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202年、袁紹が死に、袁譚があぶれる

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

202年春夏、袁紹の死、後継あらそい

春,正月,曹操軍譙,遂至浚儀,治睢陽渠。遣使以太牢祀橋玄。進軍官渡。 袁紹自軍敗,慚憤,發病嘔血;夏,五月,薨。

202年春正月、曹操は譙にきた。浚儀にきて、睢陽渠を治めた。橋玄に大牢をそなえた。官渡に進んだ。
袁紹は官渡で負けてから、発病した。202年夏5月、袁紹は死んだ。

袁紹の死に「薨」の字が使われている。


初,紹有三子:譚、熙、尚。紹後 妻劉氏愛尚,數稱於紹。紹欲以為後,而未顯言之。乃以譚繼兄後,出為青州刺史。沮 授諫曰:「世稱萬人逐兔,一人獲之,貪者悉止,分定故也。譚長子,當為嗣,而斥使 居外,禍其始此矣。」紹曰:「吾欲令諸子各據一州,以視其能。」
於是以中子熙為幽 州刺史,外甥高幹為并州刺史。
逄紀、審配素為譚所疾,辛評、郭圖皆附於譚,而與配、 紀有隙。

袁紹には3人の子があった。譚、熙、尚。だ。
袁譚は青州刺史になった。沮授がいさめた。「長子を外に出してはいけない」と。袁紹は反論した。「みなに1州をまかせ、統治能力を見たい」と。袁煕は、幽州刺史に。外甥の高幹は、并州刺史になった。
逢紀と審配は、袁譚をにくんだ。辛評と郭図は、袁譚についた。だが審配と郭図は、仲がわるい

及紹薨,眾以譚長,欲立之。配等恐譚立而評等為害,遂矯紹遺命,奉尚為嗣。 譚至,不得立,自稱車騎將軍,屯黎陽。尚少與之兵,而使逄紀隨之。譚求益兵,審配 等又議不與。譚怒,殺逄紀。

袁紹が死んだ。みな袁譚を立てたい。審配は、袁譚が立ち、辛評に害されるのを恐れた。審配は遺命をまげ、袁尚につがせた。袁譚は車騎将軍を名のり、黎陽にいる。袁尚は逢紀に兵を与え、袁譚につけた。袁譚は、兵をふやせと言った。審配らが反対した。袁譚は、逢紀を殺した。

じつに、よくまとまっている!


202年秋、鍾繇が馬騰を味方に、河東を平定

秋,九月,曹操渡河攻譚。譚告急於尚,尚留審配守鄴, 自將助譚,與操相拒。連戰,譚、尚數敗,退而固守。

202年秋9月、曹操は黄河をわたり、袁譚を攻めた。袁譚は、袁尚に急をつげた。袁尚は、審配に鄴城を守らせ、袁譚を救った。袁譚と袁尚は、曹操に負けた。袁譚らは退き、かたく守った。

尚遣所置河東太守郭援,與高幹、 匈奴南單于共攻河東,發使與關中諸將馬騰等連兵,騰等陰許之,援所經城邑皆下。
河 東郡吏賈逵守絳,援攻之急;城將潰,父老與援約,不害逵乃降,援許之。援欲使逵為 將,以兵劫之,逵不動。左右引逵使叩頭,逵叱之曰:「安有國家長吏為賊叩頭!」援 怒,將斬之,或伏其上以救之。絳吏民聞將殺逵,皆乘城呼曰:「負約殺我賢君,寧俱 死耳!」乃困於壺關,著土窖中,蓋以車輪。逵謂守者曰:「此間無健兒邪,而使義士 死此中乎?」有祝公道者,適聞其言,乃夜往,盜引出逵,折械遣去,不語其姓名。

袁尚は、河東太守の郭援を置いた。郭援と高幹は、匈奴南単于とともに、曹操の河東郡を攻めた。郭援は、関中の馬騰も連れてきた。
河東郡吏の賈逵は、郭援に攻められた。賈逵は、郭援をふせいだ。賈逵を殺さないことにして、河東郡の父老は、郭援に降った。郭援は、賈逵を部下にしたい。賈逵は郭援のやり方を批判し、河東城から逃走した。

曹操使司隸校尉鐘繇圍南單于於平陽,未拔而援至。繇使新豐令馮翊張既說馬騰, 為言利害。騰疑未決。傅幹說騰曰:「古人有言『順道者昌,逆德者亡』,曹公奉天子 誅暴亂,法明政治,上下用命,可謂順道矣。袁氏恃其強大,背棄王命,驅胡虜以陵中 國,可謂逆德矣。今將軍既事有道,不盡其力,陰懷兩端,欲以坐觀成敗;吾恐成敗既 定,奉辭責罪,將軍先為誅首矣!」於是騰懼。幹因曰:「智者轉禍為福。今曹公與袁 氏相持,而高幹、郭援合攻河東。曹公雖有萬全之計,不能禁河東之不危也。將軍誠能 引兵討援,內外擊之,其勢必舉。是將軍一舉,斷袁氏之臂,解一方之急,曹公必重德 將軍,將軍功名無與比矣。」騰乃遣子超將兵萬餘人與繇會。

曹操は、司隷校尉の鍾繇に、平陽で南単于をかこませた。平陽をぬく前に、郭援がきた。鍾繇は、新豐令をする馮翊の張既に、馬騰を説得させた。馬騰は、曹操につくか、袁氏につくか、決められない。
傅幹は、馬騰に言った。「曹操は、皇帝をもつ。袁氏は強いが、皇帝に背いた」と。馬騰は、迷った。傅幹は、たたみかけた。「曹操に味方して、袁氏を倒せば、馬騰さんの功績は大きい」と。
馬騰は、曹操に味方した。子の馬超に1万余人をあたえ、鍾繇に従った。

馬騰と馬超と、袁氏とのつながり。見ておきたい。


初,諸將以郭援眾盛,欲 釋平陽去。鐘繇曰:「袁氏方強,援之來,關中陰與之通,所以未悉叛者,顧吾威名故 耳。若棄而去,示之以弱,所在之民,誰非寇仇?縱吾欲歸,其得至乎?此為未戰先自 敗也。且援剛愎好勝,必易吾軍,若渡汾為營,及其未濟擊之,可大克也。」援至,果 徑前渡汾,眾止之,不從。濟水未半,繇擊,大破之。戰罷,眾人皆言援死而不得其首。 援,繇之甥也。晚後,馬超校尉南安龐德,於鞬中出一頭,繇見之而哭。德謝繇,繇曰: 「援雖我甥,乃國賊也,卿何謝之有!」南單于遂降。

はじめ諸将は、郭援が強盛だと聞き、平陽から逃げたい。鍾繇は止めた。「袁氏はつよい。郭援はつよく、関中の馬騰らと通じている。もし平陽を捨てたら、私たちは保てない。逃げず、郭援が汾水を渡るとき、攻めよう」と。
果たして鍾繇は、郭援を破った。郭援は死んだが、クビを得られなかった。郭援は、鍾繇の甥である。夜おそく、馬超の校尉をする南安の龐徳が、郭援のクビを届けた。鍾繇は泣いた。龐徳が謝った。鍾繇は言った。「私の甥・郭援は、国賊だ。龐徳は、謝らなくてよい」と。南単于が、曹操に降った。

なぜ鍾繇は、河東や関中に、影響力があったが。郭援とおなじ理由で、人脈を持っていたのかも。鍾繇と郭援は、血縁だ。袁氏か曹操かというスタンスのちがいはあったが、おなじような人脈の輪にいる同士だっただろう。
その人脈が、どんなものか。また考えます。献帝の西遷に絡むかなあ?


202年、劉備が夏侯惇に勝ち、孫権が人質しない

劉表使劉備北侵,至葉,曹操遣夏侯惇、於禁等拒之。備一旦燒屯去,惇等追之。 裨將軍巨鹿李典曰:「賊無故退,疑必有伏。南道窄狹,草木深,不可追也。」惇等不 聽,使典留守而追之,果入伏裡,兵大敗。典往救之,備乃退。

劉表は、劉備に北伐させた。劉備は、葉県にきた。夏侯惇と于禁が、劉備をふせぐ。劉備は屯所を焼き、いちど去った。夏侯惇が、劉備を追う。裨将軍をする鉅鹿の李典は、夏侯惇をとめた。「劉備は、伏兵しているかも知れない」と。夏侯惇は深入りし、伏兵にあった。李典が、夏侯惇を救った。

諸葛亮でなく、劉備の作戦である。よく言われる話だ。


曹操下書責孫權任子,權召群僚會議,張昭、秦松等猶豫不決。權引周瑜詣吳夫人 前定議,瑜曰:「昔楚國初封,不滿百裡之地。繼嗣賢能,廣土開境,遂據荊、揚,至 於南海,傳業延祚,九百餘年。今將軍承父兄餘資,兼六郡之眾,兵精糧多,將士用命, 鑄山為銅,煮海為鹽,境內富饒,人不思亂,有何逼迫而欲送質!質一入,不得不與曹 氏相首尾,與相首尾,則命召不得不往,如此,便見制於人也。極不過一侯印,僕從十 餘人,車數乘,馬數匹,豈與南面稱孤同哉!不如勿遣,徐觀其變。若曹氏能率義以正 天下,將軍事之未晚;若圖為暴亂,彼自亡之不暇,焉能害人!」吳夫人曰:「公瑾議 是也。公瑾與伯符同年,小一月耳,我視之如子也,汝其兄事之。」遂不送質。

曹操は、孫権が人質を出さないから、孫権を責めた。張昭と秦松では、対応を決められない。
孫権は周瑜と、呉夫人の前で話した。周瑜は孫権を説得した。「曹操に、人質を送る必要はない」と。呉夫人は言った。「周瑜が正しい。周瑜は孫策と同年で、1ヶ月生まれが、おそいだけ。私は周瑜を、わが子のように思う。孫権は周瑜に、弟として仕えよ」と。孫権は、人質をやめた。

203年につづきます。短いので、一気にやります。