表紙 > 読書録 > 劉蓉『漢魏名士研究』中華書局2009の日本語訳

2章 漢魏名士の地域分化と融合

劉蓉『漢魏名士研究』を抄訳します。2章、129頁まで。

2章 漢魏名士階層の発展_054

いかにして名士は、新しい社会秩序を築いたか。いかにして名士は、新しい社会のなかで、政治地位をえたか。

1節 名士のおこり

1 党錮名士と、継承する名士の再起

桓帝や霊帝のとき、外戚や宦官とあらそい、名声は声望をえた。

渡邉先生の「名士」論について、先週、あれこれやった。劉蓉の本を読んで思うのは、概念規定が、けっこう大らかってこと。史書に出てくる、外戚や宦官と抗争する「正義派」ならば、みんな名士である。魏晋士族(劉蓉は「貴族」とは言わない)への系譜を、ちゃんと明らかにしてくれるのだろうか。

宦官に抵抗して、全国におよぶ政治勢力となった。金発根の分析によると、全国の分布は以下のとおり。
司隷は、河南3人、河内1人、、以下略。
交州をのぞき、全国に党人がいたとわかる。豫州の頴川21人、汝南17人、頴川の山陽28人がおおい。「三君」陳蕃は汝南、「八俊」李膺、荀彧、杜密は頴川、「八顧」范滂、蔡衍は汝南、宗慈は南陽。「八及」陳翔は汝南、岑晊は南陽である。党人の総数の4分の1である。

ほかの歴史(何を指すのかアイディアなし)で、特定の政治勢力が、おなじ土地に集中して現れる事例って、あったっけ。特定の地域の叛乱で、その地域の人がおおいのは当然。だが党錮は、おもに中央の争いだが、地域性がつよい。これは、特殊だなあ。
しかし、もともと人口のおおい3郡だと、1章に書いてあった。3郡を集めても、4分の1って、おおいと言えるのだろうか。微妙じゃないか。

党錮により、名士の社会的・政治的な影響が動揺した。
名士は、李固と杜喬から「士節」もち、清く正しく、人材を選び、生命をかけて実践した。郭亮、董班、楊匡は、李固と杜喬の死体をとむらい、さいごには太后に許された。彼らの士節は、社会の合意を得られた。
対照的なのが、胡広と馬融だ。胡広は、李固より梁冀につき、宦官と通婚したので、そしられた。馬融は、梁冀のために、李固を責める文書をつくった。馬融は外戚であり、呉祐や趙岐に軽蔑された。胡広と馬融は、士節がない。

胡広と馬融は、劉蓉のいう「士節」を果たさず、名士に入れてもらえないようだ。この本にいう名士の定義とは、儒教の行動原理に原理的に従う(と『後漢書』に記されること)だ。もっぱら言動によって決まる。『後漢書』に史料批判しないとすれば、フェアである。外戚と宦官を、まとめて敵と認定するのは、単純すぎる構図だけど。

梁冀の長吏・呉祐が「馬融のせいで李固が死んだ」といった。三輔の人士が、馬融との交際をやめた。当時の名士たちの、馬融に対する態度から、李固を慕い、梁冀を嫌ったことがわかる。

党錮により、名士は宦官に敗れたが、声望は高いままだった。『後漢書』韋著伝で、韋著は東海相になった。皇甫規伝で、皇甫規は党人に列されないのを恥じた。
黄巾のとき、党錮が解かれた。劉表は、大将軍掾となった。のちに荊州刺史となり、名士の「楽土」をつくった。

劉表は山陽の人。山陽の党人は、汝潁や南陽よりもおおい。山陽人士に着目してみると、何かが言えるかも。

南陽の何顒も、汝南に隠れていた。党人名士は、宦官と戦いながら、迫害されつつ、全国の支持をとりつけた。袁紹、曹操のとき、おおきな政治勢力をにぎる。

党錮は、名士をゆるがすには到らない。むしろ、戦いのなかで強くなった。名士の名士たる性格のアウトラインが固まった。名士の闘争は、梁冀の時代から始まり、袁紹や曹操で結実する。劉蓉の議論は、こうなってる。
ぼくは思う。なんという「無時間モデル」でしょう。名士は、李固や杜喬に始まり、袁紹や曹操で最強となるまで、本質的には変化しないと。時間による性質の変化を、カウントしなくていいと。ただ量的に拡大していくだけだと。
こんなこと、ロコツに書いてないが、劉蓉の議論は、そうらしい。
まだ日本の研究史のほうが、納得ができる。細かすぎる、難しすぎる、というキライはあるが、、はじめから『後漢書』の単純化を、そのまま継承しなくてもいいじゃん。


2 名士袁紹_059

袁紹は、士人にへりくだり、濮陽長として「清名」をえた。辟命に応ぜず、宦官に目をtけられた。「八厨」張邈に交わる。荀攸伝にひく『漢紀』で、何顒とまじわる。党錮のとき、危険を冒して、党人をたすけた。宦官を殺した。
袁紹の宦官殺害はムゴいが、行動理由は奥ぶかい。桓帝の宦官のときから、党人名士は苦しんだ。袁紹は、宦官を全滅させることで、皇帝権力を再起不能にした。袁紹は政治資本をあつめて、朝野から中心人物だと見なされた。

3 名士曹操_061

曹操がどの身分に属するか。この問題は、議論がおおい。宦官の階層を代表する、庶族地主を代表するなど。しかし曹操がいたのは、士族的な名士階層が凝固する時期である。曹操を名士としてあつかう。

◆1 曹操の出身
曹操の祖父は、宦官である。先行研究は、名士と宦官を相容れないという。
しかし趙翼『廿二史札記』は、「宦官にも賢者がいた」という節をもうける。鄭衆、蔡倫、孫程、良賀、曹騰、呂強は、官僚党人と敵対しなかったという。曹騰は、桓帝を立てるときには、李固とモメた。これは、劉蒜が宦官に冷たかったからであり、曹騰の意見は、ほぼ党人名士と同じである。曹騰は、名流士大夫と、良好な関係をもった。

「党人名士」「名流士大夫」など、原文に合わせて単語を使っていますが、一貫しないなあ。大らかだなあ。
趙翼は曹騰を「賢者」とするが、それにあたり、桓帝を立てたことへの「弁護」が必要。つまり趙翼も、桓帝を立てたことは曹騰の汚点と見なしているらしい。

宦官は、つねに名流士大夫と対立しない。状況による。『後漢書』宦者伝で、种暠をみとめた。汝南袁氏は世家大族だが、中常侍の袁赦とつながった。宦官と世家大族は、対立しない。

宦官と名士の対立、というのは単純化した構図だ。そんなこと、誰でも知っている。すべての宦官が、すべての名士と、戦わねばならぬ、ってことはない。例外はある。誰でも知ってる。今さら言わなくてもいい。
ただし劉蓉氏は、名士の典型&代表例として、袁紹と曹操をもってきた。袁紹と曹操こそ、順帝のときからの党人の党争を結実させたという。その袁紹と曹操に、例外を認めてしまった。典型例が例外、、議論が破綻してないか?
渡邉先生の「名士」論に、いろいろ疑問があったので、この本を読み始めたのだが。とくに解決できそうにない。


荀彧の家は、荀淑がいた。王暢、李膺が学びにきた。荀淑の子・荀爽は、党錮のとき海上ににげた。
だが、党人と宦官の対立構図は、ガチガチでない。頴川荀氏は党人だが、荀彧は、中常侍の唐衡との婚姻がある。頴川の陳寔は、中常侍の張譲の父を弔問した。状況によっては、名士は宦官とむすぶ。

1章では、名士の性質は、宦官との対立だったのに。

李膺や陳蕃は、宦官と抗争した。だが、袁隗、荀緄、陳寔は、宦官とつながる。だが袁隗らの家も、清議を受けて、全社会から名声をもらった。

劉蓉の破綻は、「宦官vs名士」という構図、終了のお知らせなのでは。
「党人」として処分されたのは、李膺や陳蕃ら、政治の一派閥。汝南袁氏、沛国曹氏、頴川荀氏は、そいつらと性質がちがう。荀氏は党錮をくらったが、全員でない。党錮の処分が、家でなく個人に向けられたからなあ。のちに五族?に拡大されるが。
存在するのは、勝者と敗者だけであり(いつの時代だってそうだ)、敗者への色のつけかたを、范曄が誤ったから、史家の認識が混乱した。
つまり范曄は、
李固と杜喬より以来、負けたほうを「清い」の一言でまとめた。このザツなまとめが、劉蓉氏の議論により、ぎゃくに浮かび上がった。『後漢書』の編集方針は、「和帝以降、後漢は滅びてゆく」である。滅びの原因を探さねばならない。結果、「負けたほうが清かったのに」という、仮定法過去完了?の語法で語られてゆく。「李膺を負かしちゃったから、後漢が傾いたんだよー」という指弾。もし霊帝期の人がこれを聞いても、なんら改善しようがない結果論だなー。
袁紹や曹操の時代になると、『三国志』と交差するし、後漢が滅びる理由のほかに、魏晋への連結を説明せねばならんから、編集方針も複雑になってゆくと。
「宦官vs党人」までは語れる。同時代のテーブルで対立したから。だがここに記したように「宦官vs名士」は言えない。すなわち、党錮された人々と、魏晋士族につながる名士は、ベツモノであると言ったほうが、スッキリする。
なぜなら、宦官と党人、どちらの性質ももった、袁紹、曹操、荀彧が、つぎの時代の主導権をにぎるから。党錮とは、相関を見出しにくい。時代が近いから、「党人」と「名士」の構成員は重複する、もしくは1代か2代しか隔たってない。だが、生物学的には同一人物でも、歴史学?の概念でくくるのは、むずかしい
難解なことを書いたので、たとえる。
ある大学のラクロス部員9人に、高校時代の部活を聞いた。サッカー部3人、野球部3人、茶道部3人だった。ここから、「ラクロス部員の主要な属性、元サッカー部員である。元野球部員でない。ラクロスとサッカーは競技が似ているが、ラクロスと野球は似ていないからだ」と推論するほど、メチャクチャ。比喩の種明かし。ラクロス=後漢末の名士、サッカー=党人、野球=宦官、茶道=その他ね。

曹操は、祖父が宦官である。父が太尉を買った。だが父は、性質を名士にほめられた。曹騰と名士、曹嵩と名士は、相性が悪くない。曹氏からは、頴川太守の曹褒、長水校尉の曹熾、呉郡太守の曹鼎がいる。曹操は、汝南袁氏ほどでないが、遜色のない名族の出身である。

宦官・曹騰のおかげでな。曹騰と、曹氏や曹鼎の昇進は、関係があるのだろうか。そういえば、マジメに問題設定したことがない。


◆2 曹操の性格の特徴と、個人の努力_064
曹操は遊侠だった。朋友がいた。袁紹、張邈、許攸、何顒らとの共通点は、みな当時の名士だったということ。

「名士であることが共通点」って、新しい知見がある指摘か?

遊侠をこのみ、宦官との闘争にくわわり、奔走の友となり、自覚的な政治集団をつくった。

曹操って、宦官と闘争したか?

曹操らは、党人名士をこえる活動をした。袁術と陶丘洪がケンカした場面から、曹操らの特徴がある。党人は「世の模範となり、天下を清める」だけだった。曹操らは、あたらしい歴史的条件のもと、党錮の教訓をもとに、自覚的な組織をつくった。「相互に救済する」秩序をつくった。

へー。党人が個別撃破されたから、「党人+遊侠」の曹操らは、個別撃破されないように、助け合ったと。党錮のときも、党人たちは助けあってたように見えるけど。そして、曹操や袁紹の交遊記録が、『三国志』にたくさんあるのは、曹操が「武帝」だからだろう。互助の交際が、後漢末に「党人を改良して」生まれたと理解するのは、ムリだなあ。方詩銘が「八厨」について説明するとき、秦漢からの事例を出していたし。

曹操は、宦官に屈しなかった。雒陽北部尉のとき、蹇碩の叔父をたたく。曹操の名士としての政治態度は、社会に支持されて、養われたのだ。

「曹操を党錮の継承者」と理解するのは、おもしろいなあ。当然だけど、曹操の話になると、史料が『後漢書』から『三国志』にうつる。編集方針の違いもあろうに、単純につなげてしまう。『三国志』の曹操は、帝王神話だろうに。
っていうか范曄が『後漢書』をつくるとき、『三国志』との接続を意識したんだろうか。『三国志』が正史に認定されるのは、范曄より後代。『後漢書』と『三国志』の列伝の重複は、微妙なところ。范曄の意図について、どんな手がかりがあるのでしょう。


◆3 曹操が獲得した、名声と身分_068
人物評が、発展した。曹操は、橋玄に「命世」といわれた。「命世」は「名世」のことで、『孟子』公孫丑にある。「命世」は曹操のキーワードになった。頴川の趙𠑊、辛毗、陳羣、杜衆らは、「命世」する曹操に帰順した。趙𠑊伝にある。

趙𠑊伝、読んでない。読まねばー。

曹操が兗州に迎えられ、兗州を保ったのも、「命世」ゆえ。曹操は橋玄の祭りを、怠らなかった。
何顒や許劭にも、曹操は「英雄」と言われた。李膺は、子の李瓚に「曹操につけ」といった。曹操は英雄である。劉邵『人物志』は、英雄についての専論である。『三国志』文帝紀にひく『典論』自序は、曹操の文武をいう。万縄楠は、曹操が名声を得られたのは、出身でなく、本人の能力のおかげという。

李固と杜喬から始まった名士は、党錮によって停止したのでない。儒学にもとづく文化、外戚や宦官と対立した政治により、名士階層を形成した。外戚と宦官は、後漢の皇帝権力とともに衰退した。だが名士は建安のとき、民を救って、あたらしい政権をつくった。唐長孺のいう「魏晋士族の基礎を構成した」である。

李固の無念を、曹操が晴らしたと。なんだかなー。

曹操が名士であることは、当時の普遍的な認識だった。『三国志』荀彧伝にひく『平原禰衡伝』で、曹操と荀彧と趙融が、名士として並んでいる。禰衡は却下したけど。

荀彧がけなされるシーンで、曹操も同列に貶されているんだなあ。意識してなかった。渡邉先生は曹操を「君主」として、「名士」の列で論じるのを辞めてしまう。曹操を名士の一員(に過ぎない)で論じる、劉蓉は、この点では発見がおおい。
禰衡は、孔融と楊脩をほめる。陳羣、司馬朗はダメ。陳羣、司馬朗のつぎに出てくるのが、曹操、荀彧、趙融。陳羣や司馬朗のほうが、さきに話題になるんだなー。


2節 漢末名士の地域ごとの影響_076

『後漢書』党錮伝で、20余年も党錮がつづく。このあいだ、各地で名士が地域ごとの特性をもった。

1 漢魏交替期の、汝潁と冀州

汝潁の名士は、董卓が雒陽に入ったのち、すべて復興した。袁紹や曹操のもとで、戦った。袁紹のもとで、汝潁名士と、冀州名士が緊張した。

◆1 頴川名士の韓馥が、冀州に入り、冀州名士と対立
中平六年、董卓は、司徒に黄琬、司空に楊彪をつけた。党人名士の爵位をもどし、子孫昆弟をもちいた。汝潁と南陽の名士が、朝廷や地方の要職についた。董卓の父親が頴川におり、董卓は頴川で生まれた。董卓は、名士をもちいた。荀爽、陳紀、韓融がもちいられた。頴川の張咨は、人口が最多の南陽太守。頴川の韓馥は、民と糧のおおい冀州牧。
伍瓊、荀爽、陳紀、韓融、韓馥、張咨は、汝潁の名士である。
韓馥は、政治の経験がすくないので、頴川名士を冀州に連れていった。頴川名士は、治理をこのみ、冀州名士とぶつかった。

袁紹のもとで、頴川人と冀州人がぶつかる。この筋書は、もう韓馥のときに完成していたのか。袁紹は、韓馥の体制(人材)を、スライドしただけだなあ。

『英雄記』に、韓馥と冀州名士の、不協がある。韓馥が「董卓か袁紹か」と問題を立てると、侍中の劉子恵が「董卓か袁紹かと、言っている場合でない」と叱った。韓馥が劉子恵を斬ろうとしたので、冀州名士は韓馥をきらった。冀州名士は、袁紹に任せたいと考えた。冀州が分裂してから、袁紹をむかえた。袁紹伝、張郃伝など。
袁紹は韓馥の部下だった、高幹や荀諶にみちびかれ、冀州牧になった。

◆2 袁紹が冀州をおさえ、冀州名士をつかう
袁紹は、荀諶ら頴川名士の支持により、冀州をとった。だが、韓馥や公孫瓚が、残敵である。韓馥を殺し、公孫瓚を界橋でやぶった。
また韓馥とおなじように、袁紹にとって、冀州人が敵となる。韓馥 に反省して、沮授、審配、田豊、朱漢をもちいた。彼らは、郷里に名声があり、宦官と戦ってきた名士だ。
袁紹には、2つの集団がいた。荀諶、辛評、郭図ら頴川名士。審配、田豊、沮授ら冀州名士。いくら頴川名士でも、本郡をはなれると、名声が低下する。魏晋になっても、汝潁と幽冀の対立があるほどだ。
和洽伝に「袁紹は汝南の士大夫を迎えにゆく」とある。袁紹は、韓馥のように「頴川かわいい、冀州きらい」という幼稚な差別をしないが、大部分の冀州名士は、もちいずに保留した。『後漢書』袁紹伝はいう。冀州の耿武と閔純は、袁紹に服従しなかった。また袁紹は田豊をつかい、耿武らを殺そうとした。ほかにも袁紹が「ひどく悪んだ」のは、趙浮と程奐である。強兵をひきいたが、史料から消えた。袁紹に滅ぼされたのだ。
袁紹は、汝南の人士をまねき、冀州の人士をころした。

田豊や沮授は、冀州の主流でなく、「袁紹に味方した一派にすぎない」ということ。冀州名士を、すべて退けた(ほんとうにそんなことがあるのか)韓馥は、冀州牧として論外。一派をつかい、一派を滅ぼした袁紹は、まだ合格点だと。


◆ 汝潁と冀州が衝突し、袁紹がほろぶ_085
頴川の郭図と淳于瓊仲簡は、献帝をいらんという。沮授は、献帝がほしいという。彼らの対立は、許攸と張郃を、官渡で裏切らせる。審配は、許攸の「不法」をいった。『三国志』王修伝で、曹操は審配の宗族から、財産を没収する。審配は、許攸の財産をポケットに入れていた。武帝紀にひく『魏書』曹操令にも、審配の宗族がガメたことが記される。

審配の話、知らなかった。なるほどー。

袁紹は、沮授の軍権を3分割した。汝潁名士のポケットにうつした。田豊と沮授の意見をもちいなかった。審配は、袁紹の死後、汝潁集団に打撃を与えた。官渡の敗因は、張郃と高覧の投降だ。裴松之は、張郃が負けそうだから投降したと言うが、誤りだ。冀州人士の張郃は、袁紹集団と利害が対立していた。

曹操のもとには、同じことが起きないか。起きない。曹操は、許県を根拠地とするから。曹操の名声は、頴川や汝南を場とする。曹操の主要な名士(荀彧ら)は頴川の人である。だから、利害が対立しない。だが豫州をまるまる抑えたのでなく、汝南には「豪族」が残っているなあ。
曹操が、なかば兗州を放棄したのは、そういう理由か。兗州では、現地の豪族とうまくいかなかった。沛国を根拠としないのは、曹氏が沛国に影響力がすくなく、一族の員数に限界があるからだろう。沛国よりも、荀彧らの故郷を選ぶほうがよかった。
そういう点で、孫権が呉郡や会稽にいたのは、袁紹とちがい、曹操と同じである。うまくいくわけだ。劉表は、すげえよ、1人で、よくがんばった。袁紹の敗北を、個人の資質じゃなくて、州牧や太守が必然的にかかえる葛藤にまで、一般化して理解したいな。

冀州と汝潁の対立は、袁譚と袁尚の滅亡をみちびいた。『典論』にある。曹丕の観察によれば、兄弟の対立は、審配と逢紀、辛評と郭図の闘争だ。
逢紀の本籍は資料にないが、田豊や審配と緊張し、辛評や郭図と距離があるから、中間派だろう。しばし審配とむすんだが、袁譚とうまくゆかず、袁尚をかついだ。審配が袁譚の手をかりて、逢紀を殺したのは、必然である。

汝潁と冀州の対立とおなじことは、あちこち群雄であった。兗豫、益州、荊州、江東で(方詩銘2000)。清く新しい政治理念をたてても、地域の利益の上でぶつかった。州郡の名士をもちいるとき、本籍と非本籍で排斥しあった。

献帝期より前、長官だけは非本籍だが(ルール)長官未満は、本籍の人をもちいるのがルールだった。このルールを崩すから、失敗するんだよなー。そりゃ長官たちは、乱世ゆえに使いやすい人材がほしく、個人的に紐帯のある人材を使いたくなる。でも使っちゃうのが、マズかった。袁紹が、しきりに汝南から人材を供給したのが良くなかった。いや韓馥が、ほぼ頴川人のみで冀州牧府を主催した(そこまでは書いてなかったっけ)のが、良くなかった。

建安に軍事が複雑になるのは、地域の名士集団の利益が、複雑になるからだ。名士を全国でまとめることが、階級にとっての課題である。

やっぱり、人の目がとどくのは、せいぜい郡なのだな。


2 曹操が兗州に拠るが、兗州に叛かる_093

曹操は袁紹と同一の、名士集団に属するが、渤海太守の袁紹ほどは影響をもてない。陳留太守の張邈をたよった。『三国志』衛臻伝にひく『先賢行状』『郭林宗伝』から、衛茲が曹操をたすけたと分かる。衛茲は郭泰にほめられ、名士となった。
曹操は衛茲のおかげで、東郡太守となった。
後漢の「正式で有効な任命」は、董卓が韓馥を任じたのち、停止した。『三国志』程昱伝はいう。袁紹は、袁紹の妻子を劉岱にあずけてまでも、兗州を重視した。袁紹は曹操を庇護して、兗州をとった。
『三国志』袁紹伝にひく『魏氏春秋』はいう。袁紹は曹操に「東郡太守、兗州刺史」を「表行」させ「虎文」をあたえたと。李善のひく謝承『後漢書』はいう。袁紹は曹操を東郡太守とした。劉岱が死ぬと、袁紹が曹操を兗州刺史とした。
袁紹は、自分で官吏を任命した。成否は、実力次第だった。
金尚は、献帝に任じられた兗州刺史だったが、後漢より袁紹を重んじる曹操に退けられた。袁紹は、『三国志』袁紹伝にひく『英雄記』で、冀州牧の壺寿を斬った。公孫瓚は、厳綱、田楷、単経を刺史として、郡県に長官を置いた。
曹操が兗州刺史になれたのは、けっきょく、後漢のおかげでなく、兗州名士の支持があったからだ。

曹操は東郡太守の資格にて、于毒や眭固や於夫羅らと闘争中なのに、青州黄巾を討った。兗州の「州吏」の動向がカギである。鮑信と陳宮にかつがれた。
みな兗州をねらう。袁術が匡亭にきた。袁術は、公孫瓚、陶謙、劉備と連動していた。袁紹、曹操、劉表が連動した。曹操が兗州をまもる戦争は、袁紹とむすび、袁術、公孫瓚、陶謙をふせぐ戦いである。しかも兗州で内乱までおきた。

曹操は、陳宮、鮑信、衛茲にかつがれた。だが兗州名士には、曹操に従わぬ名士がある。王匡が代表である。
『三国志』武帝紀にひく『英雄記』はいう。王匡は泰山の人。張邈とおなじ遊侠。『三国志』董卓伝で、河内太守として泰山兵をひきい、河陽津に進軍した。武帝紀にひく謝承『後漢書』で、蔡邕と仲がよい。王匡が執金吾の胡母斑を殺したので、その遺族が曹操に味方し、王匡を殺した。
『三国志』袁紹伝にひく謝承『後漢書』で、王匡は袁紹のために、妹夫を殺した。袁紹と友好するから、曹操とも友好しても良さそうだ。だが曹操が王匡の兵力をおそれ、王匡の兵力を兼併しようとした。
陳留の辺譲も、曹操に対抗した。『後漢書』文苑列伝はいう。辺譲は何進に辟された。孔融や王朗とまじわり、蔡邕にほめられた。曹操を軽侮した。陳琳の檄文にある。
王匡と辺譲を殺したので、兗州名士は曹操に反抗した。

胡母斑と王匡の事件により、張邈がそむいた。『三国志』高柔伝に、曹操と張邈の不和がある。陳宮も「自疑」して、呂布をむかえた。陳宮は、せっかく曹操を東郡太守にしたが、曹操は夏侯惇を東郡太守とした。陳宮の勢力は東郡にあったが、夏侯惇の従わざるをえず、つまらない。夏侯惇伝、荀彧伝で、曹操が留守のうち、夏侯惇が兵権をもった。王匡とおなじく、豪傑名士は私兵をもつものだ。陳宮も私兵がいたはずだ。陳宮は、大部分の私兵を夏侯惇にとられたはずだ。陳宮は夏侯惇から私兵を奪いかえした。
陳宮は荀彧伝で「東郡にいた」とあるだけで、場所がわからない。夏侯惇は、惜しまず東郡の治所とする濮陽をすてた。陳宮の縄張だからだ。夏侯惇は、すぐに鄄城にゆき、そむいた数十人を殺した。呂布をいれた陳宮が、最初に拠点としたのが濮陽である。濮陽は、陳宮が知り尽くした地である。夏侯惇は東郡太守として濮陽にいたので、陳宮は脅かされる気分だったのだろう。王匡と辺譲のように殺されないかと「自疑」したのだ。

なんか新しい解釈??

濮陽で、曹操はしばしば苦戦した。

曹操は袁紹とおなじ失敗をしない。兗州に入るとき、黒山と黄巾をうち、軍事的な才能を示すことで、兗州名士の信頼をかせいだ。張邈と陳宮に勝つことで、兗州名士はくじけて、曹操に従った。汝潁の名士を中心に、兗豫の豪傑名士がくわわり、曹操集団をつくった。だから曹操は勝てた。

袁紹は冀州名士を潰しきれなかったが、曹操は兗州名士を武力弾圧して、潰したと。なんて乱暴な(曹操)なんて乱暴な(議論)。曹操は、兗州名士を腕ずくで従わせ、中原に政権を建てたのか。えー。


3 汝潁名士と譙沛集団_106

万縄楠は、曹操のもとに「汝潁集団」があったという。荀彧と荀攸が中心である。曹操が丞相になると、荀彧は尚書令。曹操が魏王になると、荀攸は尚書令。『荀彧別伝』によると、荀彧の功績は、、はぶく。
荀彧と荀攸をつうじて、曹操は社会資本を利用し、民衆の支持をもらった。曹操が勝った条件である。曹丕は黄初二年、頴川の田租をもどした。つまり曹操は、頴川の田租を免除していた。
兗州のとき曹操は、陳宮に「州郡みな応ず」ので、苦戦した。官渡のとき曹操は、頴川の老若に協力してもらえた。文帝紀にひく『魏書』にある。

万縄楠は、譙沛集団も、曹操政権の柱だという。

袁紹にとっての、汝潁名士である。曹操がいかに裁くか、興味があるなあ。支配地の本籍人と、支配者の同郷人、という対立図式が、袁紹を滅ぼした。「袁紹:汝潁:冀州=曹操:譙沛:汝潁」である。汝潁の位置が、ちがっていることに注意だ。

曹操政権で重要なのは、督軍、四征将軍、中領軍、中護軍だ。曹操のとき、四征将軍は、夏侯淵と曹仁と張遼のみ。おなじランクの官位は、大将軍、督軍の夏侯惇。都護将軍の曹洪。ほかの、于禁、楽進、徐晃、張郃らは官位がおとる。軍事は、沛国譙県の人にあったとわかる。中護軍と中領軍は、宿衛では最高の軍職だが、曹操のとき置かれない。中護軍の韓浩、中領軍の史渙、曹休、曹真がいる。許褚は武衛中郎将。史渙は沛人で、許褚は譙人だ。
譙沛は、汝潁と異なり、尚武の特色がつよい。曹操は、汝潁の文化と、譙沛の軍事を、うまく助け合わせた。

譙沛って、武人ばっかだった?いくらでも反例がありそうだ。辺境に武人が多いのは、環境に要因を見つけられそうだが。
土地の特色でなく、曹操の人材活用の方針がつくった差異だろう。人為的なのだ。どうしてこうなったのかは、先を読んだら分かるかな。


武人は、投降した人とか、卑賤な人がおおい。于禁、楽進、張遼、徐晃ら。
曹氏や夏侯氏は、祖父に太守がいて、名士社会で名声があった。夏侯淵伝にひく『文章叙録』で、夏侯恵や夏侯和が、学問したとある。夏侯和は、頴川の鍾毓とまじわった。曹操の代、譙沛集団は武人がおおかったが、曹魏政権のなかで、汝潁集団とまじり、文化を身につけた。曹仁と曹純の家は、ゆたかだった。

文化資本が「獲得」されるプロセスが気になるなあ。初代は叩きあげでも、2代目は途中から学ぶ動機づけがされ、3代目になると、英才教育が受けられる。
ってことは、、曹操が袁紹に勝ったのは、中心にいる譙沛集団が「文化のない筋肉バカ」だったから、となる。袁紹は、文化ある名士に軍事をさせたから、破れたと。
曹操集団を、ほめているのか、けなしているのか、分からん。いちおう結果を知ったる歴史家は、曹操をほめる「義務」があるのだが。
「官位も文化も高い人材を集めないと勝てないが、同じ種類の人材が勢力を分裂させる」と。ぼくが袁紹で、そう指摘されたら、「だったら、どうせい、ちゅーねん」とキレるだろう。


4 蜀漢で譙周が投降をすすめる_113

譙周は、劉禅に投降をすすめた。

いきなり話題が飛ぶなあ!何を言い出すの?

漢魏名士の、地域的な特徴があらわれる。

傅斯年『夷夏東西説』はいう。地形の違いにより、経済生活、政治組織がかわる。東西にわかれる。戦国秦と六国、楚漢、赤眉と王莽、曹操と袁紹は、ともに東西の対立である。中国の地理は、南北には限界がないが、東西には限界があるので、東西の対立となると。
漢魏の学術や政治も、東西でことなる。譙周は西の人。蜀漢に史官はないというが、譙周は資料をあつめた。『三国志』秦宓伝で、譙周『蜀本紀』がひかれる。
蜀の滅亡は、荊楚集団と、益州集団が矛盾した結果である。譙周の降伏論は、益州の豪強大姓の権益をまもるためだ。
譙周の思想を分析する。天命観は、天文や讖緯による。重人事は、公孫述と比較する『仇国論』で、民衆を軽んじる蜀漢を批判した。
清代の王夫子は、譙周の降伏論を「蜀の民でなく、曹魏を悦ばす」という。ちがう。譙周は、蜀に同情しつつ、全国の視点から見ていた。韓嵩、蒯越、傅巽は、劉琮に降伏をすすめた。張松は、孫権に降伏をすすめた。漢魏交替期の名士は、地域の視点を越えて、全国の視点から、統一をのぞんだ。

中央と地方は、思想の上でも、往復運動だなあ。


小結 名士階層の地域分化と融合_125

名士階層は、外戚宦官との闘争で、歴史舞台にあらわれた。このとき、すでに党人名士は、地域分化していた。甘陵の南北で争った。汝南の士人結党は、光武期からすでにあった。『後漢書』史弼伝は、史弼が平原相として「平原に党人はいない」と がんばった。『三国志』武帝紀にひく建安十年令で「冀州の俗は、けなし誉めあう」とある。
ただし、全国規模でうごく名士もいた。
張昭は、趙昱、王朗、陳琳とつきあった。禰衡にほめられた。三国分立も、名士の全国的な交際をさまたげない。虞翻や張紘も、中央との交流がある。州郡や郷里のボーダーラインは、変化しつつあった。3章へつづく。120212