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1章 後漢からの名士階層の形成

劉蓉『漢魏名士研究』を抄訳します。1章、053ページまで。

1章 後漢からの名士階層の形成

『礼記』月令はいう。季春、天子は名士を聘すと。
鄭玄は注釈する。名士とは、仕えない者である。高誘は注釈する。名士とは、名徳の士である。天子は名士とともに治めようとするのだ。君主は、仕える名士・仕えぬ名士、どちらにも尊敬を示し、ともに治世をしたがる。
『礼記』には少数の傑出した名士がのっている。後漢中後期から、名士は大量に発生する。当時の人が「名士」というとき、たがいい称揚した賛辞だった。名士階層の形成には、経済・文化・政治の背景がある。

1節 名士の発生-頴川、汝南、南陽

1 汝潁と南陽の経済と社会

司馬遷『史記』貨殖列伝で、各地の物産をいう。引用はぶく。
司馬遷は、秦漢の経済区画を4つとした。山西、山東、江南、龍門ケツ石北。山西とは、おもに関中。巴蜀と関中は交通が久しく、関中の戦国秦は巴蜀を背景に発展したので、巴蜀と関中をセットとする。山東とは、函谷関より東、戦国六国のあたりだ。江南とは、江淮より南の「楚越の地」である。龍門は、農業と牧畜の境界線である。
4つの地域は、バランスよく発展したのでない。経済は、関中と関東で発展した。「先進的な農業は、長城より南、長江より北で発展した」と先行研究にある。殷周から秦漢まで、この状況である。ただし後漢は、南方に発展がすすむ。

汝潁、南陽に話をもっていくマクラ。


◆人口分布
『漢書』は平帝の元始二年の人口分布をのせる。人口が最多なのは汝南と頴川で、2百万をこえる。人口が1百万をこえるのは、南陽、河南、東郡、東海、陳留、済陰、蜀郡、臨淮、瑯邪、河内。蜀郡をのぞけば、黄河と淮水のあいだだ。
労幹は、こまかく分析する。人口150万をこえる8郡で、面積や人口密度をしらべる。汝南、頴川、南陽のあいだで、傾向がことなる。
頴川は、8郡のなかで面積が最小。ただし戸数は、汝南につづく2位。人口密度は1位。頴川の繁栄がわかる。汝南と南陽は、スカスカである。人口密度は、1平方キロあたり、70人、48人で、8郡のなかで、5位と8位である。

ぼくは思う。郡レベルで考えれば、そうなるだろうが。汝南の北のほうは、頴川と隣接して、頴川なみの人口密度だろう。南のほうが、面積ばかり広くて、揚州めいてゆく。
郡あたりの人口密度を求めるとは、郡内が均質であるという前提をもつ分析だ。郡の成り立ちからして「等質な地域をくくった」という発想はないと思う。まばらな城郭を中心に、便宜的に境界を作ったんじゃないか。だとしたら、人口密度を求めることの有効性が、ちょっと減る。

宇都宮清吉はいう。8郡のなかで、南陽はもっとも広く、もっとも人口密度がひくい。前漢末の華北南部すべての人口密度と、南陽の人口密度はちかい。南陽は1平方キロあたり48人である。東隣の臨淮郡は、1平方キロあたり29人、沛郡は55人、蜀郡は51人。南陽の南隣である荊州4郡は、1平方キロあたり19人以下で、人口がすくない。南陽がフロンティアだとわかると。

三河、三輔、弘農の7郡と比べたら、どうか。前漢末、長安まわり7郡で、150万戸、670万口だ。汝潁と南陽3郡で、130万戸、670万口だ。汝潁と南陽は、長安まわり7郡におとらぬ繁栄をした。

前漢のとき、雒陽や河南は、どんな位置づけだったのだろう。汝潁と南陽にくらべると、とくに発展するでもない、「周の歴史ある都市」だったのかなあ。

『後漢書』郡国志は、順帝の永和五年の人口をのせる。長安まわり7郡は、62万戸、210万口。汝潁と南陽の3郡は、120万戸、600万口。ここから、長安まわりが衰退し、汝潁と南陽が発展したとわかる。
高敏はいう。後漢は、江南の人口がふえ、郡県をふやした。後漢の郡国のうち、前漢より人口が増えたのは、29郡国。新設された郡国と属国都尉は、7つ。合計36郡国が、前漢から増えた。この36郡国のうち、益州をふくむ江南は、23郡国。

三国の成立は、後漢の人口増加のうちに、すでに胚胎されていた。と言えてしまいそうな状況。前漢は、戦国時代や秦代をひきずる。関中の戦国秦と、山東の戦国6国がさかえる。秦代と前漢は、どちらも関中がトップだから、そっくりの王朝なんだなあ。
だから秦漢とくくるとき、前漢の話ばかりになる? この語法だと、「秦代と似ている部分の漢代の性質」を探してしまう。結果、後漢が無視られる。ちがうかな。
秦代と前漢の関中、雒陽の後漢、建業の南北朝。東へ東へと、進むんだなー。隋唐で、また西に巻きとられたけど。

後漢の郡国のうち、前漢より人口が減ったのは、66郡国だ。ほぼ北部中国の、関東や関中である。

後漢は、江南が増えるだけじゃなく、中原が減っていた。中原をおさえた曹魏が、なぜか呉蜀に勝てない原因が、後漢に胚胎されていた。なんて言えちゃうかもなー。
よくある議論が「これは後漢が抑えた人口であり、リアルの人口とは違う」という指摘がある。意味のない、混ぜっ返しだと思う。だって、後漢が把握していない人口は、存在していないも同然だ。三国から見たって、同じこと。孫呉が西晋に降伏するとき、孫呉がひろっていなかった人口は、西晋だってすぐに把握できない。
国家が把握しない人口を「過大評価」するのは、近代の国民国家の視点ではないかと、ぼくは邪推する。領域をカッチリ切って、その領域のなかは均質に支配されるべきで、領域のなかのリソースなら均質に活用できる(活用すべきだ)という視点ならば、国家が把握しない人口は「潜在的な国民」であり、かつ「近日、顕在化されるべき国民」である。だが、後漢や三国には、戸籍にない人口を、どうのこうのする

汝潁と南陽は、人口がへる中原と、人口がふえる江南の中間にある。汝潁は、中原にひきずられ、人口が減った。南陽は、江南にひっぱられ、人口がふえた。

前漢においてセットだった(セットと認定したのは劉蓉だが)汝潁と南陽は、正反対の動きをするのか。ふーん。


◆水利事業
後漢より、水利や建設は、汝南や頴川でたくさん行われた。
『後漢書』杜詩伝に、建武七年、南陽太守となって、水利したことがある。建安十三年、鄧晨が南陽太守となり、汝南の平輿の人・許楊ととに堤防をなおした。
両漢のあいだで、気候の変化があった。『漢書』翟方進伝にある。汝南の堤防がくずれ、水害がふえたと。王莽のとき、ぎゃくに乾燥した。
学者らはいう。両漢で気候が、温暖から寒冷にかわり、黄河に影響した。気候が寒冷になると、農業がうまくゆかない。明帝のとき『後漢書』鮑昱伝で、汝南太守となって決壊をなおす。和帝のとき、『後漢書』何敞伝で、汝南太守となり堤防をなおした。農地がふえた。
水利事業により、汝潁は開墾され、農業が発展できた。

ぼくは思う。汝南太守による治水の記事は、おおいんだなあ。


2 汝潁と南陽の文化圏の形成_016

汝潁や南陽の文化圏について、考察する。

◆州郡への編成
1つ。戦国の封建から、秦漢の郡県にかわり、地域の特色が新しくなった。州郡を単位として、文化がうまれた。汝潁と南陽の特色は、『史記』貨殖列伝になる。「夏人の居」だから、先民の濃厚な遺風がのこった。荊州と豫州に切り分けられたが、3郡とも「夏人」と呼ばれた。
ただし汝南は、「楚」にひっぱられた。司馬遷のとき「楚」「夏」の区別は、明白だった。「陳は、楚と夏のあいだ」という記述もある。『漢書』地理志にも、この地域の記述あり。

以上から、劉蓉が指摘する。
汝南と頴川は、前漢ではおなじ豫州だった。だが、もとは同一の文化圏でなかった。汝南は西楚の文化圏で「剽軽で怒りっぽい」人々だった。頴川は、戦国韓の都で「申子や韓非をやり、法家をやる官僚。民は訴訟をこのむ」人々だった。
南陽は荊州に属したが、頴川とおなじく「夏」の文化圏だ。頴川と南陽は、文化の交流が密接だった。秦末の移民が、南陽の風俗に染まり、産業を好み、統治が難しくなったと。

頴川とおなじく、洗練された南陽。南陽は、秦末に移民が流入して、いわゆる「豪族」がのさばるような地域になったってことか。

「夏」「楚」の区別は、戦国からずっと濃厚。だが州郡の編成により、風俗が変化した。先秦の「国風」は、州郡に代わられた。西晋の豫州刺史が、後漢末の陳留人・張彦真をひき、豫州の文化をひとまとめに語る。汝南と頴川を、同一の文化圏とする。『後漢書』文苑伝下、『三国志』郭嘉伝、『晋書』姚興載記らで「汝潁」がくくられる。

さっきから劉蓉が「汝潁」の用語を連発する。これは、後漢以後、汝南と頴川がまとめられたあと、使われた(使い道が出てきた)用語だな。前漢までに使うのは「正確」ではないなあ。いいけど。


◆汝潁と南陽の文化交流_018
2つ。漢代の太守は、大きな権限をもつ。太守による行政の理念や方式は、地方の風俗や文化を変えうる。3郡で、どのような行政があったか。
頴川は、せまいが人がおおい。京畿にちかく、豪強や朋党がおおい。武帝のとき、頴川の豪強・潅夫は、注目された。宣帝のとき、趙広漢、韓延寿、黄覇が頴川太守となり、豪強や大姓をシメた。頴川は、礼儀や文学をやり、優良な人材を産出するようになった。

『漢書』の各列伝から、くわしく引いてある。はぶく。前漢の頴川太守の「おかげ」で、頴川の豪族が従順になり、人材の宝庫になった。明らかに、つくられたストーリーの香りがする。もちろん一面の真理は、反映しているだろうが。どういう利害や事情で、こんな話になったのか。1つ、問題を立てられるなあ。

後漢になると、頴川の豪族が、太守を困らせる記述がなくなる。わずかに、光武帝の度田に反抗した史料が、『後漢書』劉隆伝にある。河南や南陽は、はげしく度田に反対したが、頴川はそうでもない。頴川の豪族は、衰退したのである。
太守の影響の大きさは、南陽や汝南もおなじ。

後漢の南陽は「帝郷」である。南陽太守の杜詩は、教育した。太守の劉寛は、刑罰をゆるめた。太守の鮑徳は、減税と教育をして、したわれた。
威猛で治めるのは、時代の潮流にあわない。王暢が好例である。王暢は、王龔の子である。王龔は汝南太守となり、陳蕃を吏に辟した。のちに陳蕃は、王暢を尚書とし、南陽太守にだした。王暢は、貴戚や豪右をたたいた。失敗した。
教化によって治めるのが、後漢の風潮である。どの郡も、ほぼ同じ。
光武のとき、寇恂は汝南太守となり、『左伝』の学校をつくった。和帝のとき、何敞は汝南太守となり、儒学で政治した。『後漢書』王龔伝で、安帝のとき王龔が汝南太守となり、温和な政治をして、陳蕃に耳をかたむけた。『後漢書』王堂伝もおなじ。

政治が「寛和」で、経済が発展したから、後漢の士人は活発に交流して、学術がさかんになった。3郡は、とくに学術が盛んだ。『後漢書』郭キュウ伝、鍾晧伝、儒林伝、法術伝、逸民伝、郅惲伝、周盤伝、袁安伝、周挙伝にある。
頴川の郭氏と鍾氏は、法律の世家。南陽の洼氏、汝南の袁氏は『孟氏易』の家。京師の太学におとらぬ、数百や千人の門徒がいた。南陽の洼丹は『易通論』7編をしるし、この本は『洼君通』といわれた。

ネットでヒットした、『容齋五筆』卷第六(十二則)いわく、『易通論』は現存せず。

汝南の許慎は『五経異義』『説文解字』をしるす。汝南の周防は『尚書雑記』をしるす。汝南の許曼は『易林』をしるす。

四方から、3郡に学びにきた。
父子ともに皇帝の学師だった桓栄は、沛郡の人である。のちに桓典が『尚書』を研究したが、沛郡でなく頴川で教授した。『後漢書』宋均伝で、南陽の宋均は、頴川に教えにいった。方術伝で、南陽の樊英は、頴川に教えにきた。延篤伝で、南陽の延篤は、頴川で『左伝』をならった。

みな頴川にくるなあ。現代日本の東京みたい。


後漢末、黄憲伝はいう。頴川の荀淑は、汝南の黄憲と会った。頴川と汝南は、交流した。汝南の許劭は、頴川にゆき、陳寔や陳蕃をのぞき、交際した。
南陽との交流もおおい。『後漢書』党錮伝で、南陽何顒が、頴川の李膺、汝南の陳蕃とまじわった。何顒は「荊豫の域」に名声をもった。党錮伝で范滂が、汝南や南陽の士大夫に歓迎された。
『後漢書』桓帝紀の延熹四年冬にある。南陽の黄武と、襄城の恵得と、昆陽の楽季は、妖言したので殺されたと。襄城と昆陽は頴川である。南陽との交流がわかる。

以上のように、汝南、南陽、頴川は密接である。学術、政治、思想、文化らは、3郡でまとまり、社会や政治の力量をしめした。党錮名士の自信の基礎となる。

2節 名士と党錮_027

後漢の中後期、政治がくさり、外戚と宦官が執政下。清流の士大夫との闘争は、党錮の禍いとなる。

1 三つの李杜事件と漢末政治

宋代の洪マンは、李固と杜喬、李雲と杜衆、李膺と杜密の事件を論じる。李白と杜甫をあわせて、4つの「李杜事件」とするが、これは論じない。
3つの事件は、後漢末の政治の段階を、よくしめす。

こんなにも美しい反復になっていたのかー。以下『後漢書』のあちこちから、いかに清流士大夫が、皇帝権力とぶつかってきたかを、概観してある。事例がおおいので、あまりおおく引用しない。結論は、だんだん緊張感が高まっていきましたよ、ということ。


◆1 李固と杜喬_028
李固と杜喬は、梁冀と曹騰に殺された。正義をたもち、外戚や宦官に妥協しない。李固と杜喬を規範にして、清流な「党」が分化・発生する。死骸をさらされても、社会から正しさを理解され、同情された。

◆2 李雲と杜衆_033
桓帝のとき、清流士大夫は、政治の抱負がかなわないので、身を隠した。宦官の誣告によって、「太学に群れて、朝廷をそしる」とチクられた。 陳蕃の上疏を、桓帝はきかなかった。皇帝権力は、清流士大夫からダメージをうけ、弱まった。秦漢より、ずっと強めてきた好悪亭権力が、崩壊をはじめた。

◆李膺と杜密_038
郭泰や符融らと「同志」を形成した。太学生に「八俊」といわれた。范滂の母は「李膺や杜密と名がならぶなら、子が死んでもいいや」と言った。

清流士大夫らは「外戚をのぞき、国家に政権をかえす」ため、がんばった。だがこの「国家」というのは、必ずしも後漢でない。 3ペアの李氏と杜氏は敗死したが、清流士大夫が「新しい国家をつくる」というルートをつくった。

「李杜」というのは、複雑すぎる話に、背骨をとおすための術語。李氏と杜氏にかかわらず、おおくの話が概括されてました。


2 汝南名士と漢末社会_044

清流士大夫は、ただしい政治、儒雅風裕の分化、世や民をすくう理念をもつ。李杜の3事件は中央の話だったが、地方政治とも密接である。
『後漢書』党錮伝はいう。甘陵、汝南から党錮がはじまり、全国にひろがった。汝南は、党錮の発生地である。名士のおおさは、金発根『東漢党錮人物の分析』によると、汝南が1位、山陽が2位、頴川が3位である。党錮列伝にあるランキングの35人のうち、陳蕃、范滂、蔡衍、陳翔が、汝南の人である。
汝南名士の事件を見てゆく。

◆歐陽歙の事件_044
『史記』『漢書』によると、汝南は西楚の文化圏であり、剽軽で怒りっぽい。この性質は、後漢にも出現しつづける。教育によって変質しつつも、汝南の「気勢」は朋党にあらわれる。

『後漢書』儒林伝上にある。後漢初、楽安の歐陽歙は、汝南太守を9年つとめ、汝南の文化をおこした。『後漢書』郅惲伝で、歐陽歙が汝南太守のとき、郅惲が郡功曹だ。郅惲は歐陽歙に「貪邪な繇延をもとちいるな」と警句した。のちに歐陽歙は、汝南の臧罪に連坐してしまった。
歐陽歙がつかまると、汝南の高獲が、歐陽歙にむくいて、命をかばった(方術伝)。汝南の「気勢」がわかるエピソードである。先だつ建武八年、汝南の郭憲(方術伝)が、光武をいさめて、光武と対立した。
光武は、歐陽歙を殺して、汝南のメンツをつぶした。汝南にいる、歐陽歙の弟子たちは、光武にせまって、歐陽歙の名誉を回復した。
歐陽歙が死んだ4年後、建武十九年、光武は汝南にゆく。汝南は、田租の問題でもめた。光武紀下にある。父老や吏人は、やむをえず1年だけ田租を免除した。光武は笑って処理したが、歐陽歙にからむ、郭憲、高獲らの怨みが、ムリに1年の免除を認めさせたのだ

光武の「笑い」って、快活じゃない。いろんな含意があったと思うと、想像をたのしめそう。免税の話は、歐陽歙の怨みというのは、考えたこともなかった。


光武の汝南に対する憤怒が、ついにあらわれた。
『後漢書』儒林伝上で、汝南の載凭が博士、郎中となり、光武を批判した。光武は大怒した。「汝南のヤツらが、また徒党を組みやがるか」と。光武は、歐陽歙のことを、根に持っていた。汝南は、皇帝権力を蔑視して反抗する。
汝南と皇帝権力との対立は、光武から後漢末までつづく。桓帝のときの李固が死ぬと、李固の弟子・汝南の郭亮は、李固をいたんだ。高獲が歐陽歙をいたんだときと、同じような台詞をいう。
高獲はいった。「私は父母から性をさずかった。陛下は、私の性を改めることはできない」と。郭亮は「陰陽をふくむに生をもってし、戴乾履坤」と。このように、民は死を畏れず、死ぬ気でいる気勢は、汝南の人士の特色である。

汝南のこんな気質、知らなかった。


2 汝南名士の政治実践_048

汝南の士人は「急疾にして気勢あり」という特色をもつ。政治は熱情がおびる。
汝南太守は、汝南の士人に礼敬を加える。王龔、王堂らの事例がある。王龔が、きちんと陳蕃を重んじないと、陳蕃は去ってしまった。陳蕃は、王龔に蔑視されるなら、いつでも立ち去る準備があった。汝南の人士が、力量をもつことを示す。

陳蕃は、祖父が河東太守なのかあ。
汝南太守は「厄介な仕事」だなあ。厳耕望氏は、前漢の三輔は、本籍にかかわらず、優秀な人材を集めて治めたと書いてあった。後漢の汝南は、前漢の三輔みたいに、治めにくい。

汝南の袁閬は汝南の郡功曹となり、名声があった。同郡の黄憲、戴良、陳蕃、周挙らと、代表的な名士である。頴川の荀淑、太原の郭泰から、訪問をうけた。
王龔は公府の辟をこばみ、黄憲は荀淑から「顔子」とほめられた。逸民伝に、戴良の逸話がある。
陳蕃は、王龔が太守のとき、郡吏となった。王堂が太守になるとき、すでに陳蕃は、功曹に昇進しており、王堂の信任をえた。陳蕃は、同郡の応嗣とともに、汝南の政治を仕切った。

袁閬、黄憲、戴良、周挙から、陳蕃、応嗣まで、さらに范滂、許劭、許靖らは、汝南から、全国の名士であった。全国に影響をおよぼしつつ、汝南の政治でも、主導する地位にあった。汝南の気質が「高漲」であるためだ。
『後漢書』党錮伝で、范滂が郡功曹のときの逸話をあげる。太守の宗資は、范滂に任せきりだと。
范滂は、袁閬や陳蕃のあとに、郡功曹となった。范滂に政治をさせる「范党」が生まれたのは、汝南士人の政治勢力が、強大かつ成熟していたことを示す。

政治だけでなく、全国の精議や輿論にも、影響がある。汝南の許劭は、郭泰と交際して、月旦した。『晋書』祖納伝より、月旦が官位でなく、私的な評論だとわかる。袁紹も、行列をけずって、名声を気にした。曹操は「乱世の英雄」と言われにいった。
汝南名士は、皇帝権力に張りあう風土に生まれ、陳蕃、蔡衍、陳翔らがランクインし、党錮の震源地になった。

小結_051

社会学の観点では、階層というのは、社会が「分展」stratification することである。分展とは、もとは地質学の術語であった。地質が同じでない展面を指した。社会学は、地質学から「分展」を借用した。分展の用法はバラバラだが、おおむね2つにまとまる。
1つ。客観的な過程による、境界をさす。境界とは、社会の成員が、社会生活のなかで、社会資源を獲得する能力と機会の差異をいう。能力と機会の高低により、等級が生まれていく現象の過程をあつかう。
2つ。主観的な方法による、境界をさす。
両者は、矛盾するようで矛盾しない。2つめは、1つめに基礎づけられている。社会が分展した結果は「展」となる。中国語の「展」は「ひろい」の意味であり、経常的な境界を表しにくい。「階級」と「階層」は、、

よく理解せず、問題意識も共有せず、これを書いていると、古い岩波文庫みたいになってきたので、ちょっと飛ばす。


社会階層の根拠となるのは、社会資源の占有状況による。占有状況の差異が、社会群体をつくりだす。後漢末の名士階層が形成されたのは、この理論による。外戚や宦官と衝突することで、清流士大夫が群体をつくり、党人や名士という、あたらしい社会階層をつくった。
名士は、社会の財富を占有しないが、社会の声望「名」をもっていた。「名」は2つの方向からくる。1つは、彼らの学術と文化である。もう1つは、世や民をすくう人格的な魅力だ。
後漢の世家大族が、なぜすべて魏晋士族にならないか。名士から理解できる。

どうして「すべて」なんて問題の立て方をするんだろう。そんなの「例外はつきものだ。むしろ全数、例外なしの話なんかあるのか」と反問されたら、おしまいである。

世家大族は、名士階層に入らないと、魏晋士族になれない。名望がいるのであって、財富がいるのでない。

ここが論理の根幹なんだろうなあ。けっきょく、「党人が魏晋貴族のルーツ」ということだ。戦国から文化圏にさかのぼったり、光武と汝南の対立を記したり、その前方向への射程のながさは、おもしろかったけど。


名士は政治的な情熱があり、自己を犠牲にしても、政治を実践した。『後漢書』党錮伝で、甘陵の事例がある。汝南のみならず、甘陵でも、名士と皇帝権力との戦いがあった。
名士は建安のとき、社会の声望のほかに、もう1つの社会資源を手に入れる。政治権力である。120212