4章 名士から士族へ
劉蓉『漢魏名士研究』を抄訳します。4章、名士から士族へ。最終回。
4章 名士から士族へ_189
名士階層は、声望、官爵、経済、地縁によって、士族階層となり、新しい時代をひらく。
1節 名士と皇帝権力の消長_189
秦漢が皇帝権力を確立したとき、皇帝と官僚群は、するどく対立した。2つ理由がある。1つに皇帝権力が安定していなかった。1つに官僚群は、自己の権益を得ようとした。
後漢の中後期から、外戚と宦官が腐らせた。外戚と宦官は、皇帝権力に依拠する勢力だ。名士は、外戚と宦官(バックの皇帝権力)と対立した。李固の娘が、弟の李燮にいった言葉からわかる。「梁冀は皇帝につらなる」と。
名士は後漢の皇帝権力とぶつかり、後漢を滅ぼそうとした。
劉蓉は、名士のスタートを李固に求める。ぼくが前にも書いたけど、「後漢に敵対する人を名士とする」という定義を採用すれば、つねに名士は皇帝権力と対立したと言える。正しい。だって、そういう定義だからね。でも後漢と敵対した人に、どれだけの共通した性質があったか。その議論が、甘かった。
1 建安名士と皇権が衝突にすすむ_190
黄巾と董卓により、後漢の皇権はつぶれた。名士の態度は、献帝にたいするスタンスにあらわれる。
◆1 袁紹は天子をむかえず
◆2 袁術が皇帝をとなえる_192
袁術は、馬日磾の節をうばった。
漢室が復興できないのは、袁氏兄弟の共通認識だ。曹操が献帝をむかえたとき、袁術はそれを徒労だと考えた。袁氏は献帝を軽くみた。だが曹操は、献帝には意義があると考えた。
◆3 曹操と荀彧が「天子をもち諸侯に令す」_193
曹操と荀彧は、献帝をつかんだ.
後漢末、門生故吏と師長挙主とのあいだに、君臣のような関係をもった。郡県の官吏は、長官の臣下のように行動した。「忠」は「孝」に優先することもあった。公孫瓚は、劉太守をおくった。朱霊は曹操を「真明なる主」とした。会稽の虞翻は、王朗につくした。
秦漢で形成された「忠君」の発想が浸透していた。曹操が献帝をたすけたのも、忠臣としての振る舞いである。
渡邉先生の「名士」は、主君からの自律を、ほぼ定義にちかい性質としていた。劉蓉の名士も、つぎで同じような話をする。っていうか、君主からの自律性にいは、臣従を辞めないという前提がある。あんまり自律、自律を強調せず、いまの劉蓉みたいに「忠君」を言ってみると、バランスが取れた気がするかも。
2 名士と曹魏皇帝の妥協_196
秦漢の皇権は、建安の名士とぶつかって、すでに振るわない。だが漢帝は「天子」のままで、最高権力を代表する。曹操と名士らは、漢魏革命を心づもりにして動く。武帝紀にひく『魏略』建安二十四年で、孫権が曹操に皇帝になれという。おなじく『魏氏春秋』で、夏侯惇が曹操に皇帝になれという。
◆1 曹操が皇権をとりにゆく_196
まず曹操は、校事官をおいた。建安十八年におかれ、群下を検校した。
程昱伝で、程昱の孫・程暁がいう。高柔伝、徐邈伝、常林伝にひく『魏略』、満寵伝、邴原伝にひく『原別伝』、袁渙伝にひく『魏書』など。曹操は「君臣の分」の話題に敏感で、曹氏を皇帝とするために、取り締まった。
曹丕が即位すると、皇帝の権威を強めた。郭淮伝、楊俊伝にある。散騎常侍をおき、天下の士をおさえた。
後漢の中常侍は、名が腐ってるから、散騎常侍とした。
曹叡も、皇帝権力の強化につとめた。明帝紀にひく孫盛、司馬芝伝など。
曹操から3代、皇帝権力をつよめた。だが建国をたすけた、建安名士に報いねばならない。曹魏の元勲は、両漢の元勲とはちがう。両漢の元勲は、始祖とともに戦った個人たちである。だが曹魏の元勲は、社会階層である。
建安名士は、地域をまたがり、政治、経済、文化、社会などの領域で、それぞれ人脈をもつ。曹魏政権をつくったから、建安名士は曹氏にしたがう。だが、曹氏のなかで利益を得たがる。名士は、皇帝との利益がぶつかり、士族の階層となって、皇帝に反抗する。
なんかモヤモヤするか、考えるべき問題は、整理されてきた気がする。カードが出そろってきたから、どう並べ替えて、どれを切るかと。日中の「名士」論は、これがメインだろうからなあ。たまたま語句が重複しただけかも知れないけど。
◆2 名士が曹魏の皇権を制約する_201
曹操が校事官を設置しても、群臣は校事官にビビらない。高柔や衛臻は、各列伝のデメリットをいう。「帝王の正典じゃない」と。程暁の苦情により、校事官はやめた。曹魏の皇権は、名士たちに妥協した。
名士は九品官人法をさだめ、寒人をブロックした。呉質は仲間はずれ。
朝臣たる名士は、おおく皇権に質問をぶつけた。曹丕による河南の移民に、辛評が反対した。曹丕は辛評に負けた。
劉蓉が漠然と想定している「何でも思いどおりにする、万能な皇帝権力」というのは、秦漢のどこに存在するのだろう。事例ゼロとは言わないが、きわめて限定的だろう。前漢の武帝ですら、皇位にあるとき、すべて思いどおりにしてない。っていうか、人間による組織って、そんなものだ。
曹丕や曹叡が、1つも反抗されず、1つも牽制をあびず、、という前提が誤っているんじゃないか。問題の立て方がおかしいから、「皇権と名士の妥協」という結論は、誤りでないにしろ、大したことを言っていない、事態に陥る可能性がある。
曹叡のとき、陳矯が尚書令となり、反抗した。高堂隆は死にぎわに「天下は、陛下だけのものじゃない」と言った。名士への妥協が、曹魏政権の特色である。
曹魏は、皇権の強化に失敗した。司馬氏に代わられたのが1つ。何茲全は「世家豪族が、集権政治に反抗した」と理解する。司馬氏は、世家大族を代表したと。曹氏は名士の代表から、皇権の代表にかわった。曹氏は、みずから出自である名士階層と、権力闘争をしちゃった。
曹氏は校事官を置き、名士階層の全体利益をそこねた。ゆえに司馬氏に代わられた。
ただし司馬氏の皇権も、曹魏とだいたい同じ。浮華派の名士が皇帝権力をあなどり、皇帝権力が徹底しない。むしろ、名士に妥協して、法制をゆるめ、校事官をやめた。
司馬氏は、事功派と浮華派の対立をかかえた。事功派も浮華派も、司馬氏に皇権を制約した。ただし、皇権のなかで処理できる範囲なので、どちらかが皇権と癒着することもある。両派は融合して、士族社会をつくってゆく。
2節 名士とその特色_207
『礼記』にある「名士」は、鄭玄、蔡氏、高誘、孔頴達のあいだで、ちがいがある。全体から知れる「名士」の意味とは、有名、有道、有徳、有治などである。
後漢中期から、名士が史料におおく出る。隋唐も「名士」をつかうが、これは士人への褒め言葉である。時代によって、名士の意味はちがってくる。
1 「士名」と「名士」_208
「士」とは、四民の1つだ。『穀梁伝』に士農工商があるなど。
士人は、まず「士名」をもち、つぎに才能が認められて「名士」となる。「士名」とは、士人の名籍の重要な一部である。「士名」を獲得するには、2つの方法がある。郷里の輿論を得ること。士林の品題で認められること。士林の品題が、名士の名声をくっつけてくれる。川勝義雄を見よ。
2 名士の特色_217
1つ、声名があった。
馬良伝の白眉。鄭渾伝にひく『漢紀』。常林伝にひく『魏略』。全土の名士に、評判が聞かれた。
2つ、名士は相互に評価しあう。
陳羣と孔融が、汝潁名士を論じた。荀彧伝にひく『荀彧家伝』。虞翻伝にひく『会稽典録』で、孫亮子明のとき朱育を論じる。「品状」は、大規模かつ経常化した。龐統伝、同注引『呉録』、劉表伝にひく『漢末名士録』
、呂布伝にひく『典略』、趙𠑊伝、華歆伝にひく『魏略』、諸葛亮伝にひく『襄陽記』。曹叡のとき、浮華の友人たちが「四聡」「八達」をいった。
3つ、独行して個性が鮮明。
党人名士、建安名士、竹林名士は、みな独特である。『後漢書』徐稚伝、『三国志』荀彧伝にひく『晋陽秋』にある荀サン、『晋書』劉伶伝だ。才智があり、言行はおおきく、性質は天真で、自然で脱俗である。
劉蓉があげる名士の性質のうち、順序が無意味なはずがない。名士の本質に近いところから、書いているはず。声明があり、評価しあうところまでは「名士」の語意の一部だから、当然として。3つめが、言動の個性なんだなあ。
4つ、文武をどちらも重んじる。
まず学問をやる。『三国志』裴潛伝にひく『魏略』で、厳幹と李義をのせる。李義は学問がないが、陳羣にほめられた。李義の子・李豊は、名士になれた。厳幹は、孝廉にあがり学問があり、鍾繇と議論した。学問がないと、軽んじられる。呂蒙の勉強。高堂隆伝で、夏侯勝は「学問がないと官位も価値ない」という。
汝南袁氏、瑯邪諸葛、河内司馬、頴川鍾氏、泰山羊氏らは、学問があり、軍事もやれた。強い太史慈は、学んで孔融に認められた。
『晋書』王導伝、『顔氏家訓』にいたり、名士は学問のみで、軍事をとうとばなくなる。
5つ、貧しい個人に始まり、子孫は声望で特権を得る。
曹操は宦官の出身だが、名声をえて名士となった。『後漢書』黄憲伝、郭泰伝、「八及」岑晊、『三国志』楊俊伝と注引『魏略』にある王象らである。彼らは、卑賤だったが、著姓や官僚の家になった。
毛漢光はいう。3代のうち2人が5品以上なら、士族になれたと。
3 名士階層が特権を獲得する_228
名士は、特権を固めて、維持しようとした。
1つ、九品官人法_228
2つ、官爵を世襲する_231
3つ、八議_233
4つ、占田蔭客制_234
このあたり、日本語の論文すら、ちゃんと読んでいないから、くわしくやらなかった。
あー、2月第2週の土日を使ったなー。これにて、劉蓉『漢魏名士研究』は終わりです。あとは「結語」があるが、反復なのでいいや。午前と夜を。午後は、まったく別の本を読み、昼寝した。120212