01) 緒論:名士の登場、袁紹と曹操
劉蓉『漢魏名士研究』を抄訳します。
緒論:魏晋士族の源流=名士
後漢から形成された「世家大族」は、後漢から魏晋の動乱をへて、独自の特徴をもった。唐長孺はいう。門閥制度のルーツは、両漢の地方大姓の勢力であると。田余慶はいう。魏晋貴族と、後漢の世家大族は、同じである。どちらも中国古代社会の宗族勢力である。後漢の世家大族は、魏晋士族の先行段階であると。もし後漢の世家大族がなければ、魏晋士族は発生しなかったと。しかし田余慶はいう。後漢から魏晋につながる世家はすくない。おおくの魏晋士族は、魏晋の時期に新たにあらわれたと。
唐長孺『士族の形成と昇降』はいう。後漢で培養されてきた名士が、魏晋の士族の基礎となった。しかし、すべて後漢の大姓が、魏晋の士族になったわけでない。単家に生まれ、「郷里が士名を与えない」呉質がいる。
以上より、後漢に大姓であることは、魏晋の士族になるために、必要条件であるが、充分条件でない。魏晋の士族になるには、ほかに条件が必要だった。
問1:どんな条件か
問2:どんな種類の世族が、魏晋の士族になったか
この2問を考えるとき、世族がどのような社会階層であるか、留意したい。唐長孺は、階層を「名士」と名づけて、カンタンな説明をつけた。名声ある者で、後漢で使われた称号であると。高度な文化修養を身につけ、清議によって、地方や中央におおきな影響をもった。経済、政治、文化、社会生活らの領域で、領袖の地位をもった。
唐長孺はいう。後漢後期、大姓冠族および、その代表的人物である「名士」は、いっぽうで「世よ州郡に仕へ」地方政権をにぎった。いっぽうで、選挙権をにぎり、察挙と辟挙によって地方から中央にはいり「世よ公卿となる」。いっぽうで社会的な地位がたかく、逃亡した農民をかばい、広大な土地を占めた。
以上から、大姓名士は、当時の社会でもっとも有力な集団だとわかる。地方からは中央と対立し、中央からは地方を抑制した。中央で公卿になったのち、また地方に出て、中央を支えるという側面もあった。
ぼくが思うに、漢帝は地方官にならないけど(当然)、臣下はすべて中央と地方の両方を経験する。「中央官」「地方官」というのは、一時的な地位に貼りついた性質である。人に不可変にくっつくわけじゃない。わざわざ意識してみると、重要なことかも知れないなあ。
また唐長孺はいう。後漢後期から、名士があたえる影響が拡大した。選挙への影響が、決定的に作用した。
閻歩克はいう。名士の発展は、皇帝権力との関係にあらわれた。戦国時代の知識階層は、秦室に編入されておとろえた。漢代になり、知識階層がふたたび発展した。皇帝権力の束縛をのがれ、文化をもつ社会集団をつくったと。
湯用タンはいう。漢魏のとき、社会には有力な勢力が2つあった。1つは名士。蔡邕、王粲、夏侯玄、何晏らだ。2つは英雄。劉備、曹操らだ。魏初の名士は、名法の精神があったが、のちに虚無におちた。清談には4段階ある。老学した正始、庄学をした元康、仏学した東晋の区別がある。
日本の、谷川道雄、川勝義雄はいう。漢末の名士を「清流士大夫」という。川勝『六朝貴族制社会の成立』名士を3等級にわける。郷論レベル、郡レベル、全国レベル。政府の官僚的序列の外部に、名士の序列ができた。シャドウ・キャビネットのように。矢野主税は、川勝らに反対する。党人と名士は同じでない。党人は政治が目的の集団で、名士は政治が目的で結合しないと。
先行研究は名士の重要性をいうが、視角がバラバラである。世家大族から魏晋士族が発生したことは、各論で一致をみた。だが1つずつの宗族がいかに魏晋名士に転換するか、そのプロセスが明らかでない。名士という社会階層の、宗族の特色を明らかにしたい。漢魏の名士にしかない特色を明らかにしたい。名士は、世家大族からだけ発生したのでなく、社会のさまざまな階層から発生した。名士は、文化や政治の特色をもった階層となった。
ただし、漢魏の名士は、すべて魏晋の士族にならない。世家大族というだけでは、士族になれる保証がない。士族になるには、皇帝権力の支持と扶助が必要だった。
田余慶『東晋門閥政治』はいう。後漢の著名な宗族は、「世」「大」の特徴があり、これは世代をかさね、おおくの一族がいたことを指す。官位にあろうが、なかろうが、社会に大きな影響をもった。官位にあっては、累世で公卿となり、実権をもった。魏晋の士族の特色は、仕官したことだ。彼らは文化を身につけて、交遊した。士族の身分は、時代によって軽重がかわる。曹魏と西晋のとき、士族は皇帝権力に依拠した。東晋のとき、士族は皇帝権力をこえた。
田余慶と唐長孺はどちらも、士族の形成は魏晋だといい、漢魏の交替期に、世家大族が士族になったという。田余慶は、皇帝権力への依拠を強調する。
唐長孺は「門資を計る」という記述が、魏代から出てくるという。士族の地位は、魏晋時代の地位によって決まった。漢代には大姓でなくても、魏晋で高位に昇れば、地位があがった。庾乗の事例がある。庾乗は卑微だったが、司徒に辟され、曹魏の太僕になった。西晋で、尚書、侍中、河南尹になった。魏晋士族の地位が、皇帝権力によって決まることがわかる。ただし、秦漢と魏晋では、皇帝権力の大きさがちがう。魏晋の皇帝権力は、秦漢より小さいので、名士の階層から、制約と反撃をうける。
何茲全はいう。司馬氏と曹魏の政権争奪は、世家豪族と集権政治の対立だと。分権と集権のバトルがある。司馬氏が勝ったことは、世家豪族の勝ちをあらわす。
司馬と曹魏のバトルは、名士と皇帝権力の対立といえる。名士は皇帝に依存しつつ、皇帝も名士に依存していた。相互に制約した。東晋に王導や王敦があらわれ、皇帝権力とならび、門閥政治となる。
緒論:曹操と袁紹
名士は、後漢の中後期にあらわれた。外戚や宦官とたたかい、党錮によって、自覚的な集団をつくった。
陳寅恪はいう。後漢の中後期、統治階層が2つに分裂した。1つは内廷の宦官、1つは外廷の士大夫。後漢と魏代は、内廷の宦官が、統治階層の代表である。晋代は、外廷の士大夫が、統治階層の代表である。
曹操の「才三令」は、曹魏の方針をしめす。後漢では儒家をもちいたが、曹操はこれをリセットした。曹操に賛成できる人は曹魏につき、賛成できぬ人は敵対した。
陳寅恪はいう。後漢が傾くと、儒士の階層である「四世三公」汝南袁氏が、国家を継ぐといわれた。宦官の階層が、国家を継ぐと言われない。「ゼイエンの遺醜」沛国曹氏が勝ったのは、官渡の偶然である。論者らは、袁紹と曹操や、後漢と曹魏が興亡するカギを、ここに見つける。だが論者らは気づかない。官渡こそ、後漢の中後期からつづく、儒士階層と宦官階層の決着だ。官渡にて、儒士は宦官にやぶれた。儒士は西晋を興して、宦官の王朝・曹魏を倒した。司馬氏を、儒家の大族らが推戴した。
陳寅恪の観点で、袁紹から司馬氏までが、後漢の儒家大族の代表と見なされる。曹操が、宦官の寒族の代表と見なされる。
田余慶は、陳寅恪にいう。袁紹と曹操の対立は、じつは社会階層の高低差があらわれたものだ。陳寅恪は正しい。だが、曹氏が皇帝権力に転じたことを無視って、袁紹と司馬氏をむすぶのは、事実に反すると。
田余慶『曹袁の闘争と世家大族』はいう。曹袁の闘争には、1つの矛盾がある。献帝は、世家大族の利益を代表する。袁紹、楊彪、孔融らは、みな世族大姓の名士だ。だが袁紹は献帝をすてた。楊彪や孔融らは、袁紹から去った。曹操は、世家大族を弾圧したのに、世家大族は曹操についた。世家大族をあつめた曹操が、世家大族の袁紹をやぶった。
田余慶は、曹操を宦官勢力の代表といわない。曹操の身分を明らかにしない。陳寅恪のように、曹操を寒族としたようだ。曹操は、中小の地主代表とされる。
だが田余慶は、別の本で、矛盾したことをいう。曹操と袁紹の闘争は、社会階層のあいだの闘争だ。法家と儒家の闘争であると。
陳寅恪はいう。士大夫は経義をやり、宦官は文辞をやった。士大夫は仁孝をやり、宦官は智術をやったと。袁紹は士大夫の代表で、曹操は宦官の代表である。
袁紹は『孟子易』の学者の家に生まれた。曹操は、申商の法術、韓白の奇策をやったと。
劉蓉は、3つ補足する。1つ、曹操は、士家大族と争ってばかりだ。兗州から官渡まで、曹操の態度はおなじである。2つ、もし曹操が、世家大族でないゆえに袁紹の陣中で重んじられなければ、そもそも勢力を築けなかった。3つ、曹操の晩年の政治は、世家大族の傾向にかたむき、儒士に回帰する。政治のライバルが消え、皇帝をねらうとき、儒士にちかづく。
曹操がやったのは、田余慶いわく「治世には徳行をとうとび、乱世には功能をとうとぶ」である。
田余慶は、建安期の矛盾をほぐす。ただし田余慶も陳寅恪も、袁紹と曹操を、べつの社会階層を代表する人物とする点はおなじだ。
袁紹は大族、曹操は寒族であると。官渡の勝敗は偶然であり、「あなたの中に私がいて、私のなかにあなたがいる」がごとく、曹操に、袁紹由来の「大族の性質」がしみこんだ。曹操は、大族の利益を象徴する献帝をたすけた。
劉蓉は、袁紹と曹操の階層について考える。2人の階層は、ほんとうに違うのか。曹操は、汝潁の人士にほめられた人物である。宦官の出身であるが、世家大族と結合できる。出自が問題なのでなく、利益を共有できるかが問題だ。曹操の政治における声望や実力は、袁紹におとるが、名士大族と交流することでおぎなった。
官渡は、おなじ階層内での闘争だった。
緒論:名士の派閥、地域性と事功&浮華
党錮名士は、自覚的な政治集団をつくったが、狭隘な地域の観念にこだわった。全社会を範囲とする階層には、発展しない。
胡宝国『漢晋の汝潁名士』らはいう。戦国時代の文化圏は、前漢の行政区画であまり変更がない。『史記』や揚雄『方言』から、戦国の国名が、前漢の境界に痕跡をとどめると分かる。後漢になると行政区画がおおきく変更され、戦国の痕跡がきえた。
前漢は戦国と同じく、関中が政治の中心で、斉地とともに文化の中心だった。後漢になると、雒湯が中心となり、兗州や豫州が文化の中心になった。荊州の南陽は、汝南や頴川と、1つの文化圏だった。
後漢以後は、州郡を単位として、文化がまとまった。汝南と頴川の名士集団が、もっとも関心をあつめた。ほかの地域でも、冀州、兗州、荊州、涼州らで、各地を本籍とする名士集団ができた。
方詩銘『三国人物散論』はいう。涼州集団、并州集団、頴川集団、河北集団がいたと。余英時はいう。党錮により、士大夫の地域分化が全土にひろがったと。後漢末より、各地の名士は集団をつくったと。
孔融と陳羣の「汝潁人物論」に顕著となる。伝統的な関係と、利益の問題である。州郡の名士は、本籍がちがう名士を、敵視して排斥した。名士の地域性による対立は、建安の政治と軍事を、さらに複雑にする。のちに名士らは、地域性によるケンカをやめ、士族の身分を共同でつくりあげる。
ただし、漢魏の名士が発展するなかで、ことなる性質があらわれる。名士は「事功派」「浮華派」の両派閥にわかれる。司馬懿と曹爽の政権闘争にいたる。司馬懿は、曹操からの世族地主を代表する。曹爽は、腐った皇族らを代表する。曹操と曹丕のころ、あたらしい知識集団がまれた。漢末の名士の子弟と、戦乱のなかで起こった地方豪紳があわさったものだ。政治的には曹魏をささえるが、社会的には南北朝の士族社会をつくった人々だ。何晏、夏侯玄、王弼、鍾会らである。曹魏の、第2、第3世代の知識人である。わかい彼らが清談した。
漢末の袁紹と曹操の抗争、曹魏三代が浮華を禁じたこと、司馬懿と曹爽の政争は、一連の政治活動であると解釈できる。曹操から、曹丕、曹叡、まっすぐ司馬懿までが、事功派である。名士階層のなかで、才能や実効をおもんじ、冷静で現実的な性格だった。袁紹から孔融、何晏、鄧颺らは、浮華派である。談論や交遊をこのみ、玄遠な超脱をめざした。
事功派は、政治闘争で、いつも有利だった。だが浮華派は、文化価値により、最終的には主導権をとった。両者の闘争は、相互に依存しつつ、最終的には融合して、士族の特色をつくった。
次回から、本論です。手こずったけど、劉蓉の話のフレイムが見えたので、たのしい「緒論」抄訳でした。120209