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3章 名士階層の内部分裂

劉蓉『漢魏名士研究』を抄訳します。3章 名士階層の内部分裂。

1節 事功派と浮華派_130

王夫子が漢晋100年の国政や風俗をまとめていう。
漢魏の名士には、2つの矛盾した性格がある。1つは、名実をこのむ人。崔琰と毛玠らだ。2つは、交遊をこのむ人。党錮、諸葛誕、鄧颺らだ。漢魏の名士の歴史は、この2種類の消長である。

党錮と、諸葛誕と鄧颺がセットなのかー。

漢魏の名士は、州軍単位の地域差をのぞいても、たしかに、事功派と浮華派の区別がある。何劭は王弼に「事功だが、雅でない」といった。事功の王弼と、浮華の何劭が、漢魏名士が2種類いた好例である。

1 事功派の名士とその特徴_131

漢末から、世を救ってくれる事功派が重んじられた。『三国志』呂布伝につく陳登伝で、陳登が評される。許汜と劉備が、陳登に世を救えるかを議論した。『三国志』邴原伝にひく『原別伝』で、孔融が邴原に「劉備は世を救う」と推薦する。

時代状況が名士に、立功、立事を求めたのは、共通認識である。
曹操と袁紹の対立は、立功のためである。官渡のとき、もう宦官がおらず、世族と寒門の対立もない(劉蓉の理解は曹操を寒門としない)。だが袁紹と曹操は、戦わねばならなかった。
汝潁の名士が、曹操と袁紹をそれぞれリーダーに選んだのは、立功できると考えたからだ。『三国志』荀彧伝はいう。荀彧は袁紹に「賓礼」を受けたが、曹操がうわまわると考えた。荀彧は、田豊、許攸、審配、逢紀らを評論して、袁紹集団の弱点をいった。

そうか。荀彧は、田豊、許攸、審配、逢紀らと、うまくやれなかったから、袁紹集団を脱出したのか! という、本編とは関係ない憶測を思いついた。

郭嘉が袁紹をやめたのも、おなじ。郭嘉も荀彧とおなじく、曹操をほめる。荀彧と郭嘉が完全一致するのは、 当時の大部分の名士の共通意見だったのだ。?
賈詡も、曹操を評価してくだった。

曹操が、実務できる名士を重んじたのは、一貫した方針である。『三国志』何夔伝にひく『魏書』で、陳羣と何夔に、劉備による混乱をしずめさせた。『三国志』常林伝で、刺史の梁習にあつめられて県長となった。武帝紀で、荊州から15人を侯とした。
この方針は、求才令3つに明らか。建安十五年、建安十九年、建安二十二年。「徳」と対置させた「才」をもとめた。ただし道徳を無視したのでない。「徳」に挑戦したとみるのは、単純化しすぎだ。

「徳」「才」が対立するものか、という問題の立て方は、ぼくにとって意味がない。それは、曹操の同時代人が話し合って、曹操の方針に意見すればいい。そうでなく、なぜ「徳」「才」という対立構図が、後漢末に着目されたか、という問題を立てたい。


陶丘洪は、何顒と許攸に「王徳弥は大賢だが、時をすくえない。許子遠は不純だが、難におもむく」と言った。これは、名士の2種類の性格をあらわす。人格が優れるが、有用でない。人格が劣るが、有用である。
現実的な性格の曹操は、後者を重んじた。
うらぎった魏种を、河内太守にした。広陵の陳矯は、婚姻ルールをやぶったが、曹操に用いられた。『三国志』陳矯伝にひく『魏氏春秋』にある。典軍校尉の丁斐は、公費をつかいこんだが、ゆるした。『三国志』曹爽伝にひく『魏略』にある。

檄文を書いた陳琳を、曹操はゆるした。
『三国志』王粲伝につく陳琳伝にある。沛国名士の劉陽は、曹操を殺そうとしたが、王朗が和解させた。『三国志』王朗伝にひく『朗家伝』にある。北海名士の王修は、袁譚の別駕であり、袁譚の死を悲しんだ。田疇は、袁尚の首級に哭いた。 曹操は、王修と田疇をみとめた。旧主を慕うことに、寛大だった。
広陵の臧洪は、張超にしたがう。張超は曹操を殺そうとした。曹操は雍丘で張超を平定した。袁紹が、臧洪を囲み殺した。臧洪の始末について、袁紹と曹操がモヤモヤし、注引『三国評』で叩かれたのは、時代の性質が関係する。
東平の畢諶は、かつて曹操の別駕だが、曹操にそむいた。のちに曹操に用いられた。冀州の刑顒は、旧君のもとにいった。金城の成公英は、韓遂から降った。『三国志』張既伝に、成公英の重用がある。
荊州にいた、文聘や王粲も、曹操に用いられた。
以上のように、曹操は投降した人材に寛容である。
西州の楊阜はいう。曹操がよく人材を用いて、その人材に力を発揮させると。曹操は、世をすくうために、事功派をもちいて勝利した。

事功派の代表は、曹操だと。理解、完了(笑)


2 浮華派の名士とその特徴_144

浮華とは、奢侈で浪費すること。『三国志』和洽伝、『呉書』華覈伝など。
章句儒学や伝統礼法をやりつつ、交遊に熱中する。博学だけど、章句を守らなくなる。そんな人たち。「儒者の風」というには、章句を守らねばならんから、浮華はちがう。後漢の和帝のとき、『後漢書』魯丕伝で、魯丕が浮華を非難している。和帝は魯丕をヨシとした。ただし魯丕みたいに、異説を攻撃する人は、それほど多くない。
頴川の荀淑は「博学だが章句を好まず、俗儒にそしられた」とある。ここから、儒学と浮華は、学問の分野が明確に区別されていたとわかる。

浮華は、先王にのっとらない。浮華は、後漢の太学でもやられた。『後漢書』循吏伝で仇覧は、浮華の符融と対立した。「天子がつくった太学で、符融は浮華をやり、賓客と遊んでやがる」と。

符融は、郭泰の友だち。党錮と、何晏をむすぶ話は、ここから出てくるのか。ちゃんと「章句を守らない奴ら」という、史料にもとづく定義があるから、確かな指摘だと思う。

浮華が「名実を修め」ないのは、『晋書』庾峻伝でもある。

浮華について、くわしいが、興味が逸れるので、152頁にとぶ。


袁紹は、浮華で不実な名士をつかったので、「奇士が去った」 とき、曹操に破れた。曹操は、浮華を去らせ、実効をおもんじた。袁紹を破ったあと、曹操は名士のリーダーとなった。曹操が袁紹に勝ったのは、事功が浮華に勝ったという意義をもつ。

浮華がいると、負けるのかー、なるほどー(表面的な理解)
魏の明帝とか、あまり興味がないので、こまかく読まない。182頁の小結を見て、要旨だけはつかむ。


小結_182

名士階層が発生した。おおくの名士がもつ、個性の違いにより、鮮明な分岐がおきた。事功派と浮華派である。
事功派の名士は、忠正務実、政治がうまい。経国済世の才幹があった。浮華派の名士は、博学善弁で、思考がうまい。実務の経験には経験が足りない。
曹操と袁紹が戦ったとき、曹操は人材をあつめ、とくに事功派をつかった。袁紹は、言葉をかざる浮華派をつかった。曹操の勝利は、事功が浮華に勝ったことを意味する。
曹魏のとき、政治局面がかわった。事功と浮華は、ことなる政治派閥をつくった。曹魏の歴史は、複雑に変化した。
1つに、曹丕父子と、曹植の対立があった。やがて、曹氏と司馬氏の対立となる。もう1つ、前述の対立は、事功と浮華の闘争でもある。王夫子によれば、曹魏の歴史は、「国政」と「風俗」が影響しあい、闘争したものである。曹操から曹叡まで、浮華を禁じた。正始の政変には、事功と浮華の勢力バランスが反映された。

曹操は事功で、曹植は浮華。だったら、なんで曹操は、曹植を後継者に考えたんだろう。飛ばさずに読めば、書いてあるのかな。


浮華の名士が政治舞台で失敗すると、「どうせ何もできない」と批判された。浮華の性質をもつ党錮は、滅びていった。だが浮華は、党錮の失敗をくり返さない。明帝の太和六年、浮華につらなる人が多いので、許された。おなじように、司馬懿は事功派の代表として、浮華派を攻撃したが、浮華をつぶせなかった。党錮と同じように、コケそうな浮華は、なぜ曹魏でコケないか。
王夫子は「風俗が変遷した」という。
魏晋では玄学が発達したので、浮華を無視できなくなった。皇帝権力となる司馬氏は、浮華に妥協していった。党錮をくり返さずにすんだ。

党錮と、魏晋の浮華をむすぶのは、おもしろかった。
後漢の党人は、わりに官吏経験があると思う。政治経験が少ないから敗れた、とは言いにくい。それよりも、玄学がすすんだ風潮に後押しされて、日の目を見たってことか。
ここに気になるのは「章句を守らない」浮華の、普遍性。いつの時代だって、書物と読者があれば、それをキッチリ読みたがる人と、ザックリ読んで好きに発言したがる人が出てくる。この構図を「漢魏の特徴」と言えば、いま劉蓉のような指摘になる。だが、どこにでもある特徴が、たまたま共通した、というなら、因果関係までは言えない。
つまり漢魏に「章句を守らないが、政治で成功した人」「章句を守っても、政治で成功しなかった人」が、どちらも無視すべきほど少ないことを言わないと、いけない。さもなくば、後漢の魯丕が否定した人が、党人となり、曹爽となり、魏晋の主役になった、という話を主張してはいけない。
たとえば、徳川家康がタイの天ぷらが好きとして(ホントだか知らん)、ぼくがタイの天ぷらを好きだとしたら、ぼくは徳川家康と同派閥、後継者なのか。そんなバカな。


つぎは、いちばん面白そうな4章。つづく。120212