03) 持続して腐蝕した司馬氏
井波律子『裏切り者の中国史』講談社1997
を読みました。
司馬氏の利益を、最優先する
201年、23歳の司馬懿は、河内郡の役人になった。
荀彧の推薦により、中央への任用が決まった。司馬懿が招聘にこばんだ逸話がある。本心か演技か分からないが、欣喜雀躍して、曹操に従ったわけではなさそうだ。
司馬懿が出仕した直後、1つ下の弟・司馬孚も就職した。司馬孚は、曹植の文学掾になった。
曹丕が太子に決まると、司馬懿は太子中庶子となった。司馬懿が軍司馬に栄転すると、後任の太子中庶子には、司馬孚が就いた。司馬孚は、旧主の曹植よりも、司馬氏の利益を最優先した。司馬氏の結束の固さを、見ることができる。
やっかい払い
曹叡のお目付け役は4人だ。だが目付けが4人もいると煙たい。陳羣だけを残して、曹叡は、目付を地方に出した。
司馬懿は荊州の宛へ。曹真は、蜀に備えて長安へ。曹休は呉に備えて寿春へ。曹叡は身軽になった。
228年に曹休が死に、231年に曹真が死んだ。曹氏の上役がいなくなったので、司馬懿が腕を振るう条件が整った。
234年、諸葛亮が死んだ。236年、陳羣が死んだ。238年、公孫淵を討った。
洛陽に仕込んだ、司馬懿の味方
239年正月、曹叡が死んだ。
夏侯献、曹肇、秦朗は、曹宇を中心の体制を作ろうとした。だが、曹丕のときから、魏のトップリーダーだった司馬懿を差し置き、体制を決められるわけがない。詔は、撤回された。
詔を撤回させたのは、劉放と孫資だ。
劉放や孫資と、司馬懿が通じていたかは、資料的な裏づけがない。だが司馬懿は、曹叡の周辺を遠隔操作する準備をしていたことは、充分に考えられる。
歴史書は、宮中の密室のことも、見てきたように書いてある。その歴史書がお茶を濁すとは・・・わざと隠したんだろうね。司馬氏の晋にはばかって、陰謀を知らん顔したんだ。
司馬懿は、洛陽をずっと留守にした。宛や長安に駐屯していた。その司馬懿が、洛陽に備えがないとは、考えにくい。
孫資たちとの裏取引を、小説にしてみたいかも?
東晋の桓温への伏線
司馬懿は、曹爽にクーデターした。
硬骨のブレーン・桓範が、
「皇帝をいただいて許昌を守れば、司馬懿を倒せます」
と言った。だが曹爽は、
「免官になっても、金持ちの旦那でいることはできる」
と世迷いごとを吐いて、司馬懿に負けた。
桓範は、東晋で禅譲を迫る、桓温の4代前の祖先かも知れない。
魏末に司馬氏と対立したが、子孫が晋臣となった例はある。竹林の七賢・嵇康の子である嵇紹は、西晋の景帝のために死んだ。
桓氏は晋では冷遇された。桓温の父は、奇を衒って注目を集めた。のちの桓温の出世へとつながった。
持続する裏切り
司馬懿が死んだ。ある人が、夏侯玄に言った。
「もう司馬氏は弱まるな。助かったね」
夏侯玄が反論した。
「友よ、きみは何と見通しが利かないのだ。司馬懿と夏侯氏は、家族ぐるみで交際した。司馬懿は、私を可愛がってくれたよ。司馬師と司馬昭は、私をきっと見逃さないだろう」
夏侯玄は、4年後、司馬師に殺された。
魏の司馬氏は、3代4人がかりで、裏切りの意志を継続した。代を重ねるごとに腐蝕した。どこか救いがたく陰惨である。西晋が、深く病んでいたのは当然だ。
もっと議論を尽くしてほしいけどね・・・。裏切り者をクローズアップするという、この本の企画に司馬懿を載せるなら、司馬懿を裏切り者として扱うしかないんだろうけど。
次回「気のいい叛逆者」王敦と桓温です。