表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

204年、曹操が鄴城を陥とす

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

204年春夏、曹操が鄴城を攻囲する

春,正月,曹操濟河,遏淇水入白溝以通糧道。
二月,袁尚復攻袁譚於平原,留其將審配、蘇由守鄴。曹操進軍至洹水,蘇由欲為 內應,謀洩,出奔操。操進至鄴,為土山、地道以攻之。尚武安長尹楷屯毛城,以通上 黨糧道。

204年正月、曹操は黄河を渡った。治水して、糧道をとおした。
204年2月、袁尚は袁譚を、平原に攻めた。袁尚は、審配と蘇由を、鄴城にのこした。蘇由は、曹操への内応がバレて、曹操に逃げた。曹操は鄴城にきて、土山や地道で攻めた。袁尚がおいた武安長の尹楷は、毛城に屯した。上党郡からの糧道をとおした。

夏,四月,操留曹洪攻鄴,自將擊楷,破之而還。又擊尚將沮鵠於邯鄲,拔之。 易陽令韓范、涉長梁岐皆舉縣降。徐晃言於操曰:「二袁未破,諸城未下者傾耳而聽, 宜旌賞二縣以示諸城。」操從之,范、岐皆賜爵關內侯。黑山賊帥張燕遣使求助,操拜 平北將軍。

204年夏4月、曹操は曹洪を鄴城におき、みずから尹楷を破った。

上党郡との連絡のほうが、曹操にはウザかった。

曹操は、袁尚の部将・沮鵠を、邯鄲でぬいた。易陽令の韓范と、涉長の梁岐が、県をあげて、曹操に降った。徐晃は、曹操に言った。「まだ袁氏がいるのに、2人の県長は降ってきた。厚くほめ、他に示しましょう」と。曹操は、韓范 と梁岐を関内侯とした。
黒山の張燕が、曹操に使者した。張燕を平北将軍とした。

五月,操毀土山、地道,鑿塹圍城,周回四十裡,初令淺,示若可越。配望見,笑 之,不出爭利。操一夜浚之,廣深二丈,引漳水以灌之;城中餓死者過半。

204年、曹操は、土山と知道を壊した。城の周りを掘った。はじめ浅く見せかけた。審配は、浅い堀を笑った。曹操は堀を、一夜で深くした。漳水を、鄴城に引きこんだ。鄴城では、過半が餓死した。

兵糧を水浸しにするというより。城や街そのものを、耕地そのものを、ダメにしてしまう作戦だろう。でないと、餓死者はでない。


204年秋、鄴城が陥ち、審配が斬られる

秋,七月,尚將兵萬餘人還救鄴;未到,欲令審配知外動止,先使主簿巨鹿李孚入 城。孚斫問事杖,系著馬邊,自著平上幘,將三騎,投暮詣鄴下;自稱都督,歷北圍, 循表而東,步步呵責守圍將士,隨輕重行其罰。
遂歷操營,前至南圍,當章門,復責怒 守圍者,收縛之。因開其圍,馳到城下,呼城上人,城上人以繩引,孚得入。配等見孚, 悲喜,鼓噪稱萬歲。守圍者以狀聞,操笑曰:「此非徒得入也,方且復出。」孚知外圍 益急,不可復冒,乃請配悉出城中老弱以省谷,夜,簡別數千人,皆使持白幡,從三門 並出降。孚復將三騎作降人服,隨輩夜出,突圍得去。

204年秋7月、袁尚は1万余人で、鄴城を救った。袁尚がつく前に、審配に情報を送ろうとした。袁紹は、主簿をする鉅鹿の李孚を、さきに鄴城へ行かせた。李孚は都督を自称して、鄴城の周りをまわった。
李孚は曹操の軍営にきた。李孚は、曹操軍にしばられた。李孚は逃げ出して、城壁を縄でのぼり、鄴城に入った。審配は李孚と会って、李孚をたたえた。
曹操は李孚の進入を聞き、予想した。「入るだけじゃない。李孚は出てくるぞ」と。曹操は、包囲を固くした。
審配は、城内の老若な人を、城門から出した。李孚はこの老若に紛れて、鄴城から出た。

尚兵既至,諸將皆以為:「此歸師,人自為戰,不如避之。」操曰:「尚從大道來, 當避之;若循西山來者,此成禽耳。」尚果循西山來,東至陽平亭,去鄴十七里,臨滏 水為營。
夜,舉火以示城中,城中亦舉火相應。配出兵城北,欲與尚對決圍。操逆擊之, 敗還,尚亦破走,依曲漳為營,操遂圍之。未合,尚懼,遣使求降;操不聽,圍之益急。 尚夜遁,保祁山,操復進圍之。
尚將馬延、張顗等臨陳降,眾大潰,尚奔中山。盡收其 輜重,得尚印綬、節鉞及衣物,以示城中,城中崩沮。審配令士卒曰:「堅守死戰!操 軍疲矣,幽州方至,何憂無主!」操出行圍,配伏弩射之,幾中。

袁尚が鄴城にきた。曹操の諸将は言った。「袁尚軍は、本拠に帰るための戦いとなる。士気が高いから、避けましょう」と。曹操は笑って、却下した。
曹操は、袁尚軍をかこんだ。
袁尚の部将・馬延、張顗らが曹操に降った。袁尚軍は、つぶれた。審配は士卒に言わせた。「堅守して死戦せよ。曹操軍は疲れている。幽州に行けば、何とかなる」と。審配に、いくつか弩が命中した。

配兄子榮為東門校尉, 八月,戊寅,榮夜開門內操兵。配拒戰城中,操兵生獲之。辛評家系鄴獄,辛毘馳往, 欲解之,已悉為配所殺。操兵縛配詣帳下,毘逆以馬鞭擊其頭,罵之曰:「奴,汝今日 真死矣!」配顧曰:「狗輩,正由汝曹破我冀州,恨不得殺汝也!且汝今日能殺生我 邪?」
有頃,操引見,謂配曰:「曩日孤之行圍,何弩之多也!」配曰:「猶恨其少!」 操曰:「卿忠於袁氏,亦自不得不爾。」意欲活之。配意氣壯烈,終於橈辭,而辛毘等 號哭不已,遂斬之。
冀州人張子謙先降,素與配不善,笑謂配曰:「正南,卿竟何如 我?」配厲聲曰:「汝為降虜,審配為忠臣。雖死,豈羨汝生邪!」臨行刑,叱持兵者 令北向,曰:「我君在北也。」操乃臨祀紹墓,哭之流涕;慰勞紹妻,還其家人寶物, 賜雜繒絮,稟食之。

審配の兄の子は、審栄である。審栄は、東門校尉だ。
204年8月戊寅、審栄は、鄴城の東門をひらいた。辛毗は、審栄の頭をむち打って、罵った。辛毗は振りかえり、審配を罵った。「お前のせいで、曹操が冀州を破った。お前を殺せないことを、恨む。お前に私が殺せるのか」と。
曹操は審配に会った。「審配は袁氏に、忠である。鄴城の守りぶりは、納得できる」と。曹操は、審配を生かしたい。審配は折れない。曹操は、審配を斬るしかない。
冀州の人・張子謙は、さきに曹操に降った。張子謙は、審配と仲が悪い。張子謙は、審配を笑った。曹操は言った。「張子謙は捕虜だが、審配は中心である。審配は死ぬが、ブザマに生き残った張子謙を羨ましがらない」と。審配は、北を向いて斬られた。「私の主君は、北にいる」と。

ただ、面白いだけのエピソードだ。こんなのも、よし。


初,袁紹與操共起兵,紹問操曰:「若事不輯,則方面何所可據?」操曰:「足下 意以為何如?」紹曰:「吾南據河,北阻燕、代,兼戎狄之眾,南向以爭天下,庶可以 濟乎!」操曰:「吾任天下之智力,以道御之,無所不可。」

はじめ袁紹と曹操が起兵したとき、袁紹は曹操に聞いた。「なにを足がかりにするのか」と。曹操は答えた。「袁紹はどうなんだ」と。袁紹は言った。「南は黄河、北は燕や代で区切る。異民族を抑えてから、南下して天下を争う」と。曹操は言った。「智力で、とにかくがんばる」と。

曹操のノープランぶりを、表す話。司馬光がこのタイミングで、これを言ったのは、なぜか。曹操が袁紹の戦略を、横取りしたからだ。


204年秋9月、曹操が冀州の人材をあつめる

九月,詔以操領冀州牧;操讓還兗州。
初,袁尚遣從事安平牽招至上黨督軍糧,未還,尚走中山,招說高幹以并州迎尚, 並力觀變,幹不從。招乃東詣曹操,操復以為冀州從事。

204年9月、曹操は冀州牧になった。兗州牧をやめた。

兗州牧をやめた!なんか興味ぶかい。次は、だれが兗州牧?

はじめ袁尚は、從事をする安平の牽招に、上党から兵糧を運ばせた。牽招が上党からもどる前に、袁尚は中山ににげた。牽招は高幹を説き、袁尚を并州に迎えたい。高幹は、袁尚とライバル関係になるのを避けて、袁尚を并州に招かなかった。牽招は曹操につき、冀州従事となった。

又辟崔琰為別駕,操謂琰曰: 「昨案戶籍,可得三十萬眾,故為大州也。」琰對曰:「今九州幅裂,二袁兄弟親尋干 戈,冀方蒸庶,暴骨原野,未聞王師存問風俗,救其塗炭,而校計甲兵,唯此為先,斯 豈鄙州士女所望於明公哉!」操改容謝之。許攸恃功驕嫚,嘗於眾坐呼操小字曰:「某 甲,卿非我,不得冀州也!」操笑曰:「汝言是也。」然內不樂,後竟殺之。

また曹操は、崔琰を別駕にした。曹操は、崔琰に言った。「冀州の人口30万から、税収をとりまくろう」と。崔琰は曹操を、しかった。曹操は謝った。
許攸は驕ったので、のちに曹操に殺された。

204年冬、高幹が降り、袁譚が逃げる

冬,十月,有星孛於東井。
高幹以并州降,操復以幹為并州刺史。
曹操之圍鄴也,袁譚復背之,略取甘陵、安平、勃海、河間。攻袁尚於中山,尚敗, 走故安,從袁熙;譚悉收其眾,還屯龍湊。操與譚書,責以負約,與之絕婚,女還,然 後進討。十二月,操軍其門,譚拔平原,走保南皮,臨清河而屯。操入平原,略定諸縣。

204年冬10月、彗星がでた。
高幹は、并州ごと、曹操に降った。曹操は高幹を、そのまま并州刺史にした。

高幹、留任したのか。知らなかった。曹操の、河東-并州-関中の方向の政策を、整理しておきたい。後日、やろう。

曹操が鄴をかこむと、袁譚はまた背いた。袁譚は曹操から、甘陵、安平、勃海、河間をとった。曹操と袁譚は、婚姻を解消し、絶交した。
204年12月、曹操は、平原で袁譚をぬいた。袁譚は南皮に逃げた。曹操は、平原の諸県を定めた。

204年、公孫康と曹操が、単于の任命権を争う

曹操表公孫度為武威將軍,封永寧鄉侯。度曰:「我王遼東,何永寧也!」藏印綬 於武庫。
是歲,度卒,子康嗣位,以永寧鄉侯封其弟恭。操以牽招嘗為袁氏領烏桓,遣 詣柳城,撫慰烏桓。

曹操は、公孫度を武威将軍、永寧鄉侯にした。公孫度は言った。「私は遼東の王である。なにが永寧鄉侯だ!」と。公孫度は、曹操にもらった印綬を、武器庫にしまった。
この204年、公孫度が死んだ。子の公孫康がついだ。永寧鄉侯は、弟の公孫恭がついだ。かつて牽招は、袁氏のもとで烏丸を治めた。曹操は牽招を柳城におくり、烏丸を治めた。

值峭王嚴五千騎欲助袁譚,又,公孫康遣使韓忠假峭王單于印綬。 峭王大會群長,忠亦在坐。峭王問招:「昔袁公言受天子之命,假我為單于;今曹公復 言當更白天子,假我真單于;遼東復持印綬來。如此,誰當為正?」招答曰:「昔袁公 承製,得有所拜假。中間違錯天子命,曹公代之,言當白天子,更假真單于,是也。遼 東下郡,何得擅稱拜假也!」忠曰:「我遼東在滄海之東,擁兵百餘萬,又有扶餘、濊 貊之用。當今之勢,強者為右,曹操何得獨為是也!」招呵忠曰:「曹公允恭明哲,翼 戴天子,伐叛柔服,寧靜四海。汝君臣頑囂,今恃險遠,背違天命,欲擅拜假,侮弄神 器;方當屠戮,何敢慢易咎毀大人!」

峭王嚴は、5千をひきいて、袁譚を助けたい。公孫康は、韓忠をおくり、峭王嚴に印綬を仮した。峭王嚴は、韓忠に質問した。「袁紹も曹操も、単于の印綬を持ってくる。どちらが、後漢の正式な使者か。と。牽招は言った。「袁紹から、曹操さまに代わりました」と。韓忠は言った。「公孫康さまも、強い。曹操だけが正しいのではない」と。牽招は、韓忠をしかった。

便捉忠頭頓築,拔刀欲斬之。峭王驚怖,徒跣抱 招,以救請忠,左右失色。招乃還坐,為峭王等說成敗之效,禍福所歸;皆下席跪伏, 敬受敕教,便辭遼東之使,罷所嚴騎。

牽招は剣をぬき、韓忠を斬ろうとした。峭王嚴は驚きおそれ、はだしで牽招を抱きとめた。牽招は座りなおし、曹操の正しさを説いた。公孫康の使者・韓忠は、あきらめた。

まったく知らなかった話。第一、峭王嚴って誰だろう。曹操の使者が「曹公代之」と言っている。曹操が袁紹に代わったというのは、公言可能な見解だったようです。


204年、孫翊と孫河が、曹操派に殺される

丹楊大都督媯覽、郡丞戴員殺太守孫翊。將軍孫河屯京城,馳赴宛陵,覽、員復殺 之;遣人迎揚州刺史劉馥,令往歷陽,以丹楊應之。

丹楊大都督の媯覧と、郡丞の戴員は、丹楊太守の孫翊を殺した。孫河は京城にいて、宛陵にかけつけた。媯覧と戴員は、孫河も殺した。媯覧と戴員は、揚州刺史の劉馥をむかえ、歴陽にこさせた。

媯覧と戴員は、孫権の親族を殺した。媯覧と戴員は、いま鄴城を締め上げている、曹操に呼応したのだ。袁氏を倒したら、曹操が最強。曹操が天下をまとめる。媯覧と戴員の認識は、これである。


覽入居軍府中,欲逼取翊妻徐氏。 徐氏紿之曰:「乞須晦日,設祭除服,然後聽命。」覽許之。徐氏潛使所親語翊親近舊 將孫高、傅嬰等與共圖覽,高、嬰涕泣許諾,密呼翊時侍養者二十餘人與盟誓合謀。到 晦日,設祭。徐氏哭泣盡哀,畢,乃除服,薰香沐浴,言笑歡悅。大小心妻愴,怪其如 此。覽密覘,無復疑意。徐氏呼高、嬰置戶內,使人召覽入。徐氏出戶拜覽,適得一拜, 徐大呼:「二君可起!」高、嬰俱出,共殺覽,餘人即就外殺員。徐氏乃還縗絲至,奉 覽、員首以祭翊墓,舉軍震駭。孫權聞亂,從椒丘還。至丹楊,悉族誅覽、員餘黨,擢 高、嬰為牙門,其餘賞賜有差。

媯覧は、孫翊の妻・徐氏にせまった。徐氏は、孫翊のカタキをとり、孫翊の墓前に、媯覧のクビをそなえた。

カタキをとる経緯を、ぼくは省いている。実生活の参考にならん。笑

孫権はこの乱れを聞き、椒丘からもどった。丹楊で、媯覧と戴員の、一族や余党を殺した。カタキ討ちに協力した人を、孫権はほめた。

河子韶,年十七,收河餘眾屯京城。權引軍發吳,夜至京城下營,試攻驚之;兵皆 乘城,傳檄備警,歡聲動地,頗射外人。權使曉諭,乃止。明日見韶,拜承列校尉,統 河部曲。

孫河の子は、孫韶である。17歳で、孫河がのこした軍を、京城でまとめた。孫権は呉をでて、夜に京城にきた。試しに京城を攻めた。

孫権、なにをやっているんだ。じつは孫河と対立関係?

孫韶は、万全に守城した。孫権は、事情を孫韶に説明し、戦いをやめた。翌日、孫韶は校尉をつぎ、孫河の部曲を統べた。