表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

206年、并州を平定し、梁習に任せる

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

206年春、并州から人材を集める

春,正月,有星孛於北斗。
曹操自將擊高幹,留其世子丕守鄴,使別駕從事崔琰傅之。操圍壺關,三月,壺關 降。高幹自入匈奴求救,單于不受。幹獨與數騎亡,欲南奔荊州,上洛都尉王琰捕斬之, 并州悉平。

206年春正月、彗星があった。
曹操は、みずから高幹を撃つ。鄴城に、世子の曹丕をおいた。別駕從事の崔琰に、曹丕を任せた。曹操は、壺関をかこむ。206年3月、壺関が陥ちた。高幹は匈奴に救いをもとめたが、匈奴が受けず。高幹は、荊州ににげた。上洛都尉の王琰が、高幹を斬った。并州が定まった。

冀州で袁尚を撃ち、并州で高幹を撃った。重点のかけ方が、似ている。曹操が苦戦のすえ、勝つ。勝ったあと、人材を集める。鄴城の戦いと、壺関の戦いを、対句に捉えて読んだら、何か言えないかなあ。
その点、袁譚の青州は、人材がごっそり袁譚に連れて行かれた。袁譚は、青州を捨てて、冀州でウロウロした。袁煕の幽州は、田疇をひろうくらい?


曹操使陳郡梁習以別部司馬領并州刺史。時荒亂之餘,胡、狄雄張,吏民亡 叛入其部落,兵家擁眾,各為寇害。習到官,誘喻招納,皆禮如其豪右,稍稍薦舉,使 詣幕府;豪右已盡,次發諸丁強以為義從;又因大軍出征,令諸將分清以為勇力。吏兵 已去之後,稍移其家,前後送鄴凡數萬口;其不從命者,興兵致討,斬首千數,降附者 萬計。單于恭順,名王稽顙,服事供職,同於偏戶。邊境肅清,百姓布野,勤勸農桑, 令行禁止。長老稱詠,以為自所聞識,刺史未有如習者。習乃貢達名士,避地州界者河 內常林、楊俊、王象、荀緯及太原王凌之徒,操悉以為縣長,後皆顯名於世。

曹操は、陳郡の梁習を、別部司馬、并州刺史とした。梁習は、異民族からのダメージを治す政治をした。
梁習が治めた并州に、人材が集まった。河 內の常林、楊俊、王象、荀緯と、太原の王凌らは、のちに出世した。

初,山陽 仲長統游學至并州,過高幹,幹善遇之,訪以世事。統謂幹曰:「君有雄志而無雄才, 好士而不能擇人,所以為君深戒也。」幹雅自多,不悅統言,統遂去之。幹死,荀彧舉 統為尚書郎。著論曰《昌言》,其言治亂,略曰:「豪傑之當天命者,未始有天下之分 者也,無天下之分,故戰爭者競起焉。(以下略)

はじめ山陽の仲長統は、并州に遊学した。高幹は仲長統に、政治を聞いた。仲長統の答えを、高幹は悦ばず。高幹が死ぬと、荀彧が仲長統をあげ、尚書郎とした。仲長統は《昌言》を書いた。

《昌言》の中身も、後日見ましょう。曹操がもつ政策の課題が、見えてくる。袁紹や胡族との戦いで、国土が荒れた。これを、いかに回復するか。言ってしまえば、五胡十六国の足音は、遠くなく、聞こえている。


206年秋冬、涼州と青州で叛乱し、蹋頓をねらう

秋,七月,武威太守張猛殺雍州刺史邯鄲商;州兵討誅之。猛,奐之子也。
八月,曹操東討海賊管承,至淳於,遣將樂進、李典擊破之,承走入海島。
昌豨復叛,操遣於禁討斬之。
是歲,立故琅邪王容子熙為琅邪王。齊、北海、阜陵、下邳、常山、甘陵、濟陰、 平原八國皆除。

206年秋7月、武威太守の張猛が、雍州刺史の邯鄲商を斬った。雍州兵は、張猛を殺した。張猛は、張奐の子である。
206年8月、曹操は東へ、海賊の管承を撃つ。淳於にきた。楽進と李典が、管承を破った。管承は、海へにげた。
昌豨が、また叛いた。曹操は于禁に、昌豨を斬らせた。
この206年、もと琅邪王である劉容の子・劉煕を、琅邪王にした。齊国、北海、阜陵、下邳、常山、甘陵、濟陰、 平原の8国は、すべて除かれた。

この国の整理は、なにを意味するんだろう。青州や徐州を、曹操がどれくらい直接支配したのか、気になるところ。遠いから、半分あきらめていたような、気がしている。笑


烏桓乘天下亂,略有漢民十餘萬戶,袁紹皆立其酋豪為單于,以家人子為己女,妻 焉。遼西烏桓蹋頓尤強,為紹所厚,故尚兄弟歸之,數入塞為寇,欲助尚復故地。曹操 將擊之,鑿平虜渠、泉州渠以通運。
孫權擊山賊麻、保二屯,平之。

烏桓が天下の乱れに乗じて、漢族10余万戸をうばった。袁紹は烏桓のトップらを、単于にした。袁紹は、臣下の娘を養子にとり、烏桓と婚姻させた。遼西の烏桓・蹋頓がいちばん強い。だから袁尚の兄弟は、蹋頓を頼った。曹操は、蹋頓を撃ちたい。
孫権は山賊を撃ち、麻屯と保屯を平定した。

207年につづく。曹操が、蹋頓を撃ちます。