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04) 州牧から都督へ

石井仁「漢末州牧考」を、「写経」します。

おわりにー州牧から都督へー

『続漢書』百官志5で、司馬炎は天下統一すると、州牧を撤廃した。なぜか。『後漢書』劉虞伝より分かる。
幽州牧の劉虞は、烏桓とむすび、張挙・張純を平定した。在外太尉となる。産業の振興と交易で、財政を建て直した。州牧が財政権を持ったことそ示唆する。徴税、徴兵権をテコに、独立政府を構築した所以である。
『三国志』崔琰伝で、曹操が冀州牧となり、戸籍を再編した。別駕従事に辟された崔琰が手伝った。
財政権があるので、「牧伯」の権限が高まった。州牧=天子の候補者という認識が醸成された。

因果って、むずかしい。これは結果には違いない。だが、州牧の「制度」ないし財政権が、それの原因であるか。判定できないのかな。疫学的な検証をしないと。
州牧で天子の候補者となった人がいる(袁術、袁紹、曹操、劉備、孫権)のを言うだけでは足りない州牧になっても天子の候補者とならなかかった事例、州牧でないが天子の候補者となった事例、の2つをいずれも吟味して、2つとも少ないことを言わないと。


219年、劉備は、大司馬・漢中王を名のった。官位は、
左将軍・領司隷校尉・豫荊益三州牧・宜城亭侯
である。豫州牧は196年に、曹操からもらった。劉備は、実質的な権益を喪失したが、豫州牧に固執した。
孫権は、221年、曹丕の藩を称した。官位は、
使持節・大将軍・督交州・領荊州牧・呉王
である。孫権に「上将軍・九州伯」を奉ろうとした。
上将軍は、戦国燕の楽毅、前漢初の呂禄がついた。九州伯は、前例がない。『通典』32はいう。舜は12州をおき、牧あり。夏は9州牧となす。殷周の8命を牧というと。「牧」は伝説上の地方官だった。

そこまで遡らなくても、前漢にあった牧を、意識したんじゃないだろうか。 劉焉が「牧伯をおけ」と言ったとき、刺史の査察権を強化したバージョンとして、「牧」という官名になった。これは、前漢に「牧」があったからだろう。もちろん、古代の地方官でもあるが。

「伯」は、『史記』殷本紀の、周文王をさす「西伯」である。弓矢・斧鉞を与えられ、征伐を任された。神話のオブラートにくるまれた権威が、「牧」「伯」にある。行政上の官位というよりは、地方主権の長としての性格が、内包されていた。

「内包」とか「因子」とか、そういう発生論的?な表現が、よく出てくる。


劉備は孫権にとどまらず、後漢末の州牧は、独立政権の行動をした。『後漢書』袁術伝。袁術は、揚州刺史の陳温を殺して、「揚州牧」を領しただけでなく、「徐州伯」と称した。

『三国志研究』に投稿したものに書きましたが、袁術が領したと読みとれるのは、揚州刺史だけだ。どう考えるべきか。袁術が州牧であることは、史料から確認できない。袁術の揚州での動きは、刺史の権限に依るものでは?つまり、刺史と州牧は別物だが、期待される査察権の強さが違うだけで、「督○州軍事」の有無ほどの、決定的な差異はない。まして、帝位につく前に、揚州刺史に恵衢を置いてしまった。袁術が天子の候補者となったのは、州牧どころか、刺史の権限ですらない。ぶち壊しだなあ。

益州牧の劉焉は、『華陽国志』で、前後左右の部司馬を4軍に擬した。王者を僭称する行為だ。
荊州牧の劉表は、『後漢書』孔融伝にて、天子を僭擬した儀礼をした。
袁術、劉焉、劉表などの有力な州牧らは、皇帝権力のシンボルたる郊祭をした。「承制」して官吏の任免権を行使した。失敗したが、袁術は新王朝を樹立した。州牧が、単なる臣下でないことをの証明でもあった。

州牧への殊礼の授与からも窺える。『後漢書』袁紹伝はいう。197年、袁紹は大将軍に任じられ、王莽の「九錫」の一部を構成する、「虎賁」「斧鉞」「弓矢」の3つの殊礼を受けた。
劉表も『劉鎮南碑』によれば、「大車」を賜った。これも九錫の1つ「車馬」である。213年、魏公、九錫を賜った曹操は、
使持節・丞相・領冀州牧・魏王
である。曹丕に九錫をもらった孫権は、荊州牧だ。孫権から燕王と九錫をもらった公孫淵は、青州牧をもらった。
殊礼の授与は、州牧に対して、皇帝の主権の一部、あるいはほとんどを、当該地域に限って委譲したことを意味するのであろう。

地方主権の長としての州牧は、王莽末にある。
『後漢書』公孫述伝にある。025年、成都で自立した公孫述は、輔漢将軍・蜀郡太守・益州牧を詐称した。

「詐称」なのね。まあ、『後漢書』にそう書いてあるからね。笑

『後漢書』朱浮伝で、025年に、大将軍・幽州牧に任じられた朱浮は、人事・軍事・財政にわたる権限を保有した。 後漢初の州牧は、牧伯制のもとの州牧を「先取り」していた形跡がある。

順序が逆だよなあ。後漢初の州牧があるから、劉焉が牧伯制を言い出し、それに付随して、後漢末の州牧も力を持った。後漢初に、州牧が強かったから、光武は刺史にもどしたわけで。やっぱり、後漢初と後漢末の比較は、有効だなあ!やる。
あくまで六朝の都督制に軸足があって、そこから光を当ててるから、こういう書き方になるのか。問題の立て方のちがい。


都督制へ

州牧は、地方主権の長、皇帝権へのステップたり得る称号として、その性格が生まれつつあった。
この認識にもとづく州牧の就任は、五胡十六国の各政権の首班、南朝の揚州牧の事例からあきらか。前涼は、涼州牧を世襲した。南朝を簒奪したい、王敦は江州牧、揚州牧。桓温は揚州牧、桓玄も揚州牧。南朝宋の劉裕は、揚州牧。以下も、南朝の始祖は、揚州牧となる。

三国以後の王朝権力は、課題がある。放任すれば独立政権に直結する、統治と征討を委任された地方軍鎮=牧伯を、いかに巧妙に無力化させ、中央に取りこんでゆくか。
類似の設置形態と権限をもちつつ、六朝に開花する「都督」に取って代わられた理由が、ここにある。親子のように見える、州牧と都督・刺史は、正反対の理念によって支えられる、双子のような関係である。

ああ!「家族的類似」ってやつだ。笑
このあたりの詳細は、つぎの「都督考」を読みながら、思うところを書く。

魏呉蜀が鼎立すると、1州だけでなく、数州にまたがり、勢力圏を維持しなければならない。呉蜀に両面作成を強いられた曹魏は、中央軍を分割して、各方面に派遣した。臨戦体制のもと、派遣軍は自動的に駐屯軍と変わった。駐屯軍にもっとも適合する形態が、州牧である。
しかし、安易に州牧を任命すると、後漢末の群雄とおなじく、軍事権の完全掌握をテコとした自立につながる。可能なかぎり、州牧を設置させてはならない。州牧に代わるものが「都督」でなければならなかった。都督の成立をめぐる、カギが隠される。

「都督考」につづきます。120224