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207年、烏丸を北伐し、袁氏が死ぬ

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

207年春、荀彧が三公、郭嘉が北伐

春,二月,曹操自淳於還鄴。丁酉,操奏封大功臣二十餘人,皆為列侯。因表萬歲 亭侯荀彧功狀;三月,增封彧千戶。又欲授以三公,彧使荀攸深自陳讓,至於十數,乃 止。

207年春2月、曹操は淳から鄴城にもどった。2月丁酉、曹操は功臣20余人を、列侯にした。荀彧の手柄を、上表した。
207年3月、荀彧を1000戸ふやした。曹操は荀彧に、三公を授けたい。荀彧は荀攸をとおし、断った。十数回の押し問答をして、荀彧は三公にならず。

曹操將擊烏桓,諸將皆曰:「袁尚亡虜耳,夷狄貪而無親,豈能為尚用!今深入征 之,劉備必說劉表以襲許,萬一為變,事不可悔。」郭嘉曰:「公雖威震天下,胡恃其 遠,必不設備,因其無備,卒然擊之,可破滅也。且袁紹有恩於民夷,而尚兄弟生存。 今四州之民,徒以威附,德施未加,捨而南征,尚因烏桓之資,招其死主之臣,胡人一 動,民夷俱應,以生蹋頓之心,成凱覦之計,恐青、冀非己之有也。表坐談客耳,自知 才不足以御備,重任之則恐不能制,輕任之則備不為用,雖虛國遠征,公無憂矣。」操 從之。
行至易,郭嘉曰:「兵貴神速。今千里襲人,輜重多,難以趨利,且彼聞之,必 為備。不如留輜重,輕兵兼道以出,掩其不意。」

曹操は、烏丸を撃ちたい。諸将は言う。「袁尚は、夷狄を使えない。それより劉表に、許都を突かれるほうが、こわい」と。郭嘉が言う。「袁紹が異民族に与えた恩は、大きい。劉表よりも、袁氏が優先だ」と。曹操は、郭嘉に従った。

曹操は、易城にきた。郭嘉は言った。「兵は神速がいい。輜重を切り離して、とにかく速攻をかけましょう」と。

207年夏、田疇の道案内で、烏丸を撃つ

初,袁紹數遣使召田疇於無終,又即綬將軍印,使安輯所統,疇皆拒之。及曹操定 冀州,河間邢顒謂疇曰:「黃巾起來,二十餘年,海內鼎沸,百姓流離。今聞曹公法令 嚴。民厭亂矣,亂極則平,請以身先。」遂裝還鄉里。疇曰:「邢顒,天民之先覺者 也。」操以顒為冀州從事。
疇忿烏桓多殺其本郡冠蓋,意欲討之而力未能。操遣使辟疇, 疇戒其門下趣治嚴。門人曰:「昔袁公慕君,禮命五至,君義不屈。今曹公使一來而君 若恐弗及者,何也?」疇笑曰:「此非君所識也。」遂隨使者到軍,拜為修令,隨軍次 無終。

はじめ袁紹は、無終にいる田疇に、将軍の印をわたし、召した。すべて田疇は断った。いま曹操が、冀州を定めた。河間の刑顒は、田疇に言った。「曹操は、法令が厳しい。曹操を頼ろう」と。田疇は、郷里にかえった。田疇は、曹操の冀州従事となった。
田疇は、烏丸に故郷の人を殺されたことを、怨んだ。だが田疇には、烏丸を撃つ兵力がなかった。いま田疇は、曹操の烏丸討伐に協力した。田疇は曹操に従軍し、かつて住んでいた無終にきた。

時方夏水雨,而濱海洿下,濘滯不通,虜亦遮守蹊要,軍不得進。操患之,以問田 疇。疇曰:「此道,秋夏每常有水,淺不通車馬,深不載舟船,為難久矣。舊北平郡治 在平岡,道出盧龍,達於柳城。自建武以來,陷壞斷絕,垂二百載,而尚有微徑可從。 今虜將以大軍當由無終,不得進而退,懈弛無備。若嘿回軍,從盧龍口越白檀之險,出 空虛之地,路近而便,掩其不備,蹋頓可不戰而禽也。」操曰:「善!」乃引軍還,而 署大木表於水側路傍曰:「方今夏暑,道路不通,且俟秋冬,乃復進軍」。虜候騎見之, 誠以為大軍去也。

夏の長雨で、曹操は進めない。田疇は、地元の人しか知らない通路を、教えた。「この道を通れば、烏丸の不意を突けます。蹋頓を、戦わずに捕えられるでしょう」と。異民族は、あまりに早く曹操の大軍が現れたので、去った。

操令疇將其眾為鄉導,上徐無山,塹山堙谷,五百餘里,經白檀,歷平岡,步鮮卑 庭,東指柳城。未至二百裡,虜乃知之。尚、熙與蹋頓及遼西單于樓班、右北平單于能 臣抵之等將數萬騎逆軍。

袁尚と袁煕は、蹋頓らと、曹操をこばんだ。

八月,操登白狼山,卒與虜遇,眾甚盛。操車重在後,被甲者 少,左右皆懼。操登高,望虜陣不整,乃縱兵擊之,使張遼為先鋒,虜眾大崩,斬蹋頓 及名王已下,胡、漢降者二十餘萬口。遼東單于速僕丸與尚、熙奔遼東太守公孫康,其 眾尚有教千騎。或勸操遂擊之,操曰:「吾方使康斬送尚、熙首,不煩兵矣。」

207年8月、曹操は白狼山に登った。張遼は、蹋頓を斬った。漢族と胡族を合わせ、20余万口が、曹操に降った。
袁煕と袁尚は、遼東太守の公孫康に逃げた。曹操は言った。「袁氏を追わなくても、公孫康がクビを届けてくれるだろう」と。

九月, 操引兵自柳城還。公孫康欲取尚、熙以為功,乃先置精勇於廄中,然後請尚、熙入,未 及坐,康叱伏兵禽之,遂斬尚、熙,並速僕丸首送之。諸將或問操:「公還而康斬尚、 熙,何也?」操曰:「彼素畏尚、熙,吾急之則並力,緩之則自相圖,其勢然也。」操 梟尚首,令三軍:「敢有哭之者斬!」牽招獨設祭悲哭,操義之,舉為茂才。時天寒且 旱,二百裡無水,軍又乏食,殺馬數千匹以為糧,鑿地入三十餘丈方得水。
既還,科問 前諫者,眾莫知其故,人人皆懼。操皆厚賞之,曰:「孤前行,乘危以徼幸。雖得之, 天所佐也,顧不可以為常。諸君之諫,萬安之計,是以相賞,後勿難言之。」

207年9月、曹操は柳城にきた。公孫康は、袁尚と袁譚のクビを、曹操にとどけた。曹操は命じた。「袁氏のために泣いた人を斬れ」と。牽招が泣いたが、茂才に挙げられた。
曹操はこの北伐で、食糧に苦しんだ。曹操は凱旋してから、出発前に北伐を諌めた人をほめた。

207年冬、曹操が凱旋し、田疇を亭侯にする

冬,十月,辛卯,有星孛於鶉尾。 乙巳,黃巾殺濟南王贇。
十一月,曹操至易水,烏桓單于代郡普富盧、上郡那樓皆來賀。師還,論功行賞, 以五百戶封田疇為亭侯。疇曰:「吾始為劉公報仇,率眾遁逃,志義不立,反以為利, 非本志也。」固讓不受。操知其至心,許而不奪。 操之北伐也,劉備說劉表襲許,表不能用。及聞操還,表謂備曰:「不用君言,故 為失此大會。」備曰:「今天下分裂,日尋干戈,事會之來,豈有終極乎?若能應之於 後者,則此未足為恨也。」

207年10月辛卯、彗星がでた。10月乙巳、黃巾が、濟南王の劉贇を殺した。
207年11月、曹操は易水にきた。論功行賞して、田疇を亭侯にした。田疇は断った。「劉虞さまを救えなかった私に、侯になる資格はない」と。曹操は、田疇をみとめた。
曹操が北伐したとき、劉備は劉表に、許都を攻めようと言った。劉表はいれず。曹操がもどった。劉表はガッカリした。劉備は、あきらめない。「まだ天下は分裂している。後悔することはない」と。

207年、諸葛亮が、三顧の礼される

是歲,孫權西擊黃祖,虜其人民而還。
權母吳氏疾篤,引見張昭等,屬以後事而卒。

この207年、孫権は西に黄祖を撃った。人口を持ちかえった。
孫権の母・呉氏が危篤した。張昭らに、後事をたくして死んだ。

張昭は、孫策と呉氏から、孫権を託された。司馬懿が、曹丕と曹叡から、後事を託されたことに似ている。張昭の強さ=司馬懿の強さ、というのは、さすがに強引だが。


初,琅邪諸葛亮寓居襄陽隆中,每自比管仲、樂毅。時人莫之許也,惟穎川徐庶與 崔州平謂為信然。州平,烈之子也。
劉備在荊州,訪士於襄陽司馬徽。徽曰:「儒生俗士,豈識時務,識時務者在乎俊 傑。此間自有伏龍、鳳雛。」備問為誰,曰:「諸葛孔明、龐士元也。」徐庶見備於新 野,備器之。庶謂備曰:「諸葛孔明,臥龍也,將軍豈願見之乎?」備曰:「君與俱 來。」庶曰:「此人可就見,不可屈致也,將軍宜枉駕顧之。」

琅邪の諸葛亮は、襄陽の隆中にいる。潁川の徐庶と崔州平だけが、諸葛亮をみとめた。崔州平は、崔烈の子だ。 劉備は荊州にいて、襄陽の司馬徽を訪れた。司馬徽は「時務を知るのは、諸葛亮と龐統だけだ」と言った。
劉備は新野で、徐庶に会った。徐庶は劉備に言った。「諸葛亮に会いたければ、自分で行きなさい」と。

備由是詣亮,凡三往, 乃見。因屏人曰:「漢室傾頹,奸臣竊命,孤不度德量力,欲信大義於天下,而智術淺 短,遂用猖蹶,至於今日。然志猶未已,君謂計將安出?」亮曰:「今曹操已擁百萬之 眾,挾天子而令諸侯,此誠不可與爭鋒。孫權據有江東,已歷三世,國險而民附,賢能 為之用,此可與為援而不可圖也。荊州並據漢、沔,利盡南海,東連吳會,西通巴、蜀, 此用武之國,而其主不能守,此殆天所以資將軍也。益州險塞,沃野千里,天府之土; 劉璋闇弱,張魯在北,民殷國富而不知存恤,智能之士思得明君。將軍既帝室之冑,信 義著於四海,若跨有荊、益,保其巖阻,撫和戎、越,結好孫權,內修政治,外觀時變, 則霸業可成,漢室可興矣。」備曰:「善!」於是與亮情好日密。關羽、張飛不悅,備 解之曰:「孤之有孔明,猶魚之有水也。願諸君勿復言。」羽、飛乃止。

劉備は、諸葛亮に三顧した。諸葛亮は劉備に言った。「曹操に勝てない。荊州と益州をとり、孫権とむすび、曹操に対抗しなさい。漢室を復興できるでしょう」と。
劉備は、諸葛亮をつきあった。関羽と張飛には「水魚」と説明した。

司馬徽,清雅有知人之鑒。同縣龐德公素有重名,徽兄事之。諸葛亮每至德公家, 獨拜床下,德公初不令止。德公從子統,少時樸鈍,未有識者,惟德公與徽重之。德公 常謂孔明為臥龍,士元為鳳雛,德操為水鑒;故德操與劉備語而稱之。

司馬徽は、人物眼がある。司馬徽は、同県の龐徳公に弟のように仕えた。うつも諸葛亮が龐徳公の家に、出入りをゆるされた。龐徳公の従子は、龐統である。龐徳公は、臥龍、鳳雛、水鏡とニックネームをつけた。司馬徽が劉備に教えたのは、龐徳公のつけたニックネームである。

おわりに

10年11月19日の24時間のうちに、
ふつうに金曜日の会社づとめをしつつ、201年から207年まで、一気にやりました。それなりに、がんばりました。賈逵の河東郡のクダリが、悔いがのこるので、後日やります。賈逵、タイムトライアルの犠牲になりました。101119

河東郡に興味がある。『資治通鑑』205年は、杜畿が高幹と争い、河東郡を平定する話がメイン。河東郡の地理は、四方が重要です。南は、都の洛陽。北は、胡族の并州。西は、馬騰の関中。東は、袁紹の鄴城。そして関羽の故郷。