01) 問題設定と辺境軍鎮
石井仁「漢末州牧考」を、「写経」します。
はじめに
後漢末、霊帝の中平五年(188)、「牧伯制」が施行された。各州に「州牧」が派遣された。経緯は、劉焉伝にある。
太常の劉焉はいう。地方が混乱する原因は、刺史・太守の搾取にある。廉潔な人物を、州の牧伯に任じて、地方を安撫せよと。
ぼくが疑問なのは、どうして、「刺史や太守の人物を変えよ」に、建議が留まらなかったかだ。原因に対する「穏健」な対策は、まず人選だけを言うことだ。そのほうが、認められやすい。っていうか「人物を変えよ」だって、充分に「過激」だ。漢家の名臣たちは、この建言により、王朝を清め、政敵を作ってきたんじゃないか。笑
人選(ダメなヤツの交替)だけじゃ、ラチが明かないなら、人選方法を変えろとだけ言えばよい。
制度まで変えるとなると、抵抗がおおきい。「長年、これでうまく回ってきたのに」と。制度の変更による影響(おもに悪いほう=リスク)をカウントする作業が、膨大になる。いくらでも反論を許す。みんなの合意を得にくい。
(これは石井先生でなく、霊帝と劉焉への疑問だけど。思考のキッカケにしたい)
地方(内地)が混乱しているから、対策をとる必要があったのは、事実かも知れない。史料にあり、石井先生も書いている。
しかし、
もしぼくが霊帝なら、絶対に劉焉を認めないね。だって、いまの刺史や太守が、地方を混乱させたなら(本当に混乱していると、事実を確認した上で)現行の制度のなかで、改善を精一杯にやるよ。もっと、ねばっこく。
例えると分かりやすい。
ある会社で、「製造課長がバカで、製造ラインが混乱してます」という苦言が出たとする。これを見た人が、社長にいう。「製造ラインを直すため、制度を変えましょう。製造課長という権限と、品質課長の権限をあわせて、製造・品質課長を設置すべきです」と。
社長がすべきなのは、組織図をいじることか?ちがうだろ。
製造ラインがヤバければ、ヤバいほど、まず現任の製造課長を導き、ダメなら次に、製造課長の後任を、慎重に選ぶべきだ。もし、後任に適任者がいなければ(すべての会社は人材不足だ)、組織図をいじらずに、上位である製造部長が、製造課長の権限をひきとる。これで良い。へんに組織をいじるなよ。
石井先生がいうが、劉焉ははじめは「益州刺史」となる。はじめから、制度の変更が認められたわけじゃ、なさそう。つまり、劉焉は制度を変えろ(牧伯制をおけ)と言ったが、霊帝は保留したのか。
(前任者の益州刺史は、死んじゃった)
以下、比喩にひきつけて理解する。
劉焉は、現行の制度のなかで「製造課長」になった。「製造課長」に着任する前に、バカな前任者が、突然に退職した。劉焉が改善に取り組んでいるうちに、自然と「品質課長」の仕事もした。
さかのぼって、はじめ劉焉が「製造課長と品質課長をあわせよ」と言っていたことが思い出された。劉焉に「品質課長」の権限を追加した。たまたま結果的に、劉焉は「製造・品質課長」となった。
以上の出来事を、あとから総括的に記録すると、どうなるか。「劉焉は新しい制度を提案した。みずからその制度を活用した。ちゃっかりしてるなあ」と。牧伯が設置された「瞬間」は、こんな感じかなあ?
要するに牧伯制とは、
州刺史の人選を厳格する。「鎮安」=統治と正統という、2つの権限を委任する。「州牧」と改める。弛緩した、後漢王朝の地方支配を再建する。
「州」は、郡県の地方官を監察する機関。皇帝の耳目たる御史が、臨時の使者として派遣された。監御史である。武帝のとき、専任の監察区(13州部)をもち、官職「刺史」となった。
【監】みる、上から下のものを、しげしげ見下ろす。見張り。
【察】曇りなく目を光らせる。細かく見わける。調べ考える。
つまり「監察」は、同義の文字を重ねたもの。見ること!
【監察】よく見きわめる。取り締まって調べる。なお【監査】は、監督して検査する。つまり、監察と監査のちがいは、前者が、取り締まりまでやること。
「見る」ことは、権力である。フーコーのいう「監獄」である。また、GODに対して権力を振るうことは許さないので、GODを偶像化することは禁じられている。プライバシーとは、「見る」権力への抵抗なのだな。
さて、ぼくは気にしたい。
「州」というのは「見る」ための範囲である。「見る」と「やる」は同じでない。当初の州は、「やる」ための範囲でない。この違いに留意したい。
何を言っているか。
刺史は、太守を「見る」ことが期待され、「見る」のに適切な範囲として、「州」が設定された。州はけっこう広いけれど、「見る」だけなら出来るでしょ、という便宜的&人為的な区分である。この意味で、「州」と対置すべき語は、「郡」である。
春秋戦国からの歴史的な経緯として、支配を「やる」のに適正な範囲は、郡である。進化論的?に、けっきょく郡に落ち着いた。郡の境界線(というか分布、隣郡との距離)は、当時の交通事情とか、組織の強さ(情報が淀まずに流れ、求心力を維持する能力)に規定される。支配の実態に即した、自然な単位である。
そもそも「州」を単位に、支配を「やる」なんて、できるのか???
という問いを立てたい。
少なくとも、武帝の段階では、想定されていなかった。
「見る」と「やる」の差異を、例えておく。
プロスポーツを「見る」のは簡単だが、「やる」ことはできない。この例は飛躍があるかな。じゃあ、会社の内部監査部署で考えよう。
監査部署は経営者に直轄で(御史と同じだ)、他部署の業務を「見る」部署である。比較的に少人数で、おおくの部署を「見る」ものだ。じゃあ、ほかの30部署を見たからと言って、30部署の仕事を「やる」ことができるか。ムリだ。それは経営者の仕事だ。監査部署は、経営者の「耳目」であって、経営者自身ではない。経営者に対する監査報告には、責任をおう。しかし、30部署の仕事の結果に対して、責任をおわない。くり返すと、結果の責任を負うのは、経営者自身である。
刺史(監査部署)であるだけでは、皇帝権力(経営者)の代行者や後継者になれない。ぼく自身の仕事に引きつけて、マジにそう思う。血肉化している感覚。
刺史に、新たな権限がプラスされた州牧が、皇帝権力の代行者や後継者になる。これが、石井論文の話。順番に読む。
後漢には、刺史が地方に常駐して、治所を持つに到った。
2つの「引力」が働いている。どっちの引力に、より強く引っぱられるかで、態度が分かれる。実体験に基づき、想定する。
1つ。経営者にひもづきなので、部署内で威張り散らす。座席のある部署では、お客様扱いである。仕事を頼まれても、突っぱねる。これが正解なのだ。なぜか。ラインに組み込まれたら、監査を出来なくなる。自分でやった仕事を、自分で監査することになる。独立性が損なわれる。それって、監査部署から、派遣されている意味がない。自分の立場をよく理解している(空気を読まない)人は、威張ることになる。
この場合の「座席」は、作業台でしかない。引き出しとか、付いてないよ、きっと。空いた会議室で、ノートパソコンを叩いている。常駐でも、「座席」に根が張らない。
もしくは、
2つ、座席のある部署に同化してしまう。座席のある部署と、人脈が形成され、仕事を手伝うようになる。「仕事を理解したほうが、監査(というかチェックとか言い換える)が、うまくいく」と考える。実務にとけこみ、監査という肩書が取れるだろう。部内総務みたいな、何でも屋的な扱いになるのかも。
何でも屋は、もともと外からきた人で、専門性が劣る。だから、最終決定権は、もとからいる人だ。太守の判決を、刺史が覆さないように。多くの場合、監査部署には、若者や一般職(権限の軽い者)が置かれることがある。彼らが各部署に散って、溶けこんだら、権限を発揮しないよなあ。官秩のひくい刺史と同じだ。
さて、
前漢の刺史は1つめ、後漢の刺史は2つめの引力が強い。
後漢の刺史は、皇帝(経営者)への報告を、代理ですます。派遣先の部署の人(太守や令長)と同じように、仕事(統治)をやる。トラブル(叛乱)が起きたら、一緒に対処(出兵)する。誤解される前提で単純化すれば、まるで天下に、13郡(もしくは13県)が増えたみたいなものだ。監査部署を解散して、各部に散らせた感じ。
こんな感じで、後漢の中期には、刺史の独立性が失われたから、順帝はべつの御史を、各地に派遣したわけで。
各部に埋もれた刺史は、ただの若者や一般職となってしまうのか。ちがう。もし税務調査で、経理処理の不適切さが指摘されたら、どうなるか。途端に「元監査部署」の人たちは、役割が大きくなる。たしかに権限は軽いが、経理のノウハウ(どうすれば税務の御心に適うか)について、各部署のおじさんたちより知っている。業務の変更を命じる権限を、経営者の名のもとに取得する。内輪の事情がどうこうでなく、外部の圧力なんだから、仕方ないでしょーと。
税務調査というのが、黄巾の乱か? 午前年休をとって、これを書いているので、いまいち頭の切換が、うまくいっていない。笑
後漢の中期、安帝以降、刺史が地方の動乱を鎮圧した実績がある。
109年、青州刺史する扶風の法雄は、督軍・御史中丞の王宗とともに、海賊を討った(法雄伝)。184年、交趾の屯兵がそむき、交趾刺史する東郡の賈琮が鎮めた。牧伯制が施行されると、冀州刺史となった(賈琮伝)。
劉焉による牧伯制の創設は、既成事実を、追認・強化するものだ。
牧伯制の導入により、豪族勢力による地方支配と、豪族の自律が既成事実と化した。後漢の朝廷がもつ権威は、後退が決定的となった。軍閥が割拠する情勢に、拍車がかかった。
狩野直禎『中国中世史研究』。軍閥については、宮川尚志『六朝史研究-政治・経済編-』より。
矢野主税氏の本、複写ずみなので、早く読みたいなあ!
しかし、牧伯の実態は不明な点がおおい。
機構、地方支配の根源となる権力、支配の正当性のありか。
秦代や前漢は、関中にある中央と、その他の地方は、別個だった。州制度は、中央と地方の差異、関係性において、変遷してきたから。
統一王朝としての漢家の定義を、中央官と地方官の往復を担保する体制と定義したらどうなるか。つまり、中央から地方官を送り込めて、また地方官を中央の命令にて、呼び戻せる状態。董卓のとき、この往復が分断された。つまり董卓のとき、後漢は滅びた。董卓が過剰に送り込んだのになー。
ただし、歴史的な過程を忘れたくない。前漢初、この往復運動は担保されてなかった。だから董卓のとき、統一王朝としての体制は壊れたが、前漢初に戻っただけとも考えられる。「変身は解けたけど、負けちゃいないぜ」的な状況。
戦国六国は、故郷に依って、戦国秦に対抗した。だが前漢の諸王は、故郷でなく封地に依って、前漢と対立した。そういう意味で董卓や袁紹の時代は、戦国時代みたいに、豪族(故郷の強い人たち)が自律したと考えるより、前漢初に近いかも知れない。
献帝が関中を出て、洛陽に出てきたのは、統一王朝としての後漢の中央官を再建するため。でも、そんなこと、できるはずなく。食べ物もないし。曹操(曹操でなくても群雄の誰かでも同じことだ)に持って行かれましたと。このとき、中央官の再建への道が、名実ともに絶たれるなあ。
問題設定、都督との関係
六朝時代の地方統治は、「都督」制度に特徴がある。直接的には三国魏の制度に起源する。原義は、軍団長職を指す。都督は、将軍などの軍号を帯官して、軍府(=幕府)-「都督府」を開設する権限をそなえた。
都督といえば、軍団が駐屯する軍鎮と、その機構をさす用語。都督の設置される範囲は、中央から地方、その権限は全国的なもの(=都督中外諸軍事)から、局地的なもの(=都督○州郡諸軍事)まで内外にわたる。とりわけ地方は、州の長官「刺史」を兼任して「方鎮(州鎮)」とよばれる機構を形成した。一地方の軍民両権をにぎり、政局を左右した。軍閥を生み出した。
存在形態を比較すると、後漢末の州牧と、六朝の都督・刺史は、非常に酷似する。では、牧伯制が施行されたのち、20余年をへた曹魏によって創設された都督制は、牧伯といかなる関係か。
漢代の刺史が、決して地方独立政権を樹立し得なかったが、州牧が群雄の分裂割拠を推進し得たのはなぜか。政治社会の情勢が相違して、性格を規定したのであるが、それだけでなく、必ず制度上・構造上の差異が存在したはずである。
六朝時代の地方統治のありかた、都督制の起源と本質を考える上で、避けられないのが、州牧の問題である。
1 漢代の辺境軍鎮
六朝の「州郡都督」は「使持節・都督州郡諸軍事」と「将軍」を兼務した。一定地域の軍事権を完全に掌握した。地域に対する軍政支配を企図した組織・機構である。
淵源を、安定した国内でなく、異民族と接触する国境地帯にもとめる。前漢の武帝ののち、国境ならびに征服地におおくの軍鎮が形成された。異民族を統御する官である「持節領護官」がおかれた。
「持節領護官」は、安作璋・熊能基『秦漢官制史稿』下冊より。
漢代、もっとも初期におく持節領護官は「西域都護」である。『漢書』鄭吉伝、西域伝上にある。宣帝の前060年、匈奴の日逐王の投降のとき、鄭吉が初めて任じられた。元帝の前048年におかれた、「戊己校尉」とともに西域を経営した。官名は、魏晋南北朝に継承される。
伊瀬仙太郎『西域経営史の研究』を見よ。
本来の目的は、西域諸国の動静を監視すること。対策としての軍事行動は副次的。石井「曹魏の護軍について」を見よ。
前漢から後漢にかけ、「護羌校尉」「護烏桓校尉」「使匈奴中郎将」がおかれた。
護羌校尉は、『後漢書』西羌伝にある。隴西郡の令居県で、羌族を監視した。護烏桓校尉は、『後漢書』烏桓鮮卑伝にある。上谷郡の寧県に「営府」をひらき、烏桓・鮮卑を監視した。使匈奴中郎将は、『後漢書』光武紀の建武二十六年。西河郡の美ショク県に駐屯し、南匈奴を監視した。『後漢書』南匈奴伝、『続漢書』百官志にもある。孤立した北匈奴を防衛し、南北の匈奴の交通を遮断するため、北方軍の総司令官もいうべき「度遼将軍」がおかれた。
使匈奴中郎将、護烏桓校尉、護羌校尉、度遼将軍は、後漢をつうじて常置。方面軍の司令官として、機能した。軍事行動には、かならず官職の就任者が関わる。
持節領護官の機構
第一に注目すべきは、持節領護官の機構。
西域都護は、『漢書』百官公卿表にある。「副校尉」のほか、「丞」などの文官、「司馬」「候」「千人」などの武官がいる。度遼将軍は、『続漢書』にひく『漢官儀』にある。「長史」「司馬」がおかれた。南匈奴伝より、度遼将軍には、「副校尉」「左右校尉」もいたとわかる。
使匈奴中郎将には、随時増員できる「従事」「掾」があり、ほかに「副校尉」「司馬」もいたらしい。『後漢書』南匈奴伝に、副校尉の王郁がいる。張奐伝で、護匈奴中郎将の張奐は、「司馬」尹端と董卓をつかった。
護烏桓校尉、護羌校尉にも、それぞれ「長史」1名6百石、「司馬」2名6百石がいた。
以上より、持節領護官には、副官として「副校尉」がいた(西域都護、度遼将軍)。幕僚長として、「長史」「司馬」がある(護羌校尉、護烏桓校尉、度遼将軍)。部隊を統率する将校として「司馬」がある(西域都護、使匈奴中郎将)。
同じく将校として「候」千人」がある(西域都護)。あるいは、「従事」などの属官がある(使匈奴中郎将)。
漢代に「不常置」である将軍の組織はいかに。
大庭脩『秦漢法制史の研究』を見よ。
『続漢書』百官志にある。文武の幕僚長たる「長史」「司馬」、参謀の「従事中郎」、諸曹をつかさどる幕僚「掾属」など。直属軍の組織「営」に設置された将校「校尉」「軍司馬」「軍候」「屯長」など。
つまり、
持節領護官の組織は、将軍の出征時に同じ、もしくは準じる。将軍がもつべき幕僚と将校を、持節領護官をもつ。持節領護官は、実質は将軍と同格の官職・機構と認識されたことを意味する。
持節領護官は、辺境に常設された「幕府」である。
護匈奴中郎将が、3州を監察する
持節領護官の長官には、名どおり「節」が仮せられた。天子から委譲された、刑殺権のシンボル。
麾下の将兵ならびに、管轄する異民族にむけて、刑殺権を振るいえた。
度遼将軍の「持節」を確認できない。だが『後漢書』橋玄伝で、度遼将軍の橋玄は、桓帝の末年に「黄鉞」を仮せられた。黄鉞は、説よりも権限がつよい。度遼将軍も、持節の待遇だとうかがえる。
『後漢書』張奐伝で、延熹九年、鮮卑の檀石槐が、鮮卑、烏桓、南匈奴、羌族を連合した。護匈奴中郎将の張奐が「幽州、并州、涼州および、度遼将軍営、烏桓校尉営を督」し、「兼ねて(当該地域の)刺史、太守の能否を察」する権限を与えられた。
異民族を監察した、外鎮「使匈奴中郎将」が、一般行政区画である、州郡をも監察した。画期である。戒厳令においた地域の地方官に対し、本来の監察機関である「州」の上にたち、これを監督した。都督につうじる。
後漢王朝の支配力が後退し、軍鎮による州郡統治が容認されつつあった。
次回、論文の第2節へ。つづきます。