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- 第0回 「秦漢帝国という病」を解決する孫権
ヒントをもらってきました
この土日は、京都に講演を聴きにいきました(三国志と関係ないので、詳細は載せません)。講演の内容をメモってたのですが、途中から、「これって孫呉の話じゃないか」と思えてきました。講演のメモと並行して、同じ紙面のうえに、「孫呉政権論」を落書き/展開させておりました。
もちろん、講演のメモに支障が出ない範囲で。
といいますか、講演の内容が、そのまま「孫呉政権論」に関する洞察ネタを与えてくれる、ネタそのものでした(講演者の意図とは関係なく;少なくとも、ぼくのなかで起きた化学反応においては)。だから、孫呉の構想を落書きすることが、講演のメモの「支障」になるという表現は、正しくないのです。むしろ、講演のメモを取ることが、孫呉の構想を書きつけることとイコールになったのですから。160419
これまで、孫呉を主役とした物語を書こうとしても、テーマが見つかりませんでした。「どういう状態になったら、孫呉にとって最も幸せなのか」という、政権の理想のようなものが分からない。だから、史実ベースで描くにも、イフ物語を考えるにも、いまいち捗らない。ストーリーに「必然性」が見えてこない。
去年の苦戦のあとは、こちら。いろいろ考えたが、いまいち話づくりのスケジュールに乗らなかったもの。呉が天下を取るイフも書きたい(孫堅の延命?)いまいちど、孫呉の理想を描き直してみましょう。
まずは病識を持つところから
後漢の後期とは、いかなる時代か。
為政者は闘争にあけくれ、官職に就けない/就きたくない人々が発生した。民衆は困窮して、反乱を起こした。異民族は、西北方面でずっと戦っている。『歴史地図集』を見れば分かるけれど、後漢と比べると三国魏は、并州・雍州・涼州を削り取られて、範囲が縮小している。
マクロで見れば、気候が寒冷化して、農業生産が低調となったそうで(ここは「科学的な手法」で自分で調査したわけではないので、聞きかじりです)人口は減少。温暖な南への移住が促進された。「中原の戦乱を避けて」という政治・軍事の文脈だけでなく、気候もまた、人口を南にシフトさせる要因になったようです。
ひらたくいうと、
「このまま続けてても、ダメだ」という感覚が共有されました。現行の体制のまま押し切ろうとしても、うまくいかなくなった時代であると。ここまで抽象化すれば、ほぼ間違ってないでしょう(笑)
現体制じゃダメとなれば、改革しないとヤバいわけですが、対処療法を連発しても仕方がない。「そもそも現体制は、どのような由来と歴史を持つのか」という問いを立てるところから、始めなければなりません。
いまは、物語のテーマ設定の段階なので、こうして理屈だけをグイグイ書いてます。あとで物語にするなら、関係する事件を起こし、巻きこまれた人物を出し、意見の対立によって葛藤・議論・戦争へと至り……という、物語の文法に従って表現するでしょう。こういう問いかけは、全員がしなくて良いが、誰かはしないといけない。
たとえば、魯粛さんとか。
後漢の天下を成り立たせているのは、秦の始皇帝に遡る「全国を統一した皇帝による統治」という制度ですが、これは「たかだか350年」という、「射程の短い/新しい」ルールです。皇帝支配を支えている儒教なんて、王莽~後漢初期なので、「たかだか150年」のイデオロギーです。
後漢後期を生きたひとにとって、生まれたときから存在し、そのなかで呼吸してきたから、自明・必然に感じられるかも知れないが、しかし、家族・婚姻・葬礼といった、人類の歴史と同じくらい古い制度と同じように考える必要はない。必要であれば、変えることもできる。……という気づきをするところから、始めたい。
官職に背を向ける知識人の発生や、民衆の反乱は、「漢代儒教に支えられた皇帝支配」の耐用年数が終わり、そこから回避する人々の行動でしょう。
非合理的な行動であるが、しかしその行動を(強迫的に)選んでしまう。望まないのに、その価値観のなかで苦しんでしまう。……これを「病気」といいます。後漢末の人々は、共同で神経症に掛かっております。「秦漢帝国という病」とでも、言うべきものに。
彼らは、いかなる強迫観念によって、みずから不幸に突入しているか。その強迫観念の中身を、きちんと言語化することで、症状は寛解するでしょう。そして、病気の解決に向かえる。当初、孫呉が目指したのは、そこではないのかな、と。
「当初」というのが、キモですけど(笑)
「秦漢帝国という病」
病は、どのように発症しているか。
桓帝期、(費用・兵員の損得勘定においてムリのある)領土拡大が目指されました。霊帝期に、常備軍が創設されました。霊帝にとって、思いのままの官僚の任命が行われました(宦官によるものを含みます;有力官僚による掣肘を最小限にする施策です)。それから、高い比率で徴税されたようです。これらは、悪政ではないです。いずれも、皇帝制度の「夢」を実現している。皇帝権力を強めています。
後漢には、三互の法があります。これは、豪族(=知識人層?)が、特定の土地と癒着することを防ぎます。皇帝だけが、全土を中央集権的に支配する。皇帝未満の官僚は、経済・文化・社会的に孤立したツブとなり、皇帝に尽くすべきである。
という制度です。背後にあるものを分析するなら。全ての地域は、皇帝の統治の便宜に尽くすべきである。つまり、全体最適のためなら、犠牲になる地域があっても宜しい。個別の地域の事情なんて、聞いてやるものか。漢の領土は、均質・無名(のっぺらぼう)な記号の集合であるべきだと。「州」「郡」「県」という名づけによって、無機質な「支配対象」に成り下がらせているのです。本来は、生活の場である城・領域を。
たとえば、「涼州で胡族と戦うための費用を、揚州が負担しろ」ということです。「揚州にも地政学的に固有の事情があるのだから、揚州の生み出した富は、揚州で使わせてくれ」という、地域を代表した政治家を出現させない。これが「統一国家」である後漢の制度が、必然的に要請することです。
既得権益を守るため、もしくは為政者の思想を押しきるため……、それどころか、主張した政策の正しさを証明するためなら(カネとメンツのためなら)、ある特定の地域(おもに辺境)で、ムリな収奪・戦争を行うことも許される。
たとえば、羌族との戦いは、純粋な戦略から立案されることは少なくて、政治闘争の材料にされます。後漢前期から、外戚が為政のポストを手に入れると、羌族と戦いにいき、「功績」を積みます。後漢末の何進、西晋の賈充に至るまで、羌族を攻める・攻めないで、モメてます(何進・賈充は、彼らを失脚させたい派が、彼らを羌族との戦いに仕向けようとして、失敗しました)。羌族との戦いは、こうした政争のネタです。現地は、たまったものではない。戦いに行く漢族も、戦いに巻きこまれる羌族も。いま「許される」と書きましたが、そういう不合理な選択によってこそ(不合理な選択によってのみ)、統一王朝は、「統一王朝としての政治」を実行できるのです。
もしも逆に、
地域の事情をくみとった、物わかりのよい選択をしたら、それは、秦漢の皇帝制度ではなくなってしまう。まるで、地方分権(という手垢のついた言葉はイヤですが)であり、始皇帝より前、春秋戦国期に逆戻りです。
極論すれば、ある地域を「放棄」することで、全体最適が生まれる(ならまだしも、もっと卑小な場合は)特定の誰かが、政治的な主導権が得られるなら、躊躇なく、ある領域の「放棄」を唱える。これが、帝国の為政者に求められる振る舞いです。
たとえば、涼州を放棄しても、記号の喪失にすぎない。むしろ、別の場所を「涼州」と名づければ、記号は減らないから、ノーダメージ。現地の人々は、強制移住させたら、いいじゃないか。従わないひとは、殺しとけと。
後漢は、後漢を守るために行動するので(当然のこと)、皇帝権力の強化のためなら、豪族の利権・民衆の生命を犠牲にします。
さらに話がこじれて罪が深いのは、霊帝が、皇帝制度を信頼していないこと。国庫ではなく、ポケットマネーを貯めました。当時の政治の主流(宦官の家など)は、後漢がなくても生きていけるように、後漢の制度を利用して蓄財したように見えます。
霊帝は「私兵」を蓄え、宦官にその指揮を任せている。これは、皇帝権力の強化である一方で、皇帝制度が崩壊しても、自分は「最強の群雄」になれるように、潜在的に準備している。
こんなことは、史料に書いてないです。もしも霊帝そのひとに、イエスかノーかと問えば「ノー」と言うでしょう。しかし構造的には、そういうことになるのです。
歴史を見れば、「最強の群雄」になるために霊帝が準備したツールは、董卓によって利用されました。董卓は当初から、最強の軍閥になることができました。貧しい傍流皇族を過ごした霊帝のパーソナリティによるものか、後漢の構造がそうさせたのか、要因はいろいろでしょうが、霊帝は、「秦漢の皇帝」としての権力を最大化するために、皮肉なことに、みずからが立つ地盤を壊しました。
話は全然ちがいますが、利益を最大化するために、企業が従業員の給与をギリギリまで削った結果、その企業の商品を買えるひとが市場にいなくなり、売上が悪化した、というのと同じ状況です。その企業は「悪徳」なのではなく、もっとも合理的な行動を取っているだけです。
売上が悪化したら、経営陣はどうするか。給与水準を引きあげて、本質的な解決を目指すのではありません。経営陣は「こんな会社がなくなっても、オレは生きていける」という状況を作るため、社内でムリなことをゴリ押しする。個人の資産だけは守れるように、カネを分けておく。社長まで、会社のカネを横領して、個人の預金に移しておくでしょう。霊帝の私兵集団と、同じことに見えます。
霊帝や、霊帝期の高官が邪悪なのではなく、秦漢帝国という制度どおりに動けば、不可避的にこのような行動になるのです。そのように制度設計されている。制度が成熟することは、腐敗が始まることと同義です。
大一統(天下が統一されていることを重んずる思想)を推し進めれば、個別の地域の特性を無視することに行き着く。皇帝権力の強化を図れば、皮肉なことに皇帝は、現在の帝国がなくても生きていけるほど、強くなろうとする。
これが、「秦漢帝国という病」であり、初期の孫権が、解決しようと試みた「治療対象」ではないでしょうか。
史料的な裏づけは、これから取っていくので、大丈夫です(笑)
すべての仮説は、さきに着想=結論がある。べつに虚空から降ってくるのではなく、史料や物語を読んできたという蓄積の上に、ふわっと表れる。だから、遡及的に根拠を探せば、きっと見つかるのです。
孫権の物語とは
物語において、孫権にやってもらいたいのは、「秦漢帝国という病」の解決です。つまり、揚州の特性に応じた、地域的に個別最適の政治。後漢の全土には適用できないが、少なくとも呉には、もっとも効果的な政策を。
べつに「皇帝」という称号に拘らなくてもいい。べつに誰かに臣従してもいい。そういう、儒教的な君号の格付けから自由な統治者になりたい。
たまたま、全土の人口減少と、長江流域への人口流入という、マクロな動きがある。孫権が理想を実現させられる舞台装置が揃っています。人口の動態は「強い現実」であり、ちょっとやそっとのアクシデントでは揺らがない。しかし、孫権の統治範囲は、歴史に一応の答えがあるものの「弱い現実」であり、ちょっとしたアクシデントで変化する可能性がある。後者は、イフ設定で、揺さぶってみる余地=価値がある。
物語は、史実ベースでやってもいいんですけど、せっかくなら、「もしも孫策が生き残ったら」というイフ設定で、思考実験をしたら楽しそうです。孫策が生き残ることで、孫氏が、秦漢帝国的な「皇帝」になれる可能性が残っている。そのなかで、孫策のやり方に疑問をもつ孫権……というお話(一切は未定です)。
史実では、地域最適の「呉王」から、秦漢帝国的な「皇帝」に、地滑り的に移行していく孫権ですが、それを、イフ設定をつかって、柔軟かつ魅力的に描いてみたい。なんて、講演会のノートに書きました。160419
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- 第1回 史実の確認:孫策伝・陳矯伝より
前回のとおり、孫権を「秦漢帝国という病」と向き合わせるための舞台装置が、孫策が死なないという状況です。いかにして孫策が死なないか。かりに、孫策の個人的な武勇によって切り抜けるという、三国ファンがいちどは望む展開にしてみるか。
建安初期の孫策の動き
◆建安元年
死に至る前の孫策の動きを、孫策伝で概観しておく。
建安はじめまでに、揚州の中南部を平定。この地の長吏を、ことごとく自派の人材に置き換えた。
盡更置長吏,策自領會稽太守,複以吳景為丹楊太守,以孫賁為豫章太守;分豫章為廬陵郡,以賁弟輔為廬陵太守,丹楊硃治為吳郡太守。彭城張昭、廣陵張紘、秦松、陳端等為謀主。孫策は会稽太守、呉景を丹陽太守、孫賁を豫章太守、豫章をわけた廬陵の太守に孫輔、朱治を(許貢の後任として)呉郡太守とした。張昭・張紘・秦松・陳端を謀主とした。
張紘伝に、「初,紘同郡秦松字文表,陳端字子正,並與紘見待於孫策,參與謀謨。各早卒」とある。秦松・陳端は、張紘とともに孫策に仕えたが、早くに(孫権に仕えることなく)卒した。物語としては、張昭・張紘のふたりがいれば充分である。ここに名が出たひとが、主役級の重要人物となる。
『江表伝』によると、孫策は、奉正都尉の劉由・五官掾の高承を許都に送って、貢献した。来歴としては袁術の部将であるが、揚州の中南部に独自の基盤を築いて、袁術の頭越しに献帝と接点を持つという動きを始めた。ちょうど建安元年、孫策が会稽太守を自称したのと、献帝が許都に鎮座したのは同時のこと。
袁術は、物語の本編では初めから死んでいるので、袁術と孫策の関係を扱わない。「会稽という基盤を得たから、献帝にアクセスした」と「許都に来て近くなったから、献帝にアクセスした」は、分けることができない。つまり、孫策政権の性格は、彼自身も、内外の人々も「よく分からない」ことになってしまう。
◆建安二年
建安二年春、袁術が皇帝を称する。すなわち袁術は、献帝に正面から勝負を挑んだ。「どちらが発行した官爵が、より多くの軍事・文化的な有力者に受納されるか」という種類の戦いである。孫策は、袁術よりも献帝を選んだ。
『江表伝』によると孫策は、建安二年夏、献帝から任命を受けた。議郎の王誧が、「孫策を騎都尉・烏程侯・会稽太守とする」という詔書を届けた。孫策は、騎都尉では軽いので、将軍号をもとめた。王誧は承制して(皇帝の代わりに)明漢将軍を授けた。
官職をあやつって、ライバルを味方につける。そのためなら、多少のインフレは可。そういう曹操の意図を含められ、王誧は孫策のところに来たのだろう。伝統のない雑号将軍をもらった。もしくは、外交の駆け引きとして、曹操がわざと最初に、軽い官職を提示したという可能性すらある。
孫策は、官職について飢えた存在。「袁術が太守にすると約束したのに、2回も破棄された」という過去をもつ。いいように利用されたといえる。いま『江表伝』には、「策自以統領兵馬,但以騎都尉領郡為輕,欲得將軍號」とあるとおり、若い自分が求心力を持つためには、相応の官職が必要だった。
曹操と袁術は、いずれも官職を媒介して、孫策を制御しようとする。孫策は、官職に飢えているから、制御されやすい。まんまと利用される条件が、新興の勢力であり、孫堅なき孫氏には整っていた。
官職を受けとるからには、見返りとして働かねばならない。曹操・王誧からきた詔書は、「使持節・平東將軍・領徐州牧・温侯の呂布と、行呉郡太守・安東将軍の陳瑀とともに、袁術を討て」と続く。
197年9月、袁術は陳国に出陣した。この詔を出した曹操の狙いとしては、徐州にいる呂布・陳瑀にはともに袁術を撃ってほしいし、揚州にいる孫策には、袁術の背後をついてほしい。孫策と陳瑀が、揚州の争奪を始めたので、「袁術の背後を突く」という、曹操の額面どおりのねらいは失敗。しかし袁術は、孫策の襲来を心配してか、橋蕤らを置いて寿春に撤退した。袁術と橋蕤から切り離し、橋蕤ら袁術軍の主力を破ったという意味で、曹操の計略は、二次的にヒットしている。
どちらに転んでも、曹操にとって都合のいい詔書である。けっきょく、曹操のライバル同士を潰し合わせるという戦い。曹操にしてみれば、袁術・孫策・陳瑀・呂布の全員が滅びてくれたら、それが最上である。額面どおり、まず、もっとも厄介な袁術をつぶせても可。史実のように、袁術以外がつぶしあいを演じても可。
『演義』とは時期・相手が違うが、二虎競食の計・駆虎呑狼の計の合わせ技みたいなもの。それを、詔書一発で実現した。
詔を受けとった孫策は、どうしたか。
策自以統領兵馬,但以騎都尉領郡為輕,欲得將軍號,(及)使人諷誧,誧便承制假策明漢將軍。是時,陳瑀屯海西,策奉詔治嚴,當與布、瑀參同形勢。行到錢塘,瑀陰圖襲策,遣都尉萬演等密渡江,使持印傳三十餘紐與賊丹楊、宣城、涇、陵陽、始安、黟、歙諸險縣大帥祖郎、焦已及吳郡烏程嚴白虎等,使為內應,伺策軍發,欲攻取諸郡。策覺之,遣呂范、徐逸攻瑀於海西,大破瑀,獲其吏士妻子四千人。山陽公載記曰:瑀單騎走冀州,自歸袁紹,紹以為故安都尉。孫策伝にひく『江表伝』によると、このとき陳瑀は海西にいる。孫策が(会稽の郡治 山陰から)銭唐に至ると、陳瑀はひそかに(袁術を撃つのでなく)孫策を襲おうとした。都尉の萬演らにひそかに渡江させ、丹陽・宣城・涇・陵陽・始安・黟・歙の賊に印綬をくばった。現地の大帥である祖郎・焦已、呉郡の烏程の厳白虎らに内応させて、(孫策の勢力圏の)諸郡を攻めた。孫策はこれを知り、呂範・徐逸をやり、陳瑀を海西で攻めた。『山陽公載記』によると、陳瑀は単騎で袁紹に帰した。
建安二年、行呉郡太守(遙領)の陳瑀が、袁術討伐を口実にして、孫策の勢力圏に攻めこむの図。
孫策は、官職をめぐる「もっともありがち」な動きに巻きこまれた。伝統的な(流通性の高い)官職をくれるほうに味方し、都合よく動かされる。その結果、マクロで見れば曹操に利する動きをした。旧主の袁術を攻撃したり(袁術を潰すことが、孫策にとって利益になるかは、じつは自明でない。そして、陳瑀との「仲間割れ」を経験した(曹操の言いなりになって腰を上げなければ、陳瑀に漬け込まれないだろうに)。
孫策が死んだときの状況
◆建安三年
陳寿は、「時袁術僭號,策以書責而絕之。曹公表策為討逆將軍,封為吳侯」とだけあり、簡潔すぎる。裴注『江表伝』により、「建安三年,策又遣使貢方物,倍於元年所獻。其年,制書轉拜討逆將軍,改封吳侯」とあるから、詳細がわかる。建安元年(孫策が会稽に割拠=献帝が許都に着座した歳)、まず一度目の使者。建安二年、王誧がきて騎都尉にしてもらったが、ゴネて明漢将軍に。建安三年、建安元年の2倍の貢献をして、討逆将軍・呉侯にしてもらった。
◆建安四年
孫策伝:後術死,長史楊弘、大將張勳等將其眾欲就策,廬江太守劉勳要擊,悉虜之,收其珍寶以歸。策聞之,偽與勳好盟。勳新得術眾,時豫章上繚宗民萬餘家在江東,策勸勳攻取之。勳既行,策輕軍晨夜襲拔廬江,勳眾盡降,勳獨與麾下數百人自歸曹公。建安四年(199)6月、袁術が死んだ。長史の楊弘・大将の張勲は、衆をつれて孫策を頼ろうとした。だが、廬江太守の劉勲は、楊弘・張勲をとらえた。孫策は、劉勲に上繚の宗民を討とうと勧め、劉勲の本拠地を乗っ取った。劉勲は、曹操をたよる。
劉勲は、袁術が約束をやぶり、孫策の代わりに豫章太守とした人物だ。孫策が劉勲を討ったのは、建安四年(199)だ。孫権伝にある。孫権も従軍してた。
劉勲のことは、武帝紀の建安四年にある。「魏志」劉曄伝はいう。劉勲は江淮につよく、孫策は劉勲をにくんだ。
武帝紀11) 袁術の死、徐州の地勢
「劉曄伝」:『三国志集解』を横目に、陳寿と裴注の違いをぶつける
孫策にやぶれた劉勲が、曹操を頼ったのは、なぜか。劉曄がみちびき、曹操のもとに連れて行ったらしい。劉曄は、魯粛に「鄭宝いいよ」と推薦するなど、揚州を平定できる君主を探していたみたいだ。孫策は、揚州を平定できる人材に見えなかったらしい。
袁術の死後の主導権争いは、『江表伝』を見なければならない。
江表傳曰:策被詔敕,與司空曹公、衛將軍董承、益州牧劉璋等並力討袁術、劉表。軍嚴當進,會術死,術從弟胤、女婿黃猗等畏懼曹公,不敢守壽春,乃共舁術棺柩,扶其妻子及部曲男女,就劉勳於皖城。勳糧食少,無以相振,乃遣從弟偕告糴於豫章太守華歆。歆郡素少穀,遣吏將偕就海昏上繚,使諸宗帥共出三萬斛米以與偕。偕往曆月,才得數千斛。偕乃報勳,具說形狀,使勳來襲取之。勳得偕書,使潛軍到海昏邑下。宗帥知之,空壁逃匿,勳了無所得。孫策は詔勅をもらう。「司空の曹操・衛将軍の董承・益州牧の劉璋とともに、袁術・劉表を討て」と。軍を進めようとしたとき(実は何もしてない)袁術が死んだ。
孫策は、曹操がつくった官職のネットワークに絡めとられた。袁術のネットワークからは脱出した。しかし、本拠地の獲得を優先して、袁術を攻めるには至らなかった。現実問題として、陳瑀が侵食したり、忙しかった。
袁術の従弟の袁胤・女婿の黄猗は、曹操を畏懼して、あえて寿春を守らず、袁術の棺柩と妻子・部曲をともない、皖城の劉勲を頼った。劉勲は糧食が少ないので、従弟の劉偕を、豫章太守の華歆に送り、糧食を求めた。華歆のところ(南昌)も糧食がない。華歆は部下の吏に、劉偕を海昏・上繚に連れてゆかせ、宗帥らに三万石の米を求めた。劉偕は月をまたいで(宗帥らと交渉して)数千石を得られそう。劉偕はこれを従兄の劉勲につたえ、劉勲に襲い取らせようとした。
まず宗帥から華歆に供出し、華歆がピンハネしたあと、華歆から劉勲に援助する、という手順を、劉偕が嫌ったのだろう。ピンハネを防ぐには、海昏から南昌に運びこむ前に、奪ってしまえばいい。劉勲は、海昏の邑下に軍を潜ませた。宗帥はこれを知り、備蓄を隠してしまったから、劉勲は何も得られなかった。
時策西討黃祖,行及石城,聞勳輕身詣海昏,便分遣從兄賁、輔率八千人於彭澤待勳,自與周瑜率二萬人步襲皖城,即克之,得術百工及鼓吹部曲三萬餘人,並術、勳妻子。表用汝南李術為廬江太守,給兵三千人以守皖,皆徙所得人東詣吳。賁、輔又於彭澤破勳。勳走入楚江,從尋陽步上到置馬亭,聞策等已克皖,乃投西塞。ときに孫策は、西のかた黄祖を討つ。孫策が石城に及ぶと、劉勲みずから海昏に向かっていると聞いた。
劉勲も勢力を拡大したい。皖城を本拠地としながら、敵対した華歆の豫章郡を切りとりに行ったのだろう。その隙を、孫策に奪われるとも知らずに。もと袁術集団を吸収したから、袁術の後継者を自認して、揚州の全域の支配に乗り出したと。兵糧が足りずにトラブルを起こすところまで、袁術の「後継者」である。孫策は、従兄の孫賁・孫輔に8千人で彭沢において劉勲を待ち伏せさせた。孫策は周瑜とともに、2万人で皖城を破って、袁術の百工・鼓吹、部曲3万人と、袁術・劉勲の妻子をとらえた。
孫策は、東(呉郡・会稽)から、西(黄祖)を討ちにゆく。劉勲は、北(皖城)から、南(華歆)を討ちにゆく。たまたまクロスして、孫策と劉勲の戦いが起きた。
孫策は、袁術集団の遺産(ヒトもモノも)を手に入れたい。劉勲が最初の撃破の目標である。つぎに曹操の命令に従って、黄祖を撃った。孫策にとって、勢力拡大の余地があるのは西だけだから、自己の利害とも一致して、黄祖を撃っている。曹操と孫策は、①献帝の権威を認め(袁術の権威を認めず)、②劉表を敵と見なし、③姻戚関係になっているため、公私にわたって、本音と建て前にわたって、協調的な軍閥同士である。
孫策は上表して、汝南の李術を廬江太守として、3千人で皖城を守らせ、ここで得た人口は呉に行かせた。
孫策の本拠地は呉郡・会稽である。西の「前線」の皖城には、守備隊がいれば充分である。もともと袁術の生前から、孫策の本拠地は、呉郡・会稽だった。孫賁・孫輔は、彭沢で劉勲を破った。劉勲は逃げて楚江に入り、尋陽から歩いて置馬亭にゆく。孫策に皖城を奪われたと聞き、西塞山に投じた。
至沂,築壘自守,告急於劉表,求救於黃祖。祖遣太子射船軍五千人助勳。策複就攻,大破勳。勳與偕北歸曹公,射亦遁走。策收得勳兵二千餘人,船千艘,遂前進夏口攻黃祖。時劉表遣從子虎、南陽韓晞將長矛五千,來為黃祖前鋒。策與戰,大破之。劉勲は沂水に至り、塁を築いて自守し、劉表に告げて、黄祖に救いを求めた。黄祖は、子の黄射に水軍5千をつけて劉勲を救う。孫策は劉勲を破り、劉勲・劉偕は曹操をたよる。黄射はにげる。孫策は、劉勲の兵2千余と、船1千を得た。
孫策は、江夏で黄祖を攻めた。ときに劉表は、従子の劉虎・南陽の韓晞に長矛兵5千をつけ、黄祖の先鋒とした。孫策はこれをおおいに破った。
『呉録』は孫策から献帝への上表を載せる。「建安四年(199)12月8日、沙羨で黄祖を攻めた。12月11日、周瑜、呂範、程普、孫権、韓当、黄蓋らと、黄祖を破った」と。
豫章太守(南昌)の華歆は、華歆伝によると、孫策に不戦降伏した。孫策伝だけ読んでも気づけないというトラップである。孫策は、華歆を尊敬した。孫策が死ぬと、孫権に引き留められたが、曹操のもとにゆく。
華歆は、劉勲に兵糧を供出しようとしたが、横取りされかかった。劉勲を破った孫策は、「敵の敵」である。初期条件として、関係性は悪くない。
袁術とともに馬日磾を支えた、豫章太守の華歆
イフ展開として、孫策が死なねば、華歆が留まってくれるだろう。
◆建安五年
『資治通鑑』によると、建安五年 正月、曹操が董承を殺す。二月、曹操が黎陽に進む。四月、曹操が白馬で劉延をすくい、文醜・顔良を殺す。袁紹軍が本格的な渡河に踏み切る……というとき、孫策の最期の記述がはじまる。つまり時期としては、袁紹と曹操が戦闘開始したあと、曹操が動く。
乃以弟女配策小弟匡,又為子章取賁女,皆禮辟策弟權、翊,又命揚州刺史嚴象舉權茂才。建安五年,曹公與袁紹相拒於官渡,策陰欲襲許,迎漢帝,未發,會為故吳郡太守許貢客所殺。先是,策殺貢,貢小子與客亡匿江邊。策單騎出,卒與客遇,客擊傷策。曹操は、弟の娘を、孫策の弟の孫匡にめとらせた。子の曹彰に、孫賁の娘をめとらせた。孫権・孫翊を礼をもって辟した。また、揚州刺史の厳象に命じて、孫権を茂才に挙げさせた。
史家のバイアスを除き、現象だけ見るのなら、孫策は、曹操勢力の重要な一員である。陳寿は「是時哀紹方強,而策並江東,曹公力未能逞,且欲撫之」と、孫策の安撫は、ただの方便とする。しかし、袁紹という強大な敵がいるのに、「潜在的に孫策を平定対象とみていた」というのはムリがある。劉表を牽制してくれる味方として、頼りに思っていたのでは。曹操が官渡にゆくと、孫策は漢帝を迎えようとしたが、いまだ発せざるに、許貢の食客に襲われた。
孫策伝にひく『江表伝』:廣陵太守陳登治射陽,孫策西擊黃祖,登誘嚴白虎餘黨,圖為後害,策還擊登,軍到丹徒,須待運糧。初,策殺吳郡太守許貢,貢奴客潛民間,欲為貢報仇。策性好獵,數出驅馳,所乘馬精駿,從騎絕不能及,卒遇貢客三人,射策中頰,後騎尋至,皆刺殺之。広陵太守の陳登が射陽にいる。孫策が西のかた黄祖を撃つと(建安四年十二月)、陳登は厳白虎の余党を誘って、孫策の背後を襲った。孫策は(黄祖の討伐をやめて)引き返し、陳登を撃つ。丹徒で補給を待っているとき、もと呉郡太守の許貢の奴客に襲われ、ほおを射られた。
孫策は、劉勲・黄祖を破って、西進していた。その留守を、陳登に突かれた。残念ながら孫策の最期は、本拠地の防衛戦である。許都を攻めるでも、徐州を攻めるでもなく、本拠地を守りに、敵を迎撃にきて、その途中で刺客に襲われた。陳矯伝の記述を「孫権が匡奇を囲んだ」から「孫策が匡奇を囲んだ」に変えれば、攻めになるが。
陳矯伝はいう。陳登は匡奇(射陽のそば)で、孫権にかこまれた。陳登は陳矯をやり、曹操に助けをもとめた。曹操が援軍したので、孫権はひいた。『先賢行状』はいう。陳登は、江南を呑みこみ、滅ぼす志があった。孫策は、陳登を攻めた。功曹の陳矯が、曹操に救いを求めた。
袁紹伝はいう。建安五年(200)、黎陽にきた。孫策は、同じ歳の4月に殺された。孫策が「曹操と袁紹が対峙するので、出陣してきた」は、誤りである。陳登を攻めたのが正解だ。裴松之は上記『江表伝』にくわえ、『九州春秋』、孫盛『異同評』を見たあと、孫策が陳登を目標にしたという。
巻二十二 陳矯伝
孫策の動きを知ることができる陳矯伝のはじめをやっておく。
陳矯、字季弼、廣陵東陽人也。避亂江東及東城。辭孫策袁術之命、還本郡。太守陳登請爲功曹、使矯詣許、謂曰「許下論議、待吾不足。足下相爲觀察、還以見誨」矯還曰「聞遠近之論、頗謂明府驕而自矜」登曰「夫閨門雍穆有德有行、吾敬陳元方兄弟。淵清玉絜有禮有法、吾敬華子魚。清脩疾惡有識有義、吾敬趙元達。博聞彊記奇逸卓犖、吾敬孔文舉。雄姿傑出有王霸之略、吾敬劉玄德。所敬如此、何驕之有!餘子瑣瑣、亦焉足錄哉」登雅意如此、而深敬友矯。陳矯は、廣陵の東陽のひと。
『郡国志』によると、徐州の広陵郡に東陽県があり、もと臨淮に属する。
謝鍾英によると、東陽県は、魏志では陳矯のところで書かれる。孫権伝・孫韶伝によると、徐水・泗水の間には、郡県はない。潘眉はいう。臨淮の東陽県のひとである。陳騫は陳矯の子である。劉頌伝では「臨淮の陳矯」とある。けだし晋が臨淮郡をおき、広陵の東陽を分けて臨淮に属させた。ゆえに陳矯は、魏代は「広陵の東陽のひと」であり、晋代は「臨淮の東陽のひと」となる。
乱を江東に避けて、東城に及ぶ。
『郡国志』によると、徐州の下邳国の東城である。孫策・袁術の任命をことわる。広陵太守の陳登は、陳矯を功曹にして、許都にいかせる。「許都での論議は、私の扱いについて不足がある(評価が不当に低い気がする)。いって観察し、かえって教えてくれないか」と。陳矯は還ってから報告した。「遠近の論を聞くに、あなたは驕って自矜だそうです」と。陳登「私はおおくを尊敬している。陳元方の兄弟(陳紀・陳諶)・華子魚(華歆)・趙元達(趙昱)・孔文舉(孔融)・劉玄德(劉備)。それなのに、どうして驕っていようか」と。陳登の雅意はこのようであり、ふかく陳矯を敬友した。
陳紀(陳羣の父)・華歆・趙昱・孔融・劉備というのが、青州~徐州に名を知られた名士。これに陳登を加えると、海沿いの主要な人材が揃うことになる。孫策が加入しようとしたメンバーズクラブは、これである。末席の劉備のように、軍功を立てることで、加わることができる。
郡爲孫權所圍於匡奇、登令矯求救於太祖。矯說太祖曰「鄙郡、雖小形便之國也。若蒙救援使爲外藩、則吳人剉謀、徐方永安、武聲遠震、仁愛滂流。未從之國、望風景附、崇德養威。此王業也」太祖奇矯、欲留之。矯辭曰「本國倒縣、本奔走告急。縱無申胥之效、敢忘弘演之義乎」太祖乃遣赴救。吳軍既退、登多設閒伏勒兵追奔、大破之。
太祖辟矯爲司空掾屬、除相令、征南長史、彭城樂陵太守、魏郡西部都尉。広陵郡で、孫権によって匡奇が囲まれた。
盧弼はいう。孫権でなく、孫策とすべき。
匡奇は、巻七 陳登伝にひく『先賢行状』に見える。謝鍾英はいう。匡奇城とは、もと射陽に近い。
林国賛はいう。陳登が広陵を守っていたとき、孫策は生存している。陳矯伝によると、陳矯は孫策を辞して陳登に仕えた。つまり匡奇を囲ったのは、孫策であると分かる。徐宣伝によると、徐宣は孫策の任命を辞して、本郡(広陵の海西のひと)に還った。陳矯・徐宣は、太守の陳登に評価されたと。陳矯と孫策の対決であることが証明できる。
ぼくは思う。孫策の最期は、陳登から呉郡を守るため、丹徒(長江の南)補給を受けていたところ、刺客に襲われた。もしも孫策が匡奇を攻めるなら、建安五年ではなく、それよりも前であるべき。ムリではないか。呂布が片付いてから(建安三年末)、袁術が死ぬまで(建安四年夏)のあいだに、孫策が徐州に攻めこんだのか。史料にないし、タイムテーブルもきつい。
建安二年、呂範らが(孫策と分かれて)陳瑀を海西に攻めている。このように、孫策・周瑜・孫賁・孫輔とは別に、徐州を攻める部隊があった。孫権は、孫策の生前から、徐州方面で陳氏との戦いに加わっていたのでは。そうしたら、陳矯伝のまま「孫権が匡奇を囲む」でよい。
陳登は、陳矯をやって曹操に救いを求めた。陳矯「鄙なる(辺境の)郡で(生産量も人口も)小さいが、形便の(地政学上、重要な)国です。もし救援してくれたら外藩となり、呉人の謀をくじきます。軍事・統治がうまくゆく。これは王業です」と。曹操が陳矯を留めようとしたが、陳矯はことわった。曹操が援軍をくれた。呉軍はすでに(曹操軍と戦う前から)退いており、陳矯は間伏・勒兵を設けて、おおいに追撃して破った。
時系列としては、孫策が劉勲・黄祖と戦っているとき、孫権の徐州北伐があったのだろう。曹操は、孫策に「黄祖を撃て」という詔を出して、孫策がそのとおりに動くのを見ていた。孫策は、曹操の味方である。陳矯が、わざわざ曹操を説得する必要があったという時点で、曹操が孫氏と対立することに慎重だったことが分かる。兵糧や兵員を惜しんだという側面もあろうけど。
のちに陳矯は、法律の簡素化・裁判の迅速化した。曹操が死んだら、詔を待たずに曹丕を魏王にした。曹叡が尚書に来たら、「文章のチェックは皇帝の仕事じゃない」と追い返した。風通しのよい知性。慣例にこだわらず、非常時にササッと対応できる。そういう印象の人物です。後半の抄訳ははぶく。
徐州をめぐる孫氏の動き
孫策の死因は「徐州」でした。まとめます。
建安元年、孫策は、呉郡・会稽という本拠地を得た。徐州には、袁術が任命した広陵太守の呉景がいる。建安二年春、袁術が皇帝になると、孫策は、曹操のネットワークに本格加入。呉景は、広陵太守をやめて、長江を南に渡りなおし、孫策に合流。孫策は、呉景を丹陽太守とした。
建安二年の夏ごろから、袁術が北上し、秋九月に陳国を襲撃。恐らく前後して、建安二年の夏、陳瑀・呂布・孫策に、袁術を討てという詔勅が出た。陳瑀はこれに従わず、萬演に長江をわたらせ、呉郡・丹陽をゆさぶる。孫策はこれを撃退した。反動で、孫策は呂範らに海西で陳瑀を攻めさせ、陳瑀の妻子を捉えた。陳瑀は袁紹を頼った。故安都尉となる。
孫策に怨みをもつひとが、あとで登場するフラグですね。弱体化した袁術と、正式に縁を切った孫策は、建安三年、建安元年の2倍の貢献を行った。曹操から討逆将軍・呉侯をもらった。曹操は、南陽の張繍と連戦しているころ。張繍・劉表を牽制するために、孫策は便利な味方である。
詔勅で「曹操・董承・孫策・劉璋は、劉表・袁術を討て」という、個別指示というよりは、戦略レベルの大方針が出された。つまり曹操は、劉表・袁術を敵と見なしており、遠隔地の孫策・劉璋の助けを必要としていた。
曹操は袁紹に向けて、官職をつけた妥協的な外交をしているころ。
ときに徐州は、呂布政権の末期。陳登は、呂布の使者として曹操に会いにゆき、広陵太守となる。陳登は現地で、陳瑀を功曹に採用した。
武帝紀によると、建安三年の秋九月から、曹操は東して呂布を攻める。建安三年冬、呂布が下邳で死んだ。呂布が死んだので、建安四年から、陳登がフリーとなり、江東の進出をねらう。
かつて建安二年、徐州で呂範が陳瑀を駆逐した。徐州に孫氏の軍が入りこんでいる。陳矯伝によると、孫権が匡奇(射陽のそば)を攻めたとき、陳登は陳矯を使者として、曹操に救いを求めた。呂布が全く出て来ないことから、建安四年~建安五年春(夏四月に孫策が死ぬ前のことだろうから)と思われる。フリーハンドの陳登と、機転の利く陳矯が、孫氏の軍を徐州から追い出す。ふたたび、揚州に打って出るチャンスをうかがう。
建安四年夏、瀕死の袁術が、徐州に入って死んだ。
ここから、孫策は「袁術の遺産」をめぐる戦いを、廬江太守の劉勲とおこなう。西のかた皖城を得て、建安四年の冬十二月、荊州で黄祖の先鋒と戦う。手に入れられるものは、ぜひ取りに行くべきだが、これは、東方の徐州が手薄になることと同義。陳登・陳矯は、撤退する孫権軍にダメージを与えながら、呉郡をねらう。陳瑀と同じく、厳白虎を味方につけた。
建安五年春、孫策は荊州攻略を打ち切り、根拠地を守るために、長江を東にくだる。長江の水際、丹徒で補給を受けて、「これから徐州の陳登軍を防がねば」というとき、許貢の食客に襲われて負傷し、夏四月、死に至ったと。
建安五年の正月、董承の陰謀が発覚。これより前、劉備が逃亡して、下邳で徐州刺史を斬る。建安五年春のうちに、曹操が下邳をみずから攻めて、関羽を捕らえた。劉備が下邳を一時的に得て、曹操が下邳を奪還するタイミングと、孫策が黄祖を破ってから陳登を迎撃するために揚州に還ったタイミングが同じ。
孫策は、自律的な動きをしているとは言いがたく、陳瑀の襲撃、袁術の死、陳登の襲撃などに振り回されて、東へ西へと動き回っている。許都の襲撃なんて、文脈のどこから出てくるのは、まじ意味不明。もしも孫策がここで死なず、陳登の広陵郡にふたたび押し入ったら、そばには、曹操が劉備から奪還したばかりの下邳がぶらさがっている。
……というわけで、やっとイフ物語をやる準備ができました。160421
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- 第2回 郭嘉の予言、許貢の奴客・于吉
孫策の臨終についての資料
孫策伝にひく『江表伝』:初,吳郡太守許貢上表於漢帝曰:「孫策驍雄,與項籍相似,宜加貴寵,召還京邑。若被詔不得不還,若放於外必作世患。」策候吏得貢表,以示策。策請貢相見,以責讓貢。貢辭無表,策即令武士絞殺之。貢奴客潛民間,欲為貢報讎。獵日,卒有三人即貢客也。策問:「爾等何人?」答雲:「是韓當兵,在此射鹿耳。」策曰:「當兵吾皆識之,未嘗見汝等。」因射一人,應弦而倒。餘二人怖急,便舉弓射策,中頰。後騎尋至,皆刺殺之。かつて呉郡太守は、漢帝に上表した。「孫策は項羽に似ており、許都に召還すべきです。もし召還の詔をもらえば、孫策は許都にいくしかない。もし孫策を揚州に野放しにすれば、世の患いとなる」と。
孫策は、曹操とのあいだに、官爵・婚姻の関係をむすんでいる。もしも曹操が、こういう詔書を出したら、孫策は葛藤状態に置かれる。少なくとも『江表伝』の孫策にとっては、この詔書が出ることは、勢力の死活問題であったと。孫策の斥候はこの上表をつかみ、孫策に示した。孫策は許貢を責め、許貢を絞殺した。許貢の奴客は、民間にひそむ。狩りで、孫策は奴客3人に遭遇した。孫策「だれだ」、奴客「韓当の兵で、鹿を射てる」、孫策「オレは全員の兵の顔を知ってる。お前らを知らない」と。孫策は、1人を射倒した。あと2人は怖れ、弓を射た。孫策のほおに当たった。騎兵がきて、みな刺殺した。
李卓吾本『三国演義』も、和訳『通俗三国志』も、孫策が許貢の残党に襲われたとき、華佗は不在で、華佗の弟子が手当をする。都からきた人と話すと、郭嘉の「孫策は内争で死ぬだろう」という予言を知る。『吉川三国志』は、華佗本人が手当してくれる。都からきた人に、蒋林の名が与えられる。独自設定?
蒋林という名が吉川英治の創作ならば、ルーツはどこか。曹操と孫氏とを往復して、曹操のところの詳しいというキャラは、蒋幹(曹操の使者として、周瑜を誘いにくる)から来ている気がする。気がするだけです。
『三国演義』第二十九回では、袁紹の使者として、陳震というひとが孫策を説得にくる。『吉川三国志』も踏襲。『蜀志』に列伝のある南陽の陳震ではなさそう。どこが由来なのか。陳琳のイメージから、拡大したのか。ともあれ、物語中の陳震は、そのまま無視されて、于吉と孫策との戦いにズレてゆく。
孫策伝の裴注は、まず『江表伝』をひき、虞喜『志林』が内容の不整合を指摘。つぎに『捜神記』を載せて、裴松之が「『江表伝』と『捜神記』は食い違うよね」とまとめる。ぼくは、破綻だらけの『江表伝』よりも、『捜神記』に従って話をつくろう。
孫策伝にひく『捜神記』:策欲渡江襲許、與吉俱行。時大旱、所在熇厲。策催諸將士使速引船、或身自早出督切、見將吏多在吉許、策因此激怒、言「我爲不如于吉邪、而先趨務之?」便使收吉。至、呵問之曰「天旱不雨、道塗艱澀、不時得過、故自早出、而卿不同憂戚、安坐船中作鬼物態、敗吾部伍、今當相除。」令人縛置地上暴之、使請雨、若能感天日中雨者、當原赦、不爾行誅。俄而雲氣上蒸、膚寸而合、比至日中、大雨總至、溪澗盈溢。將士喜悅、以爲吉必見原、並往慶慰。策遂殺之。將士哀惜、共藏其尸。天夜、忽更興雲覆之。明旦往視、不知所在。孫策は長江を渡って許都を襲うため、于吉を連れてゆく。ときに日照で(水深が足りないから、船が進まず)孫策は将士に、速やかに船を引っ張らせたい。みずから監督したが、将士は于吉のところにいた(船を引くのをサボっている)。孫策は激怒し、「オレよりも于吉を重んじ、于吉のために働いているのか」と。孫策は于吉を捕らえた。日照を于吉のせいにした。「航路が捗らないのに、于吉は(許都の襲撃が遅れるという)心配を共有せず、船中であやしげなことをして、将士の労働量を減らしている。殺してやる」と。于吉を地面にしばって(太陽に)さらし、雨乞いをさせた。「もし雨を降らせたら赦す、降らせなければ誅す」と。にわかに大雨がふり、将士は于吉が赦されると喜んだ。しかし孫策は于吉を殺した。将士は、死骸にすがって哀惜して、ともに死骸をしまった。夜、雲がおこり、于吉の死体をおおった。翌朝、死体は消えていた。
ツイッターのアンケート
ツイッターのアンケートつくりました。
もしも孫策が死ななかったら、直後の行動は?
・許都を襲撃、献帝を揚州に
・許都を襲撃、許都に留まる
・陳登を攻め、徐州を獲得
・黄祖を攻め、荊州を獲得
3分間の初動は、黄祖に5票。「献帝を揚州に」は陳寿の公式見解。「陳登を攻撃」は裴注の見解。でも、献帝を揚州に迎えても持て余す。先の展開が思いつかない。むしろ、献帝が拒絶するんじゃないか。広陵に陳登を撃つにせよ、その後、江南を離れて下邳へと進むイメージがなく。
「漢帝を迎ふ」という陳寿本文は、開始3時間でも0票。『三国演義』第二十九回でも、「常有襲許都之心」と、許都をねらう孫策の心情が描写されてますが、今日の日本では、リアリティがないようです。
20票のうち、60%が荊州攻め。孫策が劉表を攻めれば、間接的に、官渡の曹操が助かる。袁術から離脱した孫策は、献帝・曹操が発信する詔勅どおりに動いてきた。「曹操と親和的」な孫策は、もしも生き残っても、しばし継続すると。個人の信条よりは、状況に規定されてかな。
孫策の内面について
いま『吉川三国志』を読んだら、孫策は、曹操に敵対的。
孫策の眼にも漢朝はあったけれど、その朝門にある曹操は眼中になかった。孫策はひそかに大司馬の官位をのぞんでいたのである。けれど、容易にそれを許さないものは、朝廷でなくて、曹操だった。甚だおもしろくない。(中略)「曹操何ぞ。瘡の癒えるのを待ってはいられない。すぐわしの戦袍やかぶとをこれへ持て、陣触れをせいっ」孫策は、漢帝には従うが(史実でも、張紘を介して、漢帝との交渉を持っている)、曹操は潜在的に敵視している。曹操も「婚姻政策」による「偽装平和」という設定。このあたりは、吉川英治なりの分析・解説。
曹操は、獅子の児と噛みあう気はなかった。しかし獅子の児に、乳を与え、冠を授けるようなことも、極力回避していた。ただ手なずけるを上策と考えていた。――で、一族曹仁の娘を、孫策の弟にあたる孫匡へ嫁入らせ、姻戚政策をとってみたが、この程度のものは、ほんの一時的な偽装平和を彩ったまでにすぎない。日がたつと、いつとはなく、両国のあいだには険悪な気流がみなぎってくる。乳を与えなくても、獅子の児は牙を備えてきた。『吉川三国志』で、三国志について初めて詳しく触れたので、この孫策像は、大切にしたい。許都の襲撃を目指してこそ、孫策です。
もし孫策が、生き残ったら
イフ物語を、ぼちぼち語り始めましょう。
建安五年春、孫策は丹徒にきた。広陵太守の陳登を防ぐためである。補給を受けつつ、狩りをしていると、許貢の奴客に襲われた。程普が助けにきた(『演義』仕様)。孫策は傷の手当てを受けた。
「箭頭に薬毒を帯び、巳に骨に入る。将に一百日を息むべし。得て妄動する勿かれ。若し怒気 動激すれば、其の瘡 治り難し」(『三国演義』第二十九回)
毒矢が骨髄に入ったから、百日は動くなよと。
傷ついた孫策は、曹操への敵愾心をあらわにする。「袁術を見限った後、漢帝の詔書には、諾々と従ってきた。もちろん、漢帝の命令には、従うべきだからだ。しかし不本意ながら、曹操の意図どおりに動くことにもなった。オレのほうが若いから、いつか老いた曹操を、逆転するつもりだった。だから、曹操に利することにも我慢ができた。しかし、重傷を負ってしまっては、そんな時間はない。許都を襲撃したい」
まだイフ物語ではない。『演義』の孫策の心情を、ぼくが膨らませただけ。
蒋林(『吉川三国志』オリキャラ)が、許都からきた。曹操による孫策評をきく。郭嘉が、「孫策は、つまらん死に方をするよ」とコメントしていると聞いて、孫策は怒った。おのれ曹操、おのれ郭嘉。
陳瑀伝で、陳登が、許都での己の評判を気にしていた。孫策が、このように聞くことは、不自然ではない。そして、孫策の死を予見した郭嘉というのが、因縁のライバルに格上げされました。郭嘉は、烏丸討伐にゆかねば、もうちょい生きられただろうし。
蒋林は、蒋幹・張紘あたりを混ぜて薄めて、作中で動かしやすいキャラ。
曹操が、官渡城で袁紹と戦っていることを知った孫策は、「すぐに許都を襲撃する」と決定。いまがチャンス。
孫策「匹夫 安にか敢へて吾を料る。吾を射たるは、必ず操の謀なり。吾 誓ふ、許昌を取りて、以て漢帝を迎へんことを。瘡を待たず、便ち出でて議事すべし」(『演義』第二十九回)
張昭は反対した。「医者 主公をして百日 動く休かれとす。何が故に、一時の忿に因りて、自ら千金の軀を軽ずるや」と。
張昭は、当面は、江東の平穏を優先している。史実の張昭は、孫策の死を受けて、周瑜とともに孫権を守り立てた。江東の平穏のために、孫策を諌めるのは正しい。孫策の身を案じているようでいて、じつは江東の平穏を案じている。許都まで勝ち抜いたとして、どうするの、と心配である。
張昭「陳登は、厳白虎を味方につけて、わが領土を内部から切り崩すつもり。もし孫策が許都に行ってしまえば、だれが守れるのか」
『陳志』にも『演義』にもない台詞だが、いかにもありそう。
孫策は許都に向かう。物資を船で運ぶ。しかし日照により水深が足りず、進軍が最初から挫ける。兵士たちのなかに、于吉がいる。兵士の心が安定するならば、と思って、于吉がくるのを咎めなかった。軍のなかに宗教者を置くことは、士気の維持にとって有効だと期待して、孫策は黙認している。戦勝を祈願させたり。
しかし兵士は、于吉のもとに集い、ろくに働かない。
史料に書いてないことだが、兵士たちは、べつに許都・漢帝に興味がない。それよりも、故郷を離れる不安・不満のほうが大きい。「天が、川を干上がらせるのは、私たちの北伐に対する警告かも知れない」とか、へんな理屈が伝播する。
このページの第0回で書いたように、テーマは、「秦漢帝国という病」です。故郷・本拠地の防禦をおろそかにして、許都にむかう孫策の行動は、非合理的・破滅的である。つまり、もう発病している。「漢帝を迎えるべき」「天下を取るべき」という、ベキベキの強迫観念に捕らわれており、ひとの話が聞けない。
于吉に雨乞いさせると、ちゃんと雨が降る(『捜神記』)。孫策の母も、于吉を敬っている(『演義』)。 張昭 諌めて曰く、「于道人 江東に在ること数十年、並せて過失無し。之を殺す可からず。民望を失なふを恐る」云々
えーと、
いまいち、史実の重力圏から脱出できません。孫策が死なないことの物語的な必然性=カギが思いついていない。于吉による呪い/祝いを関係させたいが。袁術もしくは孫堅からの影響を絡ませるか。
揚州刺史のゆくえ
孫策が死なない場面の設定を、先送りにして。
史実では、孫策が死ぬと、孫策が皖城を任せた廬江太守の李術がそむく。李術は、曹操がおいた揚州刺史の厳象(後漢の治所は歴陽)を殺した。厳象とは、孫権を茂才にあげたひと。孫権が李術を破って、孫河を廬江太守とする。
本作では、孫策が揚州から出ていき、勝ち進む。
孫策が生き残ったおかげで、建安五年のうちに、呂範が陳登から広陵を奪い、孫策は寿春に入るとか。
孫策が長江の北にゆくと、史実と同じ時期、廬江太守の李術がそむき、厳象を殺す。史実では、孫策なき孫権よりも、李術を頼りにするひとが多かった。ポスト袁術は、劉勲-孫策-李術-孫権と変遷したのである。本作では、外に出ていた孫策が求心力を失い、李術が史実なみに反乱すると。
史実では、厳象の後任者として、曹操が劉馥をつかわす。劉馥は、単騎で合肥に入って、のちの魏呉の国境線を画定させる。孫策がもし生きていれば、ここまで「曹操のなすがまま」にはならないだろう。孫策は、揚州牧を取りに行くはず。
ともあれ、ツイッターのアンケート結果を待ち、もうちょい考えます。いつ「曹操に親和的」をかなぐり捨てるかが、孫策が生き残った場合の不可避的な問題。史実の「赤壁」と同型の事件が、どこかで起きる。
「孫策が死なない」をタテ糸に、「秦漢帝国という病」をヨコ糸にと思ったけど、もうひとつくらい要素が必要な気もする。160421
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- 第3回 孫策が隻腕となり、広陵・江夏を平定
前回、孫策が生き残る方法について悩みましたが、ひと晩たち、考えが変わりました。史実の死そのものがアクシデントのようなもの。死からの回避もまた、アクシデントのように、理由なく起こるのではないでしょうか。逆に、理由を付けようとすると、そのエクスキューズを求めて、登場人物たちに「歴史が改変されているような気がする」と、何度も喋らせてしまう。
孫策 死せず
丹徒で軍を整えている孫策。猛りを抑えきれず、狩りに出た。群鹿を追って、道なき道を駆けた。孫策の馬は「五花馬」といい(『演義』第二十九回)ともの程普たちは引き離された。単騎で山奥に入ると、3名の人物と、1名の道士に遭遇した。
孫策「誰だ」
相手「韓当の兵です」
孫策「兵の顔は、全員を知っている。お前は違う」
なにげない『演義』の台詞ですが、孫策らしくて、かっこいい。たちまち孫策は、1名を射倒した。のこり2名が同時に矢を射る。五花馬とともに姿勢を低くし、矢を頭上に過ごした。孫策は2人めを倒した。最後の1名が素早く、つぎの矢を射る。五花馬は動けない。孫策はとっさに左手で、顔をかばった。矢は手のひらを貫通。怒りとともに馬を飛び降り、剣で敵の眉間を砕いた。
いつのまにか、道士は居なくなっていた。
孫策を襲ったのが、だれなのかは分からずじまい。呪いは、発信源が分かれば無効化される。許貢の呪いであることは、まだ作中では保留。どこかで伏線を回収しましょう。
『蒼天航路』では、顔面がヒビ割れた道士が、同行してました。
孫策には敵がおおい。このように刺客に遭遇することは、二度や三度ではない。動揺することなく、矢を取り除いた。程普が追いつき、刺客の死体を探ったが、身元の手掛かりなし。夜になると、傷口が腫れ、孫策は発熱した。
孫策は、呂範を呼んだ。
呂範は、孫策・孫河とともに、孫策の母と会うほど、信頼があつい。呂範は、官職を上がるのを好まず、都督の地位に留まって、軍の統制の仕事を続けた(呂範伝にひく『江表伝』)。建安二年、徐州に北伐して、海西の陳瑀を討伐した。
袁術の爪牙、孫策を助けた軍事マニア、呂範伝
呂範は、前年末に孫策とともに江夏で黄祖と戦ったあと、鄱陽の平定をしている。孫策の負傷を聞いて、ただちに駆けつけた。
史実では、孫策の死を知って、呉郡に駆けつける。孫策「広陵太守の陳登が、長江を渡って、呉郡を脅かすだろう。厳白虎とも連絡を取っているらしい。なんのことはない。3年前の陳瑀と同じだ。また呂範に任せたい。孫権を使ってくれ」
陳矯伝によると孫権は、徐州を攻めて、陳登・陳矯に敗れたことがある。
◆広陵郡の攻略
作中での順序は調整するが、呂範による陳登攻めは成功する。孫権+周泰も活躍する。広陵郡は孫氏のものとなり、呂範が広陵太守となる。
袁術の時代、広陵太守となったのは、孫策の外戚の呉景。現在、丹陽太守として、孫氏の本拠地の一翼をになっているから、動かすことができない。
広陵は、もとは袁術と劉備が長期戦をやった場所である。史実の孫氏は、長江の北に安定的な拠点を得られない。早くも、史実よりも有利となった。陳登・陳矯は、袁紹のもとに奔った。曹操が官渡で、圧倒的に不利である以上、いくら皇帝を擁しているとはいえ、曹操を頼るのは現実的でない。陳登は、陳瑀の縁を頼ることができる。
英雄の陳登・軍師の陳矯が、史実とちがう人生を歩み始めた。孫権「広陵を得たからには、つぎの攻撃目標は下邳ですか」
呂範「下邳は、陶謙・呂布の本拠地だった。数ヶ月前、劉備が一瞬だけ占領し、曹操がすぐに奪還した場所。もしも曹操がみずから来たら、地理にくらい私たちは、城を保つことは至難だろう。幸い曹操は、官渡で袁紹に釘づけ。孫策の動向によって、つぎの方策を決めよう」
まだ孫策集団は、曹操との敵対関係が顕在化していない。呂範の独断で、曹操と交戦に入るべきでない。建安に入って5年、積み上げてきた戦略を転換させるほどの権限を、呂範は持っていない。
孫権は、揚州に帰還。ここで、史実なみに魯粛と出会ったりする。後述。
◆孫策が腕を切断する
孫策は、医者に安静を命じられた。しかし退屈である。
許都から帰ってきた、旧知の蒋林(『吉川三国志』オリジナルの命名)から、許都での自分のウワサを聞いた。
蒋林「曹操はつねに『猘児難與爭鋒也』と言ってます (孫策伝にひく『呉歴』)。しかし郭嘉は、『孫策は敵対者が多くて孤立し、1名の刺客によって倒される』と言っています(郭嘉伝)」
郭嘉伝:孫策轉鬥千里,盡有江東,聞太祖與袁紹相持於官渡,將渡江北襲許。眾聞皆懼,嘉料之曰:「策新並江東,所誅皆英豪雄傑,能得人死力者也。然策輕而無備,雖有百萬之眾,無異於獨行中原也。若刺客伏起,一人之敵耳。以吾觀之,必死於匹夫之手。」策臨江未濟,果為許貢客所殺。孫策「許せない。オレは亡父の志を継いで、詔勅に従って動いてきた。しかしやはり曹操は、オレを都合よく利用しているだけか」
きっと郭嘉が、曹操の本音を代弁しているのだろう。曹操としては、劉表・袁紹という両面の強敵がいる以上、孫策を敵に回したくない。だから便宜的に、孫策の脅威論を唱えているだけ。孫策はそれを確信してしまった。
孫策「許都を攻めて、オレの実力を思い知らせてやる」
孫策は水路を活用して、許都を襲撃する準備をした。兵のなかに、瑯邪の于吉がいた。
孫策「とにかく急げ。曹操が袁紹を破れば、オレたちは曹操に勝てない。袁紹が曹操を破れば、オレたちは袁紹に勝てない。天下に手が届くのは、曹操が籠城している、いまだけなのだ。天の与えた時である」
みずから現場に立って監督した。しかし日照のため水位が下がり、船による輸送が捗らない。孫策は兵士に、船を綱で引けと命じた。ところが兵士は、于吉のまわりに群れるばかり。兵士は、故郷を離れることに不満・不安がある。
史実で、曹丕が孫権を攻めようとすると、川の水が干上がったり、凍ったりした。南北統一の時期でないと「天」が判断した場合、このような「妨害」が入るのである。孫策「オレよりも于吉を優先するな。于吉を斬れ」
さわぐ孫策を、ともに許都攻略に取り組んでいる周瑜が見つけた。
周瑜「それよりも孫策。まだ、きみの左手は治らないのか」
孫策「傷は塞がっているのに、動かない」
周瑜「華佗の弟子が、どこかにいるはず。私が探してこよう」
華佗のように、独立した新しい文化価値を有した階層を、孫策は好まない。もしも頬を射られたならまだしも(『演義』なみ)たかが手の傷ぐらいで、華佗に頼るのはイヤだった。しかし、文化価値を理解する周瑜は、華佗の弟子を呼んだ。
華佗の弟子「矢に毒が塗られていたようです。毒は骨髄に染みている。左ひじから先を切断しないと、命に関わることになります」
周瑜「患部の骨を露出し、削り取ればよいのでは」
のちに関羽にやるみたいに。華佗の弟子「手のひらの骨は、ひとつひとつが小さく、削ることは不可能。それに、負傷してから時間がたち、手首のほうにも転移しています」
周瑜「ありがとう。孫策を説得してみます」
しかし、武勇のひと孫策は、左腕を失うことを拒否した。
孫策「許都を襲うまで、数ヶ月ですむ。数ヶ月、オレの身体がもてばいい」
周瑜「バカヤロウ」
孫策が無傷のままで大活躍する、という話も考えましたが。史実の死がアクシデントなら、片腕の喪失もアクシデント。いちおう、史実の痕跡/傷跡がほしいので、片腕をもらいました。孫策が不便を強いられている限り、歴史の改変について、作中で云々しなくて良いので。張昭は、揚州の安寧のために、孫策の延命と、許都襲撃の中止を主張。孫策は、もっとも信頼する(逆らうことのできない)周瑜・張昭に反対されて、破滅的な急進策を思い留まる。
それでも孫策は、腕の切除に踏み切れなかったが、母の呉氏が、于吉に「息子の孫策の腕が治りますように」と祈願しているのを見て、気持ちが揺らぐ。事実として、腐食は進んでいるから、ついに手術を受けた。
于吉に祈る母、というのは『演義』より。
黄祖を攻める
徐州から、呂範の勝報が届いた。
孫策「陳登の平呉の志を聞き、慌てて東にきたが、もう脅威は去った。もともと昨年末、黄祖と戦っていた。ふたたび黄祖を攻めようと思う」
張昭「厳白虎が、また姿を眩ませました。彼の捜索が先では」
史実の厳白虎は、この時期を最後に、記述が消える。周瑜「呉郡・丹陽・会稽といった、われらの本拠地は、時間をかけて固めるしかない。厳白虎が山中に隠れたら、見つけるのはムリ。厳白虎は、外援がないと、ひとりではなにもできない男。心配する必要はありません。それよりも、長江の上流を、劉表に占められているのは、防衛上の懸念です。孫策に賛同します」
厳白虎が、物語中での「自由」を手に入れてしまった。張昭「周瑜にも一理あるけれども」
孫策「よっしゃあ(無双風)黄祖を攻めて、亡父のカタキをとる!」
史実で、孫権が黄祖を破るのは、八年後。孫策の死によって、史実において孫氏は停滞を強いられる。しかし孫策が生きているから、順調に話が進む。黄祖を攻めるとは、劉表を掣肘することであり、間接的に曹操を助けることになる。これは、建安四年までに孫策の(史実における生前の)動きの継続である。
本拠地は、外戚の呉景がにらみを利かせており、揺らがない。
長江をくだる孫策は、豫章で太史慈を加えた。
太史慈は、豫章で劉繇の残兵を吸収して、孫策の信頼を得た。そのあと、荊州方面の「ふた」として機能した。劉表のおいの劉盤と戦った。
太史慈伝:劉表從子磐,驍勇,數為寇於艾、西安諸縣。策於是分海昬、建昌左右六縣,以慈為建昌都尉,治海昬,並督諸將拒磐。磐絕跡不復為寇。太史慈は、一時は独立勢力となったほど、気概に溢れる男。
孫策「さっさと黄祖を倒して、劉表のクビを取ろう」
太史慈「いま劉表を攻めれば、曹操を助けることになるぞ」
孫策「ミクロで見れば、そうかも知れない。だが官渡の攻防で、袁紹が勝とうが、曹操が勝とうが、どちらも無傷ではいられない。その間に、揚州・荊州を合わせる。袁紹と曹操、勝ったほうと決戦を挑もう」
太史慈「それでこそ、オレが見込んだ男」←上から目線
孫策「おうよ、愉快だぜ」←単細胞
夏口で、黄祖の前軍と衝突。先鋒を務めるのは、凌操。しかし戦死。
史実では、建安八年(203) に、孫権とともに黄祖を攻めて、甘寧に殺された。
「甘寧に遺恨をもつ凌統」というのは、お約束なので、凌操さん、ごめんなさい。
孫策・周瑜・太史慈の活躍により、黄祖を撃ちとった。周瑜は、名目だけだった「江夏太守」が現実のものとなる。
周瑜伝:頃之、策欲取荊州、以瑜爲中護軍、領江夏太守。甘寧は(孫氏に降るタイミングもないので)江陵に撤退。
ここまでが建安五年。曹操は、官渡で勝利。
孫策が「つぎは江陵を攻めるぞ」と、外に目がいっているとき、(孫策の不在に漬けこんで;史実なみに)廬江太守の李術が、孫氏から独立。曹操が派遣した、揚州刺史の厳象を殺す。孫策の弟であると同時に、曹操の方面司令官のような役割も期待されている孫権は、揚州を守り通すことができるのか。160422@korekorebox さんはいう。200~201年は徐琨も孫河も健在だから、江東の孫策勢力圏内でなにかあれば朱治とその二人を合わせた三人が中心になって対応しそう。会稽は虞翻が居るから心配ない。閉じる
- 第4回 孫策が許都を攻める
前回、孫策が片腕を失いましたが、片足のほうがいいか。孫臏のイメージ。江東を駆けめぐる孫策が、片足を失ったというほうが、象徴的なダメージを与えられる。
こうやって話がコロコロ変わるのも含めて、「あらすじ」づくりの目的を果たします。むしろコロコロ変わってこそ、アイディアが練られる。
アンケートの結果がでました。ご回答ありがとうございました。
ぼくは思う。孫策が許都を攻めるのは、袁術や孫堅の動きの継承だから、あやがちムリではない。しかし、孫策の許都到達をはばむのは、曹操軍よりは、袁紹軍かも。豫州は、ほぼ袁紹の版図だし。...という展開を思いつきました。
孫策を「秦漢帝国という病」の重症者にするなら、アンケートに表れた「許都よりも黄祖を攻めるべき」という多数派の意見すらも切り捨てて、「天子を、曹操と袁紹との私闘から救うべし」と唱え、豫州に突撃させる。官渡の勝敗のバランスにまで影響を与える。という話に修正しましょうか。
前回の動きを軌道修正して、孫策は「賢者」張昭の反対を押し切り、母親の心配をよそに、許都への進撃を決意。兵士をたぶらかす于吉には、「雨乞いに失敗したら死刑」とする。于吉は雨乞いに成功するが、孫策はこれを斬れと命令。兵士・母親が抵抗。許都にいくことを優先して、孫策は、于吉に憎まれ口をたたいて追放。
于吉という「敵」がどのように転がるのやら。史実では、許都にゆけずに孫策が死ぬから、于吉を斬る&幻影に悩まされるというウツ展開。本作では、そんなウツはいらん。
しかし、『捜神記』なみに斬らんばかりに于吉に敵対するのは変えない。主人公は、少々「粗忽者」でないと、物語が前に進まない。
許都に進撃する孫策・周瑜
孫策「天子を、曹操と袁紹との私闘から救うべし。天子のまわりで戦うなんて、李傕・郭汜と同じではないか。オレの本拠地の揚州にお迎えする」
という、政治声明を発信。孫策もまた、構造的に、李傕・郭汜と同類になっているのだが、それに気づかないのが「天子」が絡んだときの思考パターン。強迫症に集団で罹患しているから。
揚州に、袁紹の使者・陳震がきている。(『演義』第二十九回)陳震曰く、「結びて外応と為らんと欲す。南北より曹を攻め、共に天下を分けん」と。策の心 甚だ喜ぶ。城楼上に諸将を会集し、管待す。
いちどは陳震を歓迎したものの、孫策が思い返せば、袁紹もまたライバルのひとりである。袁紹に味方すれば、天下を分けるどころか、袁紹に吸収されるだろう。「おのれ陳震、詭弁を弄して、オレを利用する気だな。お前の指図は受けないぞ」
陳震は逃げてゆく。
周瑜「反曹操を掲げるだけでも、進軍の名目は立った。いっきに袁紹まで敵に回す必要はなかったのでは」
孫策「袁術の部将を卒業したら、曹操の部将になり下がった。さらに袁紹の部将になるなんて、オレはいやだ。初めて、独立のための戦いを始める。志をいつわって、なんの覇業だろうか。最初が肝心なのだ」
周瑜「キミらしいな」
袁術の部将を5年、曹操の部将を5年というところか。もう忍従は充分。もし孫堅が生きていたら、この準備期間すら、要らなかっただろうに。
周瑜・孫策は、于吉の雨にも助けられて、進軍を本格化。まず、袁術による廃墟・寿春に入る。ここは史実で、袁胤が「曹操から守るのはムリ」と判断して、放棄したところ。焼け跡にたたずみ、ありし日の自分に思いを馳せる。袁術には、わが子のように扱ってもらった。
きっと袁胤も従軍している。「袁術は、過ちを犯しました」という袁胤に対して、「そんなことはねえ」と弁護する孫策。これからやろうとしている許都の攻撃は、袁術が建安二年の夏~秋にやったことの反復。袁術とは、行き違ってしまったが、孫策は感謝してる。公言すべき思いではないが、袁胤が「袁術はダメなやつ」と自己批判したのが呼び水になり、秘めた思いが表に出てくる。意外がる周瑜。
寿春は、周囲が荒廃して、補給にも支障がある。宿泊もできない。歴史ある城を破壊し、周囲の県も廃墟にするほど、袁術の称帝は害悪をもたらした。という事実を、作中で突きつける。袁術がバカだからでなく、袁術もまた「秦漢帝国という病」の患者であったと。地方の一城で「皇帝権力」を支えるのは、負担が重すぎる。
孫策が、曹操・袁術の抗争に参戦
ときに袁紹は、官渡城を陥落させられずにいた。
許攸「許都を急襲して、天子を奪ってしまおう」←史実なみ
袁紹「うーん、そのときじゃない気がするんだよね」←史実なみ
許攸「わたしが孫策に送った(←独自設定)使者・陳震の報告によりますと、孫策が許都を狙っているようです。同盟をもちかけ、対等に扱ってやったのに、なんとも不遜なことです」
袁紹「孫策? 愚弟の飼い犬か。よし許攸、進発をゆるす」
許攸「ありがとうございます」←史実から改変
許攸は、おのれのアイディアが却下された上に、どこの馬の骨とも分からぬ若造に、同じことをされるのが悔しい。だから、必死に袁紹を説得するのです。軍権を与えられ、許攸は南下。地図の黄矢印。
孫策は陳国に入った。
陳国は、曹操の領土。建安元年(196) 正月、陳国の武平県で、曹操は、袁術の任じた陳相の袁嗣を降している。孫策は、陳相に袁胤を命じた。陳国は、陳王が黄巾・群雄から領土を守ったため、荒廃をまぬがれた。ここを本拠地にした。
曹操は、陳羣を沛国のサン県の令、賈逵を汝南の城父県の令にした。李通を陽安都尉とした。地図のなかの青いマル。すでに「郡県がのきなみ袁紹になびく」vs「曹操が名望ある士大夫に長官を任せる」という、勢力争いのなかにいる。孫策は兵站に不安があるから、短期決戦したい。
許攸軍が接近。常識人の程普曰く、「敵は大軍です。延津・白馬で、曹操に連敗しているとはいえ、強さは変わらない。陳国の城壁をつかって、守りますか」
孫策「攻めているのは、オレたちだ。むしろ撃って出る!」
孫策軍は、許攸を撃破。捕虜とする。
そのまま許都にむかう。曹操の全軍は、官渡に出払っており、このまま許都を得られるかと思われた。荀彧がつくった書簡が届く。使者は、侍御史の張紘。張紘は史実どおり許都にいる。
史実では、建安四年、許都にくる。そのまま許都にいて、孫策が死んだ直後、江東を攻めようとする曹操を制止する。荀彧の文書「天子の詔勅に従って、逆賊を討伐してきたのは評価する。しかし孫策には、劉表を討てという命令が出ていたはず。どうして聖意にそむいて、みだりに兵を動かして、天子を脅かすのか」
漢の尚書令として、すごみをきかせて。周瑜は、荀彧の「王佐」に共感を懐いており(『蒼天航路』)正論を突きつけられて、許都を攻めることにたじろぐ。しかし孫策は、曹操こそ、天子を政治の道具にした逆賊だと唱える。
程普「張紘はどう思うのか。曹操の手下になりさがったのか」
張紘「いいえ。江東を平定した孫氏の手柄を、貴重に思っています。だからこそ孫策には、江東の統治を優先してほしかった。江東にも王者の気はあるはずです。袁紹と曹操が戦っているこの場所に、飛びこむ必要がありますか」
史実の張紘は、曹操のもとに置かれても、孫権が王者になることにこだわり、建業を都にすることを提案した。孫策「許都のなかは、どんな様子か」
張紘「戒厳が布かれ、天子も衣食を切り詰めておられます」
孫策「ほら見ろ。曹操は、もう耐え切れまい。袁紹が曹操を破るのは、時間の問題。袁紹がここに乱入したら、天子は生命すら危うい」
張紘「あなたはどうするつもりですか。ここで天子を守りますか。曹操にできなかったことが、あなたにできるとは思えません。袁紹軍の数は、やはり脅威です」
孫策「揚州にお連れする」
張紘「きっと天子が肯んじないでしょう……。西漢の都である長安ですら、望まれなかったのです。まして揚州なんて」
もしも袁術が生きていたら、どうしたか。孫策はそれを考えていると、汝南にいる曹仁が到着。曹仁が許都の守備を始めたから、手出しができない。
官渡の戦いで、袁紹が勝つ
許攸が孫策軍の捕虜になったので、曹操は、官渡で勝つための突破口が見えない。ついに耐えきれず、官渡を脱出して、許都まで防衛線を下げた。
孫策「攻めるぞ」
周瑜「曹操と袁紹のどちらを? ここは、彼らに潰しあいをさせるのが上策」
孫策「袁紹軍は弱いぜ」
周瑜「いけない。わが軍を壊滅させる気か。袁紹は数十万の大軍。このまえの許攸を基準に考えてはいけない。窮地の曹操軍も、侮りがたい。『孫子』を読んだでしょ。陳国を死守して、中原の拠点を固めるべきだ」
袁術も、陳王を殺してここを拠点とし、洛陽・許都を窺った。ここに橋蕤を残して撤退したら、橋蕤が曹操に殺されて、袁術軍は事実上レースから脱落した。程普「揚州から陳国への道は、袁紹の本拠=汝南郡と、曹操の故郷=沛国に挟まれている。陳国を保つことは困難だ。少なくとも、寿春にひくべきだ。寿春を再建しよう。荒廃こそすれ、軍事的なポテンシャルのある土地だから」
周瑜「しかし……」
程普「そんなに陳国が大切なら、周瑜が陳国に残りたまえ」
周瑜の意見に、程普は反発する。どこかで和解するのがお約束。孫策「オレの事業に、後退なんてありえない。周瑜を陳国に残し、オレが寿春に引いたら、袁術と同じだ。
「後退なんてありえない」のは、症例のひとつですね。
ちなみに、袁術:橋蕤=孫策:周瑜とはいえ、袁紹軍と正面からぶつかるのは危険。周瑜の意見を採り、陳国を大切にしよう。そしてオレは、亡父にあやかって豫州刺史を名乗る。天子から与えられた会稽太守は、孫権に名乗らせよう」
孫権が会稽太守になる時期は、だいたい史実どおり。孫策は上昇して、揚州の地方長官ではなく、天下の中心とも言われる豫州の長官を選んだ。
曹操は、許都で籠城戦その2を始めた。
孫策は陳国にいて、袁紹軍に備える。袁紹が大軍を分割して、陳国に攻めて来ないとも限らない。許攸に聞けば、烏巣に兵糧を集積しているらしく、ここを奪えば、袁紹は戦いを継続できないだろうと。
孫策「そんな古い情報、いらない。袁紹は、官渡を抜いて、陣の配置を変えたはずだ。第一、お前を信用できない」
史実で曹操が許攸を信じたのは、旧知だから。孫策は初対面なので。周瑜は、水路をメインに、補給路を確立。さいわい陳国から汝陰県をぬけて芍陂へ、川1本でいける。
この方面は、ここまでが建安五年。
華歆が揚州刺史となる
『資治通鑑』の建安五年 冬にいう。
冬,廬江太守李術攻殺揚州刺史嚴象,廬江梅乾、雷緒、陳蘭等各聚眾數萬在江淮間。曹操表沛國劉馥為揚州刺史。時揚州獨有九江,馥單馬造合肥空城,建立州治,招懷乾、緒等,皆貢獻相繼。孫策が揚州に不在となると(史実では孫策が死ぬと)、廬江太守の李術が、曹操の送った揚州刺史の厳象を殺した。廬江の梅乾・雷緒・陳蘭は、江淮の間で衆数万をあつめた。
曹操は劉馥を揚州刺史として、劉馥は単馬で合肥の空城に入った。孫策は、叔父の孫静に揚州刺史を任せようとしたが断られた。
孫静が官職を断るのは史実なみ、揚州刺史というのは独自設定。孫策は華歆に揚州刺史を任せた。華歆は、孫策が敬意をもって迎えた名士。
史実では、孫策が死ぬと中原に帰ってしまうが、まだいた。文官系の華歆は、合肥の重要性を見抜くでもなく、淮南に入って、常識的な修繕を始めた。梅乾・雷緒・陳蘭を懐かせた。
孫権は、李術を滅ぼして、張昭とともに留守を守っている。
もう曹操と敵対したのだから、つぎは下邳がほしくなるなー。160423閉じる
- 第5回 孫策が天子を移し、豫州・徐州を得る
土曜の午前、散歩がてらパン屋さんに行ってきて、考えが変わりました。
孫策は、無防備な許都を、一気に手に入れて、天子に謁見してしまおう。それほどに、史実では実現できなかった「許都の急襲」は、奇策だった。というよりも、官渡における曹操は、全力を絞っており、背中がガラあきだった。
孫策が許都を占拠する
尚書令の荀彧の書簡をたずさえ、侍御史の張紘が、孫策の陣を訪れた。孫策は、「袁紹と曹操の私闘から、天子を救出する」と主張し、歩みを止めない。張紘は、ガキの使いとして荀彧に復命。
孫策が近づくと、許都の城門は、なすすべもなく開く。
献帝が許都に鎮座して、まだ4年。許都が聖性を帯びるのは至らず、長安からの流浪の延長のような感じ。だから、なにがなんでも許都を死守!というわけではない。孫策・献帝の若さは、城門をすぐに開けた。許都の聖性により攻撃できない話は、前作の『反反三国志』で書いた。同じことをくり返しても仕方ない。天子「だれか」
孫策「孫策と申します。洛陽で歴代皇帝の陵墓を修復した孫堅は、私の父です。いちばん勇敢に董卓と戦ったのも、孫堅でございます」
怪しいものではないですよ&恩に感じてほしい&制御したい!天子は、李傕と郭汜に争奪されて以降、こういう連中には慣れている。毅然とした態度で、「朕をどうするつもりか」と聞いた。
孫策「安全な場所にお連れします」
天子「(また流浪かよ)いずこに?」
孫策「呉郡」
天子「ならぬ(董卓と同類だが、さらに悪質だな)、朕は、この許県ですら、行在所と見なしておる。漢の都は洛陽である。あなたの父にゆかりのあるのも、洛陽。洛陽に連れていってくれるなら、従わないでもない」
孫策「任せてください」
天子「(えっ?)」
張紘「洛陽は董卓が廃墟にして、防御力0。まして地形も悪い……」
若くて理想家の孫策は、孫堅の遺志を重んじるから、洛陽の遷都・再建を請けおう。しかし、さすがにすぐには実現が不可能。「もしも父が天子を得たらどうしたか、やはり洛陽に行くだろう」と孫策は想定するが、張紘らが反対する。
そうこうしてると、曹仁が駆けつけ(前回の話に合流)、孫策は許都の防衛に回る。とはいえ、曹仁は「天子を奉戴する曹操」の部下なので、許都に矢を射かけることができない。孫策は、少数の遠征軍に過ぎないが、許都を確保した。
荀彧は、ひそかに曹操に状況を伝え、助けを求めた。
曹操は、史実のタイムテーブルで、官渡の食糧が尽きた。ひそかに官渡を脱出すると、孫策に降伏を申し入れる。ここが曹操のすごいところ。もしここで孫策・袁紹に挟撃されたら、兵が全滅する。
曹操「孫策よ。われらは前年まで、ともに天子の忠臣として、遠隔地で協力しあってきた。孫策・孫権・孫翊に、官職・爵位を斡旋したのは私だし、孫権を茂才にあげたのも私の口利きだ。まして縁戚ではないか。われらが争う理由などない」
孫策「……それもそうか(曹操から膝を屈するなら、赦してやろう)」
曹操「太尉の位が空白である。孫策が太尉となってはいかがか。司空の私とともに、朝廷を支えようではないか」
しかし孫策は、太尉の別バージョンである大司馬を望む。曹操の意を推し量って、献帝・荀彧は、言うがままに大司馬を授けた。『演義』第二十九回:孫策 此の時 大司馬と為らんと欲するも、曹操 許さず。策 甚だ之を恨む。常に許都を襲ふの心有り。三公の子弟である周瑜が、「性急な昇進は、身を滅ぼす」と諌めたから、孫策は豫州牧に正式に任じてもらうことで、この場は我慢した。
史実の曹操も、自称・兗州牧から、正式な兗州牧になることが、昇進のはじまり。
曹操と孫策は、客観的に見ればライバルである。しかし、天子というトリック・スターを噛ませることで、なぜか味方同士になる。孫策の行動は、袁紹軍から天子を守るものとして読み替えられた。曹操の「降伏」は、有名無実化する。天子の前では、みな臣僚の一員。協力して当然である。
曹操「袁紹から、天子をお守りせねば。私は青州兵を補充するが、ダメージは大きい。無傷の孫策軍に期待する」
きっと、縦横家の董昭が、曹操と孫策の対立を解消する詭弁をこしらえた。
荀彧は、孫策の無礼をとがめ、曹操の屈辱を悲しんだが、黙っていた。董昭の詭弁によって、曹操・天子の両者が活きるのだから、妥協できるところである。
孫策の介入によって、曹操と荀彧のハッピーエンドができそう?
曹操は、わずか頴川郡をたもつだけの、弱小勢力。何度も訪れる、滅亡の危機。天子を維持するために、孫策に譲歩するのは、生存戦略としてベスト。
建安五年冬、揚州刺史の厳象が殺されると、曹操が(史実どおり)沛国の劉馥を推薦した。しかし孫策が華歆を推薦するから、劉馥は別駕あたりに収まった。劉馥と合肥のコラボを、見ることができる。ここまでが、建安五年。
孫策が献帝を陳国に移す
建安六年、袁紹が許都にせまる。袁紹は大軍である上に、官渡で曹操の降兵を吸収した。強くなっているが、移動が遅い。補給が苦しい。作中では見えないが、「もう冀州に撤退すべき」と、軍師たちがケンカしているw
孫策「曹操は、許県の城に、守備の工夫を凝らしてきたのだろう」
曹操「もちろん。屯田したり、土塁を築いたり」
孫策「天子を陳国に移せ。オレが天子を守ろう。陳国なら、わが軍が続々と駆けつけることができる。曹操は許都に残って、袁紹を食い止めよ」
「前線の官渡:首都の許都」と同じ構図を、「前線の許県:首都の陳国」で再現する。孫策は、曹操を「袁紹への供犠」とした。曹操「天子の動座。そして、いっそうの後退策か……」
迷う曹操に、荀攸が耳打ち。
荀攸「悪い策ではありません。袁紹とて、これ以上、冀州を空けるのは危険なはず。彼が撤退するまでの時間を稼ぐため、孫策の協力を仰ぎましょう。うまく孫策が動いて、袁紹の別軍を脅かしてくれたら、われらは断然、戦いやすくなる」
史実では、翌年の夏に、袁紹が死ぬ予定なので、あとちょっとの辛抱。曹操「なるほど」
許都を守るなら、土地勘のない孫策よりも、曹操が適任である。
孫策は、天子を朝臣を伴って陳国へ。荀彧は、曹操と再度の別れを惜しみ、陳国に移る。孫策「さっさとしろ! 袁紹が来てしまうぞ」
孫策は、若さに任せて、既存の(旧世代の or 史実ベースの)人々を撹乱していく。そういう役割を負ったキャラクターです。ともに40歳になった孫策&周瑜とか、どういう人物になってるんだろう。
孫策は陳国で、武術をたしなんだ陳王の劉寵がつかったという弓術のマトをつかい、腕前を披露する(失ったのは片足という設定にしました)。
天子は、陳王ゆかりの地だから、わりと居心地がよい。揚州に連れて行かれるよりは、ずっとマシ。
荀彧は、弔問の使者のような苦々しい顔で、じっと見守っている。曹操のことが心配だが、天子のそばを離れるわけにはいかない。
周瑜・呂蒙が、豫州を平定する
ウラの汝南では、劉備・龔都がいる。
史実では、建安六年に曹仁が退治する。孫策は、豫州牧の職責を全うするために、劉備を討伐する。もともと、袁術が任じた豫州刺史の孫堅の城を、袁紹が任じた豫州刺史が攻めたところから、動乱は深刻化した。孫策にとって、豫州を制圧することは悲願である。
汝南で劉備を討伐するとき、早くも頭角をあらわすのが、兵卒の呂蒙。なぜなら呂蒙は、汝南の出身だから。周瑜・呂蒙が、劉備・張飛と戦うという、史実を10年以上も先取りした展開。
劉備は敗れて、荊州の劉表のもとに落ちてゆく。曹操・孫策の同盟ができた以上、劉表は史実よりも積極的に、曹操・孫策に対抗しなければならない。史実よりも、劉備を厚遇する。たくさんの兵を与えることになる。劉表は、史実よりも強い袁紹とも連絡を取りあい、保険もかけておく。
徐州方面では、呂範が、瑯邪出身の徐盛をつかって下邳を攻略。彭城を得て、沛国に迫る。曹操が太守にした、泰山の臧覇たちと接点をもち、彼らを(史実の曹操なみに)間接統治することになる。
これは、徐州からの避難者がおおい孫策集団にとって、歓迎される動き。故郷が自領に加わり、往来しやすくなる。徐州は、虐殺者の曹操を嫌っているから、呂範を「解放軍」として迎える。順調に勝ち進む。
本作は、一進一退を描きたいのではなく、「びっくりするぐらい、あっさり勝っちゃった」孫策が、どのように政策的な苦労をしていくかがテーマ。孫策には、常勝の神が憑いている(気がする)ので、こういう展開はアリだと思います。
史実の赤壁まで来ちゃうと、領土の取りあいがシビアになる。それ以前に、拡大できるところまで、拡大しておく。
周瑜は汝陰県で、陳国と寿春との連絡を守る。程普は、周瑜と相性が悪いので、梁国を攻める。きっと袁紹軍との衝突がある。勝利しつつ、領土を確保してゆく。
孫権と、魯粛・諸葛瑾との出逢い
孫策が外征しているとき、孫権は史実なみに江東にいて、史実なみの時期に人材と出会う。孫策の「暴風」が中原に吹き抜けたあと、おだやかとなった府舎に、人材があつまり始める。
魯粛は、孫策とは距離を取っていた。魯粛曰く、天下統一は不可能であり、江東に独立国をつくって、それで充分とすることを主張(史実なみ)。
孫権は、「はあぁ?」と驚き、孫策が天子・天下のために戦っていることを強調する。魯粛は、「今日のごとき突出は、いずれ破綻するでしょ。大将が陣頭にたって転戦するなんて、危険すぎる。曹操の『降伏』を、本気にすると、こちらが利用されることになる」と、孫策を批判した。
魯粛は、この作品のテーマの代弁者。ただし、史実から外さないよう注意する。諸葛瑾もまた、孫権と個人的な友誼を結ぶ。呂範・徐盛が、徐州を攻略しているのは喜ばしいが、これ以上、北上すれば、青州刺史の袁譚の勢力圏に接触する。兵力が少ないので、慎重にしてほしいねと。
建安六年をかけ、袁紹と曹操が、許県でにらみ合っているうちに、徐州・豫州をほぼ手に入れた孫策。史実で、揚州をスピード制覇していくのと同じように、長江の北に領土を確保した。
史実でも曹操は、潁川の1郡に籠もって、ひたすら袁紹に耐えた。いちおう、曹操のネットワークに連なる人材が、豫州・兗州・徐州にいたけれど、一時的には切断された。その空隙を、奇跡的な幸運により、本作の孫策が刈り取っています。
大国と大国の衝突に「恩恵」を受けて、勢力をのばす。片方の大国の事情により、優遇される。それを実力と思い込む。この衝突の構図が崩れたとき、新しい道を迫られるが、うまく着地できずに、旧来の態度を変えられない。そういうツマズキも、描きたいですね。「いつまでも、火事場泥棒みたいに、領土を急撃に拡大できるわけじゃない。成長ありきじゃなくて、別の道を!」という、もめごとが起こると。ここまでが建安六年。
これから織りこみたいネタ
あらすじの時系列には、まだ乗っておりませんが、やりたい話。
三顧の礼で、陸遜との和解にとりくむ孫権。史実のように孫策が早期退場しないと、陸氏と孫氏とが和解するのが難しい。孫権が地に足の付いた政策を唱えて、陸遜に振り向いてもらう、ミニ・ゲーム。
物語の後半、烏丸・鮮卑の強兵を手に入れられるようになり、その力に頼りまくる孫策。効率のよい、夢のような兵力の供給源。「烏丸・鮮卑は、完璧に統制下」と言いながら、史実の曹操よりも、ザツな政策を行う。その結果、北宋の燕雲十六州あたりが、漢族の住めない土地になる。幽州・并州北部・冀州の一部。
この失敗について、批判的な意見を述べるものがあると、「かの地域は、都から離れているから、城壁を築いてブロック&切り捨てれば可。それよりも、皇帝権力の成長を優先すべきだ」という、晩年の孫策。それに反発する孫権。
長城で都合よく区切るのは、始皇帝の思考法。
中年の孫策の死後(時期・原因とも未定)、子の孫紹がつぎの君主となるが、孫権がクーデター!とか。孫権は、孫策の失敗に学んでいるから、史実ほどは劣化せず、バランスの取れた君主になるとか。
物語の前半は、孫策の快進撃。後半は、孫権による政策の軌道修正。
本作の孫策は、史実の霊帝・曹操よりも、もっと進歩した改革者として、「秦漢帝国」の理想像を実現する。おかげで、国土は荒廃すると。孫策の出す詔勅は、あまりに現実からかけ離れており、もはや滑稽で、名士層からウンザリされているが、本人は古くさいスキームを唱え続けると。
孫策を「ミスリード」する人材・動機の設定がほしい。孫堅・袁術という前例は、要素のひとつ。あとは、ブレイン的な人物を孫策のそばにつけたい。150423閉じる
- 第6回 孫策が曹操に、袁氏討伐を命ず
前回、曹操が「降伏」したと設定したのに、孫策と曹操の力関係の変化が、うまく描けなかった。そこで、孫策は献帝を、なかば強引に陳国に移そう。献帝らに拒否権がない。事実、袁紹に圧倒されて「曹操に献帝を守る能力がない」と判明したわけだから、革命論者の袁紹に捕まるよりは、勤皇の子・孫策を頼ったほうが良かろうと、朝臣も判断しよう。
孫策が兗州を平定する
建安七年夏までに、孫策軍は、兗州を平定する。袁紹の補給線は、地図のとおりなので、きっと陳留郡(夏侯惇が治水したところ)は、袁紹郡が駐屯しているので、手を出さない。ハイライトは、鄄城を守った程昱を降すところ。これによって曹操は、兗州を失う。
史実でも、程昱は孤立していた。「孤立」するということは、兗州が袁紹になびいて、曹操から離反していたということだろう。官渡の戦いの結果、ふたたび曹操に帰順した(せざるを得なかった)ため、兗州の離反は「なかったこと」になっただけ。この史実を、孫策の快進撃がえぐりだす。
楊弘・張勲は、袁術の没後、孫策を頼ろうとして、劉勲に捕らわれたひと。旧袁術軍の将軍として、この戦いに随行している。兗州の獲得は、袁術が失敗したことなので(匡亭の戦い)、孫策のもとで再現できることを喜んでいる。
「もと袁術軍」で、孫呉に従ったが、孫権の時代には埋没した人材が多そう。これを拾い出して、活躍させたい。袁術にゆかりのある孫策が君主ならば、さらに主戦場が袁術の時代と重なるなら、きっと優遇してもらえる。かつて曹操が徐州に出張ったときに、張邈・陳宮・呂布が(袁術と連携して)兗州を攻めた。東阿・范県・鄄城だけ、程昱・荀彧らが死守した。あのときも「豫州刺史」がやってきて、曹操から兗州を奪おうとした。今回ばかりは、相手が孫策なので、程昱は敗退。きっと死ぬ。
テーマとしては、袁紹と曹操の二大勢力の「熱戦」の合間をぬって、領土を拡大する。
袁紹は、孫策が目障りである。軍師たちは、①まずは曹操を徹底的に叩く、②孫策の快進撃を止める、③孫策から天子を奪う、④冀州に撤退すると、選択肢が増えたために、余計にワケが分からなくなる。こうして、統制的な動きが取れないから、ちょっと軍を出すけれど、孫策に勝つことができない。
袁紹が時間切れとなる
袁紹軍のなかで内紛が広がるが、前提としてあるのは、もう補給が限界ということ。
沮授「これ以上、冀州からジャンジャン兵糧を送りこめば、在地勢力が離反する。豪族レベルでの拒絶は、すでに始まっております。大軍の体裁を維持するのは、もう限界です」
袁紹「仕方ない……」
やむなく撤退した袁紹。曹操は追撃したいが、①帰師を攻撃するのはダメ、②袁紹軍は強大、③孫策に背後を突かれる、④孫策に頴川郡まで奪われたら変える場所がない、といった理由で、みすみす袁紹を帰す。
袁紹は、大軍を動かしても戦果がなかったため、意気消沈して病死(史実なみ)
袁紹の後継者あらそい
史実なみに、袁譚は鄴城から追い出されて、黎陽に屯する。袁譚が、曹操(+孫策)を防ぐために増兵を要求したが、袁尚は、袁譚が強化されるのを怖れて応じなかった。
孫策は天子の名をつかって、「袁紹なき袁氏を攻めよ」と曹操に指示。曹操は、天子の命令にそむけない。曹操・夏侯惇は、まず陳留を回復した。
官渡が陥落したから、陳留は袁紹のものになっているだろう。孫策集団は、あまりに曹操をいじめても、自己の利益にならないから、曹操が陳留を得ることを黙認。
張繍とひもづきの南陽も、曹操にもどるかも知れない。
曹操は、黎陽を攻めた(史実なみ)。建安七年九月から、建安八年二月まで、曹操は黎陽を攻めた。袁尚は、みずから黎陽にゆき、袁譚と協力して、曹操を退けた(史実なみ)。
史実で曹操は、冀州を攻めるべきか、荊州を攻めるべきかで迷う。郭嘉が「袁氏に背中を見せれば、袁氏が内紛を再開するはず」という。郭嘉は、孫策の死を予言したひとなので、拡大した孫策勢力の弱点も、このとき曹操に吹きこむであろう。いい配役。もちろん孫策は、それを無言で克服していく。
((袁尚 vs 袁譚)vs 曹操)vs 孫策 なので「もっとやれ!」と。
◆馬騰・馬超の動きが変わる
『資治通鑑』建安七年、曹操の黎陽攻めと並行して、并州がうごく。
袁尚がおいた河東太守の郭援が、高幹・南単于とともに、河東を攻めて、馬騰と結んだ。河東の郡吏の賈逵が城を守った。曹操は、司隷校尉の鍾繇に、平陽で南単于を囲ませた。鍾繇は、馮翊の張既を馬騰のところにやり、「袁尚・郭援に味方するな。曹操は天子を頂いているから、味方すべき」といい、説得に成功する。
鍾繇・馬超・龐徳が、郭援を斬る。_2046
しかし本作では、鍾繇・張既が、馬騰を説得できない。なぜなら、曹操が天子を失っているから。だったら代わりに孫策が(史実なみに)天子の名のもとに馬騰を説得すればよいが、揚州出身の彼に、そこまでの目配りはできない。
曹操が孫策に「馬騰を説得するために、天子の名義を貸してくれ」というのもおかしい。馬騰「曹操は大義にある戦さをしたように見えたが、見せかけだった。袁紹・孫策に脅かされ、天子を失った。いまだ天下はどちらに転がるか分からない。袁尚・高幹は精強であり、涼州の保全のためには、曹操よりも袁尚に従おうと思う」
馬騰もまた、李傕から天子を奪おうとした経験がある。天子の争奪ゲームが、まだ続いていることは、馬騰を「元気づける」に充分である。ちょっと早いけど、野心に富んだ馬超も、ここで登場する。
河東郡は、こうして高幹のものとなった。馬騰・高幹の同盟ができた。
◆内政する孫策
孫策は、曹操・袁尚&袁譚の戦いに介入しない。それよりも、新たに得た、徐州・兗州・豫州の内政を開始することに忙しい。史実では、劉備が(曹操の留守をねらって)葉県に進んでくる。しかしこの戦いは起こらない。劉備・劉表の介入は、あとでまとめて見せ場にします。
孫策は「潁川1郡」となった曹操に、陳留・南陽の回復をゆるす。南陽・潁川に曹操軍がいれば、劉表軍と戦わねばならない。孫策の負担の軽減となる。このあたり、だれが立案するのかな。
史実では建安七年、曹操が孫権に任子を求める。張昭・秦松が任子を出すことを勧め、周瑜・呉夫人が反対する。
本作では逆転して、孫策が任子を求める。曹操の部下の大半が反対するが、だれかが「戦略的に」曹丕を揚州に送りこむことを提案。曹操が認めたことにより、曹丕・孫権が同居することになる。
ここまでが、建安七年のあらすじ。160424
袁譚と曹操 vs 袁尚と孫策
建安八年二月、曹操が黎陽から撤退。袁尚と袁譚が対立をはじめ、袁譚は南皮にいく。袁譚は、潁川の辛毗を、曹操のところに派遣して、救いを請うた。
史実よりも孫策が拡大しているが、なんの接点もない孫策に、いきなり頼ることはできない。史実どおり、曹操を頼ればよいだろう。袁尚・審配のところでは、「孫策を利用できないか」という議論が起きる。袁譚・曹操がペアになるなら、袁尚・孫策というペアを作ろうと。さいわい、袁紹軍をおおく継承したのは袁尚だし、黄河の南に領土が最大なのは孫策である。袁尚・孫策のペアを作れたら、とても都合がいい。審配みずから、鄄城の孫策に会いにくるとか。
孫策と袁尚の関係が変化するのは、建安九年以降。まだ動かない。
(史実と同じく)建安八年の十月、曹操は袁譚を救うために、黎陽にいたる。袁尚は、平原で袁譚を囲むのをやめて、鄴城に還った。曹操は、子の曹整と、袁譚の娘とを結婚させた。(本作で)曹操は天子を失った。しかし、婚姻により味方を増やすという戦略は同じ。袁譚とも孫策とも、縁続きになっておく。
(本作では)このたびの曹操の河北ゆきは、曹操が天子に申請して(孫策に許可を得て)行ったこと。
劉表・劉備の介入
正史の袁紹伝では、ここで劉表が、袁譚・袁尚を仲裁する。
『范書』袁紹伝は、まず劉表が袁譚を諌めて、袁尚と戦って曹操と結ぶことの不可を説く。つぎに本文を載せず、劉表が袁尚にも文書を送ったとする。 『陳志』袁紹伝の裴注は、『魏氏春秋』より、劉表が袁譚に送った文書(『范書』に近いか)と、袁尚に送った文書(范曄が省略したが、李賢が採録した)を載せる。李賢によると、劉表の二通の書簡は、『王粲集』に見えるそうです。 『全訳後漢書』を見れば充分すぎるので、ここに引かない。
劉表の視点で、このイフ展開を見たらどうなるか。
史実では、文化の振興が本格化する。袁譚・袁尚をいさめる一方で、まさにこの建安八年、黄祖が孫権の攻撃を退けて、甘寧が凌操を殺す。これだけゆったりできたのは、曹操が河北に手をとられ、孫権がまだ体制を整えていなかったから。
このイフでは、劉表の領土である南陽郡と隣接する汝南郡には、孫策軍の呂蒙がいる。そして孫権は、揚州で留守番をしているが、孫策という支柱が江北にいるから、孫氏の求心力がつよい。
つまり孫氏は、荊州の北(汝南から南陽へ)と、荊州の東(豫章・廬江から江夏へ)を、連携した組織的な二面作戦としてやることができる。史実の建安八年の黄祖攻めを、孫氏の勝利にアレンジするため、汝南からのサポートを強めにやろう。
甘寧は、江陵にひっこむ。
危機感を募らせた劉表は、劉備に大兵を任せる。江陵に劉琦を置いて、呉軍にそなえる。史実と異なり、早い段階で、荊州の解体が起こりそう。
史実で、劉備が江陵あたりに入りこむと、じれったい一進一退に移ってしまう。そうなる前、孫策は、劉表そのひとから荊州を奪おう。
ここまでが、建安八年のあらすじ。主要な戦果は、黄祖を(史実よりも5年)早く討ちとったこと。それが可能となったのは、汝南との連動作戦。その中身は、おいおい考えます。160424
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- 第7回 孫策が袁尚を、曹操が高幹を滅ぼす
孫策と曹操との緊張関係
史実では、袁尚・袁譚の戦いに、曹操が一瞬だけ袁譚の味方をするが、曹操が冀州を攻めれば、袁尚・袁譚は団結する。
本作では、曹操と孫策が緊張関係をはらんでいる。建安五年、孫策は、官渡のどさくさで領土を拡大。曹操は、潁川1郡だけとなった。しかし袁紹が死に、曹操は、もとの領土のうち、袁紹が占領していた部分(孫策が侵食しなかった部分)を回復した。南陽・河南・河内など。
曹操は、孫策から兗州・豫州・徐州を取り戻したい。孫策は、曹操の領土を適切にコントロールして、「袁氏との戦いでは有力だが、それが終わったら無力」にしたい。さすがに、そんな都合のいいことは難しい。
孫策は、おもに袁譚の根拠地である、平原(魏郡の西)に接している。建安八年、曹操と同時に、平原に進撃もする(上では書いてないけど)。しかし、袁尚を曹操が討ち、袁譚を孫策が討ち、各個撃破をめざすのは、上策ではない。袁譚と袁尚には、そもそも対立のタネがあるのだから、これを育てるのがベスト。
しかし、袁譚と袁尚を争わせる前に、曹操と孫策の衝突が始まってしまえば、元も子もない。いちおう詔勅によって「同僚」となっているが、天子を握っているのは孫策である。これを利用して、曹操をうまく使い倒したい。
史実の曹操のやり方が、参考になるはずだが。
曹操に高幹を討伐させる
袁尚が孫策を味方にして、曹操・袁譚を討ちたい。袁譚は曹操を味方にして、孫策・袁尚を討ちたい。これは、曹操・孫策にとっても実現性のある選択肢なので、曹操・孫策とも、けっこう迷う。
建安九年、孫策には、2つの選択肢がある。
①袁氏との戦いを中断して、曹操を滅ぼす
袁譚・袁尚は、放置しておけば対立・自滅するだろう。それよりも、曹操のほうが脅威である。「曹操を利用して袁氏を滅ぼす」というムシのいい作戦は、成り立つのか。むしろ、曹操が再び雄飛するチャンスを与えるようなものではないか。天子の名義をつかって、曹操に圧力をかけよう。②袁尚と結んで、袁譚を滅ぼす
袁氏の力を半分にすることが優先。領土から見て、隣接するのは、勃海・平原など、冀州の東部を拠点とする袁譚である。袁譚を討ち、冀州の東半分を得たらどうか。青州は、何もせずに転がり込むだろう。
しかし、袁尚に指揮命令が統一された袁氏は、逆に手ごわくなるのではないか。次の案にいってみよう。③曹操に袁尚を攻めさせ、自分は袁譚を攻める
曹操に袁尚を攻めさせ、自分が袁譚を攻め、袁氏の兄弟を同時に滅ぼしてはどうか。いやまて、高幹・郭援が、西から攻めてくるのでは。かまわない。それを引き受けるのは曹操なのだから。
しかし、どたんばで団結できるのは袁氏である。なぜなら、彼らは兄弟だから。しかし、曹操・孫策は、いちおう縁戚だが、ただの他人である。果たして、彼らが仕掛けてくるであろう離間の計を、曹操・孫策の同盟は、無視しきることができるか。
④曹操を河東・并州に向かわせる
曹操との共闘は、どうしても危なっかしい。幸い? 高幹・郭援が勢力を伸張させた。彼らの討伐を曹操に命じる。袁尚・袁譚の討伐は、孫策軍だけでやろう。
史実における曹操軍の役割を、すべて孫策軍が代替する。
役割を割り振って議論させ、きっと④曹操を西に行かせる、を採用。詔勅をあやつって、孫策は曹操に、高幹の討伐を命じた。 高幹もまた、袁譚・袁尚と同列に、袁紹から刺史を任せられた一員。「手分けする」という意味で、ムリな話ではない。
黄河の北を放置する
建安九年八月(史実なみ)、孫策は鄴城を陥落させた。呉将のなかから、だれかを冀州牧に任命した。
『資治通鑑』によると、袁尚は従事の牽招を上党につかわせ、高幹に助けを求めた。袁尚が鄴城を失うと、牽招は「袁尚を并州に迎えよう」と解いたが、(本作では曹操と交戦中の)高幹は従わず。
孫策の戦略的なニーズからして、劉表を放置して、冀州を取りに行くとは思えない。きっと、袁尚・袁譚は、彼らが攻めて来ないかぎり放置する。そして、袁譚が袁尚の鄴城を攻めるという泥仕合をするのだろう。
高幹は、建安十年十月、いつわって曹操にくだり(史実なみ)ひきつづき高幹は、并州刺史となる。
こうして、見せかけ上、并州は曹操のものとなった。
高幹は、馬騰に弘農を奪わせ、曹操の攻撃を退けた。これは、曹操が西北に本拠地をスライドさせていくための伏線。
こうやって全土の地図を見てると、「つぎはどっちを攻めようか」と、順序を考えてしまう。くにとりゲームをしているときと、同じ思考になります。
孫翊が殺される
史実では、この歳、媯覧・戴員が、丹陽太守の孫翊を殺す。孫河は京城におり、宛陵におもむくが、媯覧・戴員に殺された。人々は、揚州刺史の劉馥(曹操派)に救いを求めた。
こういう史実ベースの出来事は、積極的に取りこむ。つまり曹操は、孫策に天子を奪われ、袁氏との戦いの前線に立たされ、いいように利用されているように見せて、じつは孫氏の解体を狙っている。孫策が中原に遠征したまま、ずっと本拠地がカラである。孫権・張昭が守っているが、どうしても心許ない。曹操が逆転する余地は、まだいくらでもあるのです。
ここまでが、建安九年。160425
高幹・劉表との戦い
建安十年、夏四月、黒山の張燕が(史実なみ)、孫策にくだる。
冬十月、高幹は、曹操が烏丸を討つと聞き、劉表・劉備と結ぶことによって、起兵した。もともと、孫策が袁氏と小競り合いをして、曹操が并州にはりついているときから、高幹が共闘の調整をしていた。しかし、劉表がタイミングを逃した。とはいえ、まだ充分に、高幹・劉表に勝機はある。
曹操が軍を分割し、河内・南陽を守る。劉備が南陽に入ったから、それを防ぐのが、張遼などの役目。
史実で、赤壁の前、荊州に駐屯していたひとたち。曹操は、孫策に救援を要請。孫策は別軍をやって、南陽で劉備を防ぎ、河内で高幹を防ぐいっぽう、本人は襄陽を攻める。孫策は、この期に劉表を討ちたい。劉表の荊州は、いずれ手に入れなければ、長江の上流を脅かされたままだから。
劉表(劉備)vs 孫策を細かく描く。孫策は、孫堅の再来のように、劉表を襄陽に追い詰める。孫堅ができなかった、劉表の撃破に成功する。劉表は学者を連れて、江陵に後退する。
孫権は、揚州の支配が揺らいでいるから、すぐに兵を出せない。同時に江陵を攻撃することはできない。
建安十一年の春三月、曹操は壺関を降した。高幹は荊州に逃げた。きっと劉備は、益州に逃げこむのだろう。
前半の落としどころは、「これ以上、ムリに天下統一しようとしても、つらいだけ」という、成長の限界に達するところ。160425閉じる