322年、王敦は武昌で挙兵、石頭まで攻め寄せた。司馬睿は憤死した。
324年、王敦が死ぬまで、東晋を揺さぶった。
このとき王導は、従兄・王敦の不始末を陳謝するというポーズを崩さなかった。

王導が、巧妙な立ち回りをするからさあ、列伝を読んでも、誰が正しそうなことを言っているのか、分からなくなるのです。
短気な王敦が勝手に暴発し、司馬睿が被害を受けたのか。司馬睿が、瑯邪の王氏の恩を仇で返したのか。
井波氏は、劉隗や刁協を「狡猾」と言ってるけど、どこまで妥当なのか・・・という調子で悩まされる。

王導の失敗

王敦は『世説新語』で、田舎者のピエロだ。
西晋の武帝のサロンで、王敦は話題がない。野蛮に太鼓を叩いた。
曹操の歌を、痰ツボを叩いて歌う。痰ツボという小汚い小道具が、王敦への揶揄である。
厠で鼻に詰めるべきナツメを食べた。手洗い用の水を飲み干した。侍女たちは、口をおおって王敦を笑った。
美意識を洗練させた貴族は、王敦の非常識を笑った。

『世説新語』を編んだのは南朝宋の皇族だ。だが、元ネタを蓄積していたのは、東晋の貴族だ。『世説新語』の内容から、東晋の貴族から王敦への揶揄は、確かに発見できるでしょう。
だが、ネタの蓄積があることと、『世説新語』に採録されることは、イコールではない。南朝宋の人が、東晋の名門貴族と、東晋の叛逆者に、どういう視線を送っていたか。ぼくはとても知りたい。

蘇峻の叛乱で、北府と西府が形成

327年、蘇峻が叛乱した。蘇峻は、北来の軍団長で、王敦を討つことに功績があった。蘇峻は、外戚の庾亮に冷遇されたから、挙兵した。
蘇峻を討ったのは、
郗鑒(269-339)と陶侃(259-334)だ。

①郗鑒は、北府の祖だ。
郗鑒はもとは、北来の流民のリーダー。司馬睿の信頼が厚く、兗州刺史になった。合肥に駐屯した。「儒雅の士」なので、蘇峻は郗鑒に手出しできなかった。広陵を本拠地として、蘇峻を迎え撃った。
②陶侃は、西府の祖だ。
江南の生まれ。王敦に協力して荊州を平定。荊州刺史になった。王敦に邪魔がられ、10年間も広州に飛ばされたが、325年に荊州に戻っていた。ちなみに陶淵明の曽祖父。

蘇峻が平定されると、司徒に王導、司空に郗鑒、大尉に陶侃という体制ができた。北府と西府が成立した。

次回、西府に2人目の叛逆者・桓温が登場します!