05) 桓温と謝安は似たもの同士
井波律子『裏切り者の中国史』講談社1997
を読みました。最終回です。
桓範の曾孫、桓夷のデビュー
桓温の父は、桓夷(276-328)である。
東晋の桓氏は、新興の家系だ。
桓夷の父は、桓〔景頁〕である。西晋に仕えたが、桓〔景頁〕は、大した官位に就けなかった。あの桓範の孫だからであろう。
桓範の本籍地は、沛国の譙。桓夷や桓温の本籍地は、譙国の龍亢だ。ちょっと変えてあるが、すぐ近くである。司馬懿に殺された桓範の子孫であるというタブーを隠すため、微妙にズラしたのだろう。
桓夷は、人物鑑定が得意で、庾亮と古くから親しかった。
はじめ桓夷は、司馬睿から、江北の県知事に任命された。東晋では、北から来た人士を委細かまわず受け入れたが、未知で信頼できない人は長江の北に遠ざけられた。
桓夷は、東晋で信任されていなかったことが分かる。
桓夷は、中書郎、尚書吏部郎に進んだ。
桓夷が注目された理由は「八達」というユニットに参加していたからだ。自由奔放で放達なパフォーマンス集団である。
この「八達」は、司馬懿の兄弟と紛らわしいな。かぶってるし。
「八達」の他のメンバーは、胡毋輔之、謝鯤、阮放、畢卓、羊曼、阮孚、光逸である。髪を振り乱し、素っ裸で飲酒した。目立つことで、評判を稼いだ。
桓夷は、蘇峻の平定で戦死した。
桓温に立ちふさがったのは・・・
桓夷が死んだとき、子の桓温は15歳だった。桓温は、父の敵を討つと誓った。だが父の仇敵が病死したので、桓温は葬儀に乗り込み、仇敵の3人の息子を殺した。
桓温は、東晋の明帝の娘を娶り、西府を掌握。成漢を撃ち、長安と洛陽を取り戻した。荊州を弟に任せ、桓温は建康に近い、姑孰に駐屯した。桓温は北府をも掌握し、禅譲を受ける一歩手前。
桓温の禅譲を防いだのは、謝安。陽夏の謝氏は、桓温の父・桓夷が属した「八達」の出身だ。
あるとき、
桓温が武装兵を伏せて、謝安を招いた。謝安は、まったく恐れない。謝安は同席者に言った。
「東晋の存亡は、私たちの行動にかかっているのだ」
謝安は、桓温の前に進み出た。謝安は、鼻にかかった濁声で「洛下書生詠」を歌った。
桓温は謝安の気宇壮大さにびっくりして、武装を解かせた。
桓温は、九錫を要求し続けた。謝安がいなし続けた。
桓温は最期に、
「私は、名声を残すことも、悪名を残すこともできないのか」
と無念の言葉を吐いて、死んだ。
おわりに
中国史の英雄を語ったら、全員が裏切り者になっちゃうだろう。そのわりには、曹操が登場しなかったのは、どういう意図だったんでしょうねえ。司馬懿を裏切り者と言い、司馬氏のやり方を「曹氏と同じ」って明確に書いてあったのだが。
王莽がばあさんを戦わせたとか、桓温は桓範の子孫だとか、ぼくには目新しくて楽しかったです。100214