表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』列伝52、蜀漢正統論の習鑿歯伝を翻訳

4)歴史を改竄する勢いで

章構成の予定に反し、 列伝の翻訳がズレこんでしまいました。
習鑿歯の死に際の言い分なので、もう少しお付き合い下さい。

なかば逆切れ

自漢末鼎沸五六十年,吳魏犯順而強,蜀人杖正而弱,三家不能相一,萬姓曠而無主。夫有定天下之大功,為天下之所推,孰如見推於暗人,受尊於微弱?配天而為帝,方駕於三代,豈比俯首于曹氏,側足於不正?即情而恆實,取之而無慚,何與詭事而托偽,開亂於將來者乎?是故故舊之恩可封魏後,三恪之數不宜見列。以晉承漢,功實顯然,正名當事,情體亦厭,又何為虛尊不正之魏而虧我道於大通哉!

後漢末から三国時代の5、60年間、呉と魏は、正統の順序を犯して、強い国でした。蜀は正統を保ちましたが、弱い国でした。三国は1つにまとまれず、万民の上に主君がいませんでした。
司馬氏は天下に大功があり、天下に皇帝に推戴されました。司馬氏が、どうして暗弱な曹氏から禅譲を受けなければならないでしょうか。司馬氏は天命によって皇帝となったのに、曹氏に臣従していたなんて、あり得ません。
晋は漢を継いだのです。
(クドいし疲れたので省きめですが、論旨はこぼしてないつもりです)

昔周人詠祖宗之德,追述翦商之功;仲尼明大孝之道,高稱配天之義。然後稷勤於所職,聿來未以翦商,異于司馬氏仕乎曹族,三祖之寓於魏世矣。且夫魏自君之道不正,則三祖臣魏之義未盡。義未盡,故假塗以運高略;道不正,故君臣之節有殊。然則弘道不以輔魏而無逆取之嫌,高拱不勞汗馬而有靜亂之功者,蓋勳足以王四海,義可以登天位,雖我德慚于有周,而彼道異于殷商故也。
今子不疑共工之不得列於帝王,不嫌漢之系周而不系秦,何至於一魏猶疑滯而不化哉!夫欲尊其君而不知推之於堯舜之道,欲重其國而反厝之於不勝之地,豈君子之高義!若猶未悟,請於是止矣。

むかし周人は、祖先の徳を嘉し、殷を倒した功績を書き加えました。司馬懿・司馬師・司馬昭の3代が魏に仕えたという記録があるなら、義のつじつまが合いません。晋にとって不名誉です。歴史をアレンジして、天下統一を実現した、晋の王道を一貫させましょう。
共工は帝王に含めません。私は、漢は周を継いだのであって、秦を継いだのではありません。漢は、秦を飛ばしました。なぜ晋は(秦より領土の小さい)魏を、なかったことにできませんか。皇帝陛下には、堯舜の正しい禅譲について、ご理解いただきたいと思います。
これだけ言っても分かってくれないなら、もういいです。

子孫のはなし

子辟強,才學有父風,位至驃騎從事中郎。

習鑿歯の子は、習辟強という。才學があり、父の風格に似ていた。官位は、驃騎從事中郎まで昇った。


以下、考察をやります。

『漢晋春秋』の時期

「桓温伝」で、桓温が禅譲に色気を見せた記事があるのは、356年に洛陽を奪回してから。しかし桓温がは若いころから、帝王神話を漂わせている。野心を得た時期は、もっと遡れるだろう。
桓温が荊州に赴任した345年から、すでに野心をちらつかせていたかも知れない。東晋において荊州のトップは、皇帝よりも強くなれる。

桓温は着任の直後に、習鑿歯を招いたんだろう。習鑿歯は、桓温の秘書みたいなものだから、すぐに心の中にあるものを見抜いた。なぜスケジュールをこんなにタイトにするかと言うと・・・習鑿歯が、
「30余年、ずっと魏に正統はないと思ってきて」
と言ったから。桓温が死ぬのが373年だ。なるべく早く習鑿歯が考え始めてくれないと、30余年という表現が苦しい。
もっとも習鑿歯が、桓温と会うずっと前から温めていた持論だとすれば、時間の制約は緩くなるが。320年代の王敦や蘇峻の乱を見て、力が強い臣が暴れることに、反感を抱いていたのかも。

「習鑿歯伝」は、年代について寡黙で不親切だ。没年も享年も分からないから、生年も分からない。
この不親切さを逆手に取り、洛陽を奪還した直後に『漢晋春秋』を提出したとしても、史料に矛盾はしない。
ストーリーはこんな感じ。
345年に習鑿歯は召しだされた。
347年に桓温が成蜀を滅ぼすときは、まだ桓温と習鑿歯は蜜月で、従軍や留守をやった。
347年から356年の間に、習鑿歯の舅の件で、桓温と関係がこじれた。習鑿歯は、田舎で執筆に熱中する時間を手に入れた。
桓温はこの間、しきりに北伐をやりたがった。殷浩らが妨げるわけですが・・・習鑿歯は在野で、桓温の野心の成長を、じっと見ていた。そして洛陽を取り戻し、桓温がピークを迎えたときに、『漢晋春秋』を叩き付けた。
つじつまは、合うと思います。