表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国志の前後関係を整理する

203年、袁譚が曹操とむすぶが

『資治通鑑』を訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

203年春夏、曹操が去り、袁氏が争う

春,二月,曹操攻黎陽,與袁譚、袁尚戰於城下,譚、尚敗走,還鄴。
夏,四月, 操追至鄴,收其麥。諸將欲乘勝遂攻之,郭嘉曰:「袁紹愛此二子,莫適立也。今權力 相侔,各有黨與,急之則相保,緩之則爭心生。不如南向荊州以待其變,變成而後擊之, 可一舉定也。」操曰:「善!」五月,操還許,留其將賈信屯黎陽。

203年春2月、曹操は黎陽を攻めた、袁譚と袁尚は、敗走して鄴城にかえった。
203年夏4月、曹操は鄴城に追った。ムギを刈った。諸将は、袁氏を攻めたい。郭嘉が止めた。「外圧が弱まれば、袁氏の兄弟は、また対立する。劉表を攻めるふりをしよう」と。曹操は郭嘉をいれた。
203年5月、曹操は許都にかえった。賈信を黎陽にのこした。

譚謂尚曰:「我鎧甲不精,故前為曹操所敗。今操軍退,人懷歸志,及其未濟,出 兵掩之,可令大潰,此策不可失也。」尚疑之,既不益兵,又不易甲。譚大怒,郭圖、 辛評因謂譚曰:「使先公出將軍為兄後者,皆審配之謀也。」譚遂引兵攻尚,戰於門外。 譚敗,引兵還南皮。

袁譚は袁尚に言った。「いま曹操の背後を叩けば、勝てる。私に兵を増やせ」と。袁尚は、袁譚の兵を増やさない。袁譚は怒った。
郭図と辛評は、袁譚に言った。「審配のせいで、袁尚が袁氏をついだのです」と。袁譚は袁尚と、鄴城の門外で戦った。袁譚は破れ、南皮にひいた。

別駕北海王修率吏民自青州往救譚。譚欲更還攻尚,修曰:「兄弟 者,左右手也。譬人將斗而斷其右手,曰『我必勝』,其可乎?夫棄兄弟而不親,天下 其誰親之!彼讒人離間骨肉以求一朝之利,願塞耳勿聽也。若斬佞臣數人,復相親睦, 以御四方,可橫行於天下。」譚不從。譚將劉詢起兵漯陰以叛譚,諸城皆應之。譚歎曰: 「今舉州皆叛,豈孤之不德邪?」王修曰:「東萊太守管統,雖在海表,此人不反,必 來。」後十餘日,統果棄其妻子來赴譚,妻子為賊所殺。譚更以統為樂安太守。

別駕をする北海の王修は、青州から吏民をひきいて、袁譚を救った。王修は、袁譚をとめた。「兄弟は、左右の手みたいなもの。兄弟で戦ってはいけない」と。袁譚は従わず。
袁譚の部将・劉詢は、袁譚に叛いた。袁譚は嘆いた。「私に徳がないのかな」と。王修はなぐさめた。「東萊太守の管統は、海沿いの遠方にいます。でも管統は、必ず袁譚さんのもとに来る」と。10余日後、管統がきた。管統の妻子は殺された。袁譚は管統を、楽安太守とした。

袁譚は、青州方面に、人気が高い。もとの任地だ。袁譚の治政は、青州の人から見たら、かなり満足だったらしい。


203年秋、袁譚が辛毗を送り、曹操とむすぶ

秋,八月,操擊劉表,軍於西平。 袁尚自將攻袁譚,大破之。譚奔平原,嬰城固守。尚圍之急,譚遣辛評弟毘詣曹操 請救。
劉表以書諫譚曰:「君子違難不適仇國,交絕不出惡聲,況忘先人之仇,棄親戚 之好,而為萬世之戒,遺同盟之恥哉!若冀州有不弟之傲,仁君當降志辱身,以濟事為 務,事定之後,使天下平其曲直,不亦為高義邪?」又與尚書曰:「金、木、水、火以 剛柔相濟,然後克得其和,能為民用。今青州天性峭急,迷於曲直。仁君度數弘廣,綽 然有餘,當以大包小,以優容劣,先除曹操以卒先公之恨,事定之後,乃議曲直之計, 不亦善乎!若迷而不反,則胡夷將有譏誚之言,況我同盟,復能戮力為君之役哉?此韓 盧、東郭自困於前面遺田父之獲者也。」譚、尚皆不從。

203年秋8月、曹操は劉表を撃ち、西平にいった。
みずから袁尚は、袁譚を大破した。袁譚は、平原でこもった。袁譚は、辛評の弟・辛毗 をおくり、曹操に救いをもとめた。
劉表は袁譚をいさめ、兄弟で争うなと手紙した。袁譚も袁尚も、従わず。

劉表が口を出すのは、なんか変ですが。劉表伝にあること。


辛毘至西平見曹操,致譚意,群下多以為劉表強,宜先平之,譚、尚不足憂也。荀 攸曰:「天下方有事,而劉表坐保江、漢之間,其無四方之志可知矣。袁氏據四州之地, 帶甲數十萬,紹以寬厚得眾心;使二子和睦以守其成業,則天下之難未息也。今兄弟遘 惡,其勢不兩全,若有所並則力專,力專則難圖也。及其亂而取之,天下定矣,此時不 可失也。」操從之。

辛毗は、西平で曹操に会った。袁譚の心を、曹操に伝えた。郡臣は言った。「劉表が強い。さきに劉表を平定すべき。よわい袁氏は、あとでいい」と。荀攸は言った。「劉表は、長江と漢水のあいだで、じっとしているだけ。袁氏を優先すべきだ」と。曹操は、荀攸に従った。

後數日,操更欲先平荊州,使譚、尚自相敝,辛毘望操色,知有變, 以語郭嘉。嘉曰操,操謂毘曰:「譚必可信,尚必可克不?」毘對曰:「明公無問信與 詐也,直當論其勢耳。袁氏本兄弟相伐,非謂他人能間其間,乃謂天下可定於己也。今 一旦求救於明公,此可知也。顯甫見顯思困而不能取,此力竭也。兵革敗於外,謀臣誅 於內,兄弟讒鬩,國分為二,連年戰伐,介冑生蟣虱,加以旱蝗,饑饉並臻;天災應於 上,人事困於下,民無愚智,皆知土崩瓦解,此乃天亡尚之時也。今往攻鄴,尚不還救, 即不能自守;還救,即譚踵其後。以明公之威,應困窮之敵,擊疲敝之寇,無異迅風之 振秋葉矣。天以尚與明公,明公不取而伐荊州,荊州豐樂,國未有釁。仲虺有言,『取 亂侮亡』。方今二袁不務遠略而內相圖,可謂亂矣;居者無食,行者無糧,可謂亡矣。 朝不謀夕,民命靡繼,而不綏之,欲待他年;他年或登,又自知亡而改修厥德,失所以 用兵之要矣。今因其請救而撫之,利莫大焉。且四方之寇,莫大於河北,河北平,則六 軍盛而天下震矣。」操曰:「善!」乃許譚平。

数日して。また曹操は、さきに荊州を平定したくなった。袁譚と袁尚は、争わせておけばよい。辛毗は、曹操の心変わりを知った。辛毗は、郭嘉を説得した。「曹操さまの意識を、河北に向けてください」と。郭嘉は曹操を説得した。曹操は辛毗に聞いた。「袁譚は信頼できる人だが、勝てるだろうか」と。
辛毗は曹操を説得した。曹操は、袁譚に協力すると言った。

辛毗の説得の言葉と、状況の分析は、またやりたい。


203年冬、袁譚が曹操の部将をくどく

冬,十月,操至黎陽。尚聞操渡河,乃 釋平原還鄴。尚將呂曠、高翔畔歸曹操,譚復陰刻將軍印以假曠、翔。操知譚詐,乃為 子整娉譚女以安之,而引軍還。

203年冬10月、曹操は黎陽にきた。袁尚は、曹操が黄河を渡ったと聞いた。袁尚は、平原から鄴城にもどった。袁尚の部将・呂曠と高翔は、曹操に帰した。
また袁譚は、将軍の印を刻み、呂曠と高翔に与えた。曹操は、袁譚の二心を知った。曹操は、子の曹整に、袁譚の娘をめあわせた。袁譚との関係を安定させ、曹操は軍をもどした。

袁尚から曹操についた将軍に、袁譚が印をおくる。これが二心です。サギです。


203年、孫権が山越を平定する

孫權西伐黃祖,破其舟軍,惟城未克,而山寇復動。權還,過豫章,使征虜中郎將 呂范平鄱陽、會稽,蕩寇中郎將程普討樂安,建昌都尉太史慈領海昏,以別部司馬黃蓋、 韓當、周泰、呂蒙等守劇縣令長,討山越,悉平之。
建安、漢興、南平民作亂,聚眾各 萬餘人,權使南部都尉會稽賀齊進討,皆平之,復立縣邑,料出兵萬人;拜齊平東校尉。

孫権は黄祖を攻めた。黄祖の城をおとす前に、山民がそむいた。孫権はもどる。呂範、程普、太史慈、黄蓋らに、山越を平定させた。

固有名詞、はぶきまくった。原文を見れば、分かります。

建安郡や漢興郡で、南方の住民は、1万余人の集団をつくった。孫権は、南部都尉をする會稽の賀齊に平定させた。県を置きなおした。賀斉は、平東校尉になった。

袁氏の兄弟のために『資治通鑑』をしてる。204年につづく。