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205年、高幹と杜畿が、河東郡で戦う

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

205年春、袁譚を斬り、袁煕と袁尚が北亡

春,正月,曹操攻南皮,袁譚出戰,士卒多死。操欲緩之,議郎曹純曰:「今縣師 深入,難以持久,若進不能克,退必喪威。」乃自執桴鼓以率攻者,遂克之。
譚出走, 追斬之。

205年春正月、曹操は南皮で、袁譚と戦った。袁譚軍が、おおく死んだ。曹操は、攻撃をゆるめたい。議郎の曹純が、曹操に言った。「いま手抜きすると、ぎゃくに曹操軍がヤバい」と。曹操は、袁譚を破りぬいた。袁譚を斬った。

李孚自稱冀州主簿,求見操曰:「今城中弱強相陵,人心擾亂,以為宜令新降 為內所識信者宣傳明教。」操即使孚往入城,告諭吏民,使各安故業,不得相侵,城中 乃安。
操於是斬郭圖等及其妻子。袁譚使王修運糧於樂安,聞譚急,將所領兵往赴之, 至高密,聞譚死,下馬號哭曰:「無君焉歸!」遂諧曹操,乞收葬譚屍,操許之,復使 修還樂安,督軍糧。譚所部諸城皆服,唯樂安太守管統不下。操命修取統首,修以統亡 國忠臣,解其縛,使詣操,操悅而赦之,辟修為司空掾。

李孚は、冀州主簿を自称した。李孚は、曹操に会って言った。「新たに袁氏から曹操に降った人は、不安だ。彼らを安心させよ」と。曹操は、李孚をいれた。
曹操は、郭図らと妻子を斬った。
袁譚は王修に命じ、楽安へ兵糧を運ばせていた。王修は、袁譚の死を聞き、泣いた。「主君がいなければ、帰する場所がない」と。袁譚が治めた諸城は、楽安太守の管統をのこして、曹操に降った。
曹操は王修に、袁譚のとむらいを許した。王修は捕えられたが、忠臣であるから、司空掾となった。

郭嘉說操多辟青、冀、幽、並名士以為掾屬,使人心歸附,操從之。官渡之戰,袁 紹使陳琳為檄書,數操罪惡,連及家世,極其醜詆。及袁氏敗,琳歸操,操曰:「卿昔 為本初移書,但可罪狀孤身,何乃上及父祖邪!」琳謝罪,操釋之,使與陳留阮瑀俱管 記室。先是漁陽王松據涿郡,郡人劉放說松以地歸操,操辟放參司空軍事。

郭嘉は、曹操が河北の人材を集めたから、悦んだ。陳琳の檄文を、曹操は詰った。「父祖のことまで、書くなよ」と。陳琳は、陳留の阮瑀とともに、曹操の朝廷で、記室を管 した。
これより先、漁陽の王松は、涿郡にいた。郡人の劉放は、王松に「漁陽郡は、曹操に味方しよう」と説得した。曹操は劉放を、司空軍事に参じさせた。

袁熙為其將焦觸、張南所攻,與尚俱奔遼西烏桓。觸自號幽州刺史,驅率諸郡太守 令長,背袁向曹,陳兵數萬,殺白馬而盟,令曰:「敢違者斬!」眾莫敢仰視,各以次 歃。別駕代郡韓珩曰:「吾受袁公父子厚恩,今其破亡,智不能救,勇不能死,於義闕 矣。若乃北面曹氏,所不能為也。」一坐為珩失色。觸曰:「夫舉大事,當立大義,事 之濟否,不待一人,可卒珩志,以厲事君。」乃捨之。觸等遂降曹操,皆封為列侯。

袁煕は、部将の焦觸と張南に攻められた。袁尚とともに、袁譚は烏丸に逃げた。焦觸は、幽州刺史を自称した。焦觸は袁氏に背き、曹操に味方した。
別駕をする代郡の韓珩は、焦觸に言った。「袁氏の恩を忘れたのか」と。焦觸は、曹操に降った。曹操は焦觸らを、列侯とした。

205年夏秋、幽州刺史と涿郡太守が殺さる

夏,四月,黑山賊帥張燕率其眾十餘萬降,封安國亭侯。
故安趙犢、霍奴等殺幽州刺史及涿郡太守,三郡烏桓攻鮮於輔於獷平。
秋,八月, 操討犢等,斬之;乃渡潞水救獷平,烏桓走出塞。

205年夏4月、黒山の張燕が10余万で、曹操に降った。曹操は張燕を、安國亭侯に封じた。
故安の趙犢や霍奴らは、幽州刺史と涿郡太守を殺した。三郡にいる烏桓は、鮮於輔を獷平で攻めた。
205年秋8月、曹操は趙犢らを斬った。曹操は潞水をわたり、獷平を救った。烏桓は、塞外に逃げた。

205年冬、杜畿が、高幹の河東郡を平定

冬,十月,高幹聞操討烏桓,復以并州叛,執上黨太守,舉兵守壺關口。操遣其將 樂進、李典擊之。河內張晟,眾萬餘人,寇崤、澠間,弘農張琰起兵以應之。

205年冬10月、高幹は曹操が烏桓を討ったと聞き、并州で叛いた。曹操の上党太守を、高幹は捕えた。壺関口で、高幹は兵をあげた。楽進と李典が、高幹を討った。河内や弘農の人が、高幹に応じた。

高幹は、烏桓の味方。袁紹の、一貫した方針ですね。


河東太守王邑被征,郡掾衛固及中郎將范先等詣司隸校尉鐘繇,請留之。繇不許。
固等外以請邑為名,而內實與高幹通牒。曹操謂荀彧曰:「關西諸將,外服內貳,張晟 寇亂殽、澠,南通劉表,固等因之,將為深害。當今河東,天下之要地也,君為我舉賢 才以鎮之。」彧曰:「西平太守京兆杜畿,勇足以當難,智足以應變。」操乃以畿為河 東太守。鐘繇促王邑交符,邑佩印綬,逕從河北詣許自歸。衛固等使兵數千人絕陝津, 杜畿至,數月不得渡。

河東太守の王邑は、高幹に攻められた。
郡掾の衛固と、中郎將の范先らは、司隷校尉の鍾繇に頼んだ。「鍾繇さんが、河東に留まってくれ」と。鍾繇はゆるさず。
河東の衛固らは、王邑の使者だと言いながら、じつは高幹に通じていた(鍾繇はそれを見ぬいた)。
曹操は荀彧に相談した。荀彧は言った。「西平太守をする京兆の杜畿なら、河東を治められます」と。曹操は杜畿を、河東太守にした。
鍾繇は、王邑を許都に呼びもどした。河東の衛固が、数千人で渡し場をふさいだ。杜畿は数ヶ月、河東郡に入れなかった。

河東における高幹派は、じつは衛固が、中心人物!


操遣夏侯惇討固等,未至,畿曰:「河東有三萬戶,非皆欲為亂 也。今兵迫之急,欲為善者無主,必懼而聽於固。固等勢專,必以死戰。討之不勝,為 難未已;討之而勝,是殘一郡之民也。且固等未顯絕王命,外以請故君為名,必不害新 君。吾單車直往,出其不意,固為人多計而無斷,必偽受吾。吾得居郡一月,以計縻之, 足矣。」遂詭道從郖津度。范先欲殺畿以威眾,且觀畿去就,於門下斬殺主簿已下三十 餘人,畿舉動自若。於是固曰:「殺之無損,徒有惡名;且制之在我。」遂奉之。
畿謂 固、先曰:「衛、范,河東之望也,吾仰成而已。然君固有定義,成敗同之,大事當共 平議。」以固為都督,行丞事,領功曹。將校吏兵三千餘人,皆范先督之。固等喜,雖 陽事畿,不以為意。固欲大發兵,畿患之,說固曰:「今大發兵,眾情必擾,不如徐以 貲募兵。」固以為然,從之,得兵甚少。畿又喻固等曰:「人情顧家,諸將掾史,可分 遣休息,急緩召之不難。」固等惡逆眾心,又從之。於是善人在外,陰為己援;惡人分 散,各還其家。

夏侯惇が、衛固を討つ。夏侯惇がつく前、杜畿が衛固を説得した。杜畿は、河東郡を得た。

杜畿伝、そのうちやります。杜畿と衛固の会話、興味ぶかい。


會白騎攻東垣,高幹入濩澤。畿知諸縣附己,乃出,單將數十騎,赴堅壁而守之, 吏民多舉城且畿者,比數十日,得四千餘人。固等與高幹、張晟共攻畿,不下,略諸縣, 無所得。曹操使議郎張既西征關中諸將馬騰等,皆引兵會擊晟等,破之,斬固、琰等著, 其餘黨與皆赦之。
於是杜畿治河東,務崇寬惠。民有辭訟,畿為陳義理,遣歸諦思之,父老皆自相責 怒,不敢訟。勸耕桑,課畜牧,百姓家家豐實。然後興學校,舉孝弟,修戎事,講武備, 河東遂安。畿在河東十六年,常為天下最。

たまたま白騎と高幹が、河東郡にきた。杜畿に、4千余人がついた。曹操は、議郎の張既に命じ、関中の馬騰らを呼んだ。馬騰のおかげで、高幹軍を破った。衛固を斬った。
ここにおいて杜畿は、河東を治めた。杜畿は16年間、河東を治めた。もっとも長期間の記録である。

秘書監、侍中荀悅作《申鑒》五篇,奏之。悅,爽之兄子也。時政在曹氏,天子恭 己,悅志在獻替,而謀無所用,故作是書。其大略曰:為政之術,先屏四患,乃崇五政。(以下略)

秘書監、侍中の荀悦は、《申鑒》を書いた。荀悦は、荀爽の兄の子である。荀悦が言うには、、

すみません。《申鑒》の大略は、後日やります。

206年に、つづきます。