表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』列伝52、蜀漢正統論の習鑿歯伝を翻訳

2)『漢晋春秋』を提出

桓温に重宝されつつ、主人に逆らうことを言ってしまう習鑿歯です。

旅先からの手紙

初,鑿齒與其二舅羅崇、羅友俱為州從事。及遷別駕,以坐越舅右,屢經陳請。溫後激怒既盛,乃超拔其二舅,相繼為襄陽都督,出鑿齒為滎陽太守。溫弟秘亦有才氣,素與鑿齒相親善。鑿齒既罷郡歸,與秘書曰:

はじめ習鑿歯は、2人の舅、羅崇と羅友とともに、荊州従事となった。習鑿歯が別駕に遷ったとき、自分が舅よりも偉くなってしまうので、親戚の序列を守ってほしいと、桓温に何度も願い出た。桓温は、勝手さとクドさに激怒した。桓温は、習鑿歯の2人の舅を抜擢して、相次いで襄陽都督を任せた。習鑿歯は地方に追い出して、滎陽太守とした。
桓温の弟は、桓秘である。桓秘も才気がある人で、ふだんから習鑿歯と仲が良かった。習鑿歯は、地方の赴任先から桓秘に書状を送った。

吾以去五三日來達襄陽,觸目悲感,略無歡情,痛惻之事,故非書言之所能具也。每定省家舅,從北門入,西望隆中,想臥龍之吟;東眺白沙,思鳳雛之聲;北臨樊墟,存鄧老之高;南眷城邑,懷羊公之風;縱目檀溪,念崔徐之友;肆睇魚梁,追二德之遠,未嘗不徘徊移日,惆悵極多,撫乘躊躇,慨爾而泣。曰若乃魏武之所置酒,孫堅之所隕斃,裴杜之故居,繁王之舊宅,遺事猶存,星列滿目。瑣瑣常流,碌碌凡士,焉足以感其方寸哉!
夫芬芳起于椒蘭,清響生乎琳琅。命世而作佐者,必垂可大之餘風;高尚而邁德者,必有明勝之遺事。若向八君子者,千載猶使義想其為人,況相去不遠乎!彼一時也,此一時也,焉知今日之才不如疇辰,百年之後,吾與足下不並為景升乎!
其風期俊邁如此。

私は武昌を去ること15日、襄陽にやって来ました。(以下、旅行先から出す絵葉書みたいな文章なので、抄訳のみ)襄陽の北門から入り、西を見れば、諸葛亮がいた隆中が見えるよ。東を見れば、龐統の声が聞こえてくるよ。北を見れば樊城の廃墟があり・・・、檀渓を見れば・・・。荊州は観光スポットが多くて、泣いちゃうなあ。曹操が酒を置き、孫堅が死んだのも、この辺りだ。感動しまくって、ヤバ過ぎる。
旅先で史跡を見たら、やる気が湧いてきたよ。100年後に、私とあなた(桓秘)は、劉表よりは立派に名を残していようね、と。
習鑿歯の「風期俊邁」ぶりは、このようであった。

習鑿歯は、自意識過剰だ。1人で勝手に盛り上がって感動し、周囲を置き去りにするタイプだ。「旅先で自分を見つけたよ」と熱い手紙を受け取っても、桓秘は困ったはず。ぼくは習鑿歯に似たところがある・・・

『漢晋春秋』を著す

是時溫覬覦非望,鑿齒在郡,著《漢晉春秋》以裁正之。起漢光武,終於晉湣帝。于三國之時,蜀以宗室為正,魏武雖受漢禪晉,尚為篡逆,至文帝平蜀,乃為漢亡而晉始興焉。引世祖諱炎興而為禪受,明天心不可以勢力強也。凡五十四卷。後以腳疾,遂廢於裏巷。

このとき桓温は、ひそかに東晋からの禅譲を望んでいた。習鑿歯は滎陽郡にいて、『漢晋春秋』を著し、桓温に何が正しいかを伝えようとした。
後漢の光武帝から書き起こし、西晋の愍帝までの歴史書である。三国時代のところは、蜀の劉備が漢の宗室だから、正統だと位置づけた。曹操は漢から禅譲を受け、魏は晋に禅譲したのだが、簒逆と位置づけた。司馬昭が蜀を平定したとき、漢が滅びて晋が始まったことにした。
司馬炎が漢から禅譲を受けたことを証拠に、天命は勢力が強い人に下るわけではないことを示した。全部で54巻だった。
のちに習鑿歯は、足を病み、巷間に引っ込んだ。

死に際の、漢晋禅譲説

及襄陽陷於苻堅,堅素聞其名,與道安俱輿而致焉。既見,與語,大悅之,賜遺甚厚。又以其蹇疾,與諸鎮書:「昔晉氏平吳,利在二陸;今破漢南,獲士裁一人有半耳。」俄以疾歸襄陽。尋而襄鄧反正,朝廷欲征鑿齒,使典國史,會卒,不果。臨終上疏曰:

襄陽が、苻堅に陥落された。

本紀に照らすと、379年です。

苻堅は、つねづね習鑿歯の名を聞いていた。苻堅は、習鑿歯と道安とセットにして、輿で招いた。習鑿歯と言葉を交わした苻堅は大いに悦んだ。苻堅は、習鑿歯を手厚く待遇した。
習鑿歯は脚が不自由だったから、苻堅はこんなコメントを発表した。
「むかし西晋が孫呉を平定したとき、二陸(陸機と陸雲)を得た。私は荊州を破ったが、1人半の士人を手に入れただけだ」

五体満足な道安は1人、脚の不自由な習鑿歯は0.5人。差別発言だと叩かれるよ・・・苻堅は、民族差別の枠組みを越えて広く人材を登用し、後趙のつぎに華北を統一する英主です。

にわかに習鑿歯は脚の病いが悪化したから、襄陽に帰った。
習鑿歯が裏切ったとして、東晋は習鑿歯を追及するために、典國史を遣した。たまたま習鑿歯は死んだので、咎められなかった。死に際に、習鑿歯は上疏した。

臣每謂皇晉宜越魏繼漢,不應以魏後為三恪。而身微官卑,無由上達,懷抱愚情,三十餘年。今沈淪重疾,性命難保,遂嘗懷此,當與之朽爛,區區之情,切所悼惜,謹力疾著論一篇,寫上如左。願陛下考尋古義,求經常之表,超然遠覽,不以臣微賤廢其所言。論曰:   或問:「魏武帝功蓋中夏,文帝受禪於漢,而吾子謂漢終有晉,豈實理乎?且魏之見廢,晉道亦病,晉之臣子寧可以同此言哉!」

私はいつも申し上げています。晋帝は、魏帝を飛び越して、漢帝から正統を継承しました。晋帝は、魏后(明帝の郭皇后?)の3つの恪(つつしみ)に応じたのではありません。
私は身分が低いので、私の見解は東晋では認められず、漢から晋への禅譲説は、30余年も日の目を見ませんでした。私は病気で、もう余命がありません。最後の力を振り絞り、持論をレポートにまとめました。提出いたします。皇帝陛下におかれましては、私の身分が低いという理由だけで無視をせず、歴史についてよく考えて下さい。

答曰:「此乃所以尊晉也,但絕節赴曲,非常耳所悲,見殊心異,雖奇莫察,請為子言焉。」

皇帝からの返答。
習鑿歯は晋を尊んで、新説を唱えているつもりか。だが、晋が魏から禅譲を受けたという事実を、捻じ曲げているだけに聞こえる。気をてらった、おかしな珍説にしか思えない。もっと詳しく説明せよ。