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03) 監軍使者と州牧

石井仁「漢末州牧考」を、「写経」します。

3 監軍使者と州牧

漢安都護がもつ、軍政支配の原理を全中国に展開したのが「牧伯制」である。

どういう「原理」なのか、注意ぶかく見よう!


劉焉が建議し、益州牧の任用を請願した。任命された。
注目すべきは、益州に出鎮するにあたり、劉焉が授けられた官職「監軍使者」。劉璋も、益州牧・監軍使者となる。州牧だけでなく、監軍使者も世襲した
もし州牧が、つねに監軍使者と複合的に任命されていれば、監軍使者のなかに、州牧を機能させる因子が内包されていた、と仮説できる。監軍使者は、州牧を補完する官職でないかと。

どうなんだろう。セットで任じられるんだから、もちろん関係がある。しかし「補完」関係だというのは、推論が飛んでいる。順番に読んでみよう。


監軍使者の名称は、後漢代にある。『後漢書』明帝紀に、中郎将の竇固が、捕虜将軍の馬武ら2将軍を「監」したとある。『後漢書』馬武伝で、捕虜将軍の馬武は、「監軍使者」竇固をひきいる。
明帝紀では、竇固が司令官。馬武伝で、馬武が司令官で、竇固は監軍使者として、麾下に従軍しただけ。両者のニュアンスの違いに、監軍使者の本質がある。

謎解き、楽しくなってきた!

竇固の本官は、中郎将である。中郎将のまま、将軍を「監」した。「監二将軍」は、監軍使者にある「監軍」の言い換えである。

言葉を加工しているけど、ここまでは確かにそのとおりだ。まるで、テーブルマジックを見ているようだ。

中郎将は、「持節の官」と認識された。大庭氏を見よ。
『後漢書』来歙伝にある。中郎将の来歙は、隗囂を平定したのち、長安の駐屯軍を「監護」し、公孫述を討ちにゆく。刺客にやられた来歙は、「使者」と自称する。虎牙大将軍の蓋延が、来歙の後任をしぶると、来歙が蓋延を処断しようとした。
もどって、
中郎将の竇固も持節した。おもな任務は、「監軍」により、主将の馬武らを監察すること。征討軍の編成を、天子が編成した監軍を中心にみると、明帝紀のように、竇固がトップとなる。つまり「監軍使者」は、官名でない。「持節して、○○の軍事を監督する勅使」の総称である。

あ!トランプが消えた!という瞬間。
官名でなく、ただの文章だと言われた。もう反論できない。だって、記述は確かにある。ただの文章を官名だと言われれば、そうじゃないと言える。だが、ただの文章だと言われれば、黙るしかない。「いいや官名だ」と言うことも、選択肢としてあるだろう。だが、名詞が安定しないとか、中郎将という本官があるとかの理由で、むずかしい。
ところで、主将の馬武から見れば、捕虜将軍の馬武がトップ。天子から見れば、監軍の竇固がトップ。こういう、視点の置きどころによる、トップの変化というのは、起こり得るのか?違和感がのこる。
例える。「A社の社内で見れば、社長がトップ。しかし、A社の下請の企業から見れば、A社の社長よりも、A社の仕入部長のほうがトップ」なんてこと、ないよなー。ろくに仕事ができないオヤジが群れると、若者を「エース」とか言うが、これも違う。

監軍使者は、三国呉に見える。『三国志』呉主伝の239年、孫亮伝の255年、鍾離牧伝、虞翻伝にある。『晋書』鄧コウ伝にある。監軍使者は、大都督その他の武将とともに、征討に派遣された。漢代を踏襲した制度だ。派遣軍に添えられた、天子派遣の監察官である。

監軍使者が以上のものなら。劉焉の「監軍使者・益州牧」は、「使持節・監(ないし督)益州諸軍事・益州牧」といえる。益州は刺史が殺され、混乱していた。はぶく。
侍中の董扶は、蜀郡属国都尉として、劉焉に随従した。属国都尉は、『漢書』百官公卿表にある。武帝がおく。蜀郡属国は、『続漢書』郡国5によると、安帝の122年に設置された。青衣羌の居住地である。
劉焉は、「青羌」という異民族の傭兵部隊をもった。劉焉伝にひく『英雄記』、諸葛亮伝にひく『漢晋春秋』にひく後出師表、『華陽国志』4など。
属国は、投降した異民族による、強力な軍隊がいる。『後漢書』竇融伝は、張掖属国都尉をいう。『後漢書』公孫瓚伝は、遼東属国都尉をいう。

益州刺史の郤倹が死ぬと、劉焉は「益州刺史」を授けられた。監軍使者の権限が、刺史に吸収された。

刺史は、もともと監察官だったから。当初の監軍使者は、せまい意味では、益州刺史の郤倹を監察するものだったのだろう。だが戦乱により、それどころで、なくなった。劉焉は、新たに刺史となることで、益州の郡国を監察できることになった。

はじめて統治と征討という、2本柱をもつ牧伯制の、実が伴った。「益州牧」に進められた。

劉焉伝は、「監軍使」となす、尋いで「益州牧」を領すという。
さて、ぼくがよく分かっていないので、可能な範囲で整理。
まず順帝代の督軍御史は、行政の長官(刺史や太守)でない。州郡の兵を「督軍」する立場だった。本官は、御史中丞とか、光禄勲とかの中央官だ。中央官が持節して、地方の行政官を督察する。軍事の長官でない。よし。
つぎ、霊帝代の漢安都護。三輔の軍営のトップ。ただの軍事の長官。中央官でない。行政の長官でない。行政の長官を督察しない。ただの軍事の長官。内地に置かれたから、ビッグニュースだった。よし。
張温は、行車騎将軍から、太尉へ。つまり、ただの軍事の長官から、ただの中央官へ。行政の長官でない。行政の長官を督察しない。中央官の太尉のくせに、長安にいるからビッグニュースだった。だが、督察に関する複雑な権限はない。ふつうに、軍事の長官でした、中央官でした、というだけ。よし。
つぎ、京兆尹の蓋勛。京兆尹を地方と見なそう。行政の長官。ただし配下に、5都尉がいる。あくまで、行政の長官として、郡兵を持っている。 関中の軍備を増強したから、ビッグニュースだった。よし。
時代の順番は前後するが、論文の登場順に、中郎将の竇固。これは、軍事の長官である。将軍らを督察する立場だった。中央官でない。行政の長官でない。行政の長官を督察しない。ただ、軍事の長官として、ほかの軍事の長官たちを督察するだけ。軍のなかで完結した。ただ、天子に派遣されたという役回りが、特別だった。よし。
やっと劉焉。まず「監軍使者」となった。これは「まさに郤倹を徴して刑を加えんとし」任じられた。つまり、本官は中央官=太常(九卿)のまま、益州刺史の郤倹を叱るため、天子に派遣された。中央官が、州郡を督察するのだから、順帝代の馮緄と、まったく同じである。論文で、あいだに漢安都護とかが挿入されたから、道に迷いがちだが、、内地の軍鎮とか、これだけでは、とくに関係ない。
郤倹の死後、石井先生は、劉焉が益州刺史を授けられたとする。史料には、監軍使者のつぎ、益州牧とあるだけ。益州刺史という記述がない。どこから出てきたんだ、益州刺史は。『三国志』『後漢書』いずれも、劉焉伝に益州刺史がない。
あらためて、石井先生も引用している、劉焉の建議を見る。
「刺史、太守,貨賂為官,割剝百姓,以致離叛。可選清名重臣以為牧伯,鎮安方夏。」
うーん。べつに「刺史をやめて、牧伯に置き換えよ」と言っていない。「刺史と太守が腐っているから、牧伯に取り締まらせよ」と言っているだけだ。つまり牧伯に期待されているのは、刺史と太守を督察する仕事だ。そんな気がしてきた!
落ち着こう、、
刺史は、太守を督察する仕事だった。いま刺史は、督察の仕事をサボり、1太守のように行政の長官をしている。順帝代の叛乱でも、揚州刺史と九江太守が、なかよく出陣して、御史中丞の馮緄に「督」されてた。
もし劉焉が、刺史の代わりに牧伯を置けというなら、どう言うべきか。刺史という制度のダメさ、求心力のなさ、督察のサボり具合、戦争の弱さ、などを、言わねばならない。刺史がダメだから、ゆえに刺史を牧伯に格上げせよと、という筋道になる。しかし、そんな論法でない。
つまり、もと監察官だった刺史を、さらに監察するのが、州牧ではないか。
天子は、ミイラ取りがミイラになるたびに、新しい使者を派遣しなければならない。天子にとって不利なゲームなのは、ミイラが増えるたびに、求心力が薄まることだ。はじめは県の令長を、太守に監察させた。太守を、刺史に監察させた。刺史を、州牧に監察させた。州牧にいたり、ついに天子の使者を断るようになった。袁紹とか、袁術とか?
ミイラ帝国が完成した。さすが、墓場のホネ!


中平五年、動揺した益州を鎮定するにあたり、劉焉は有力な豪族の軍事力 を動員した。州の豪強を誅滅した。

上の話が途中だった。中央官=太常の劉焉は、監軍使者という役割(官名でない)を帯びて、 益州刺史を監察にきた。 つぎに、益州牧をかねた。中央官でなくなった。ただし石井先生は、ここで触れないが、官秩は前職のスライドである。つまり、太常の官秩を劉焉はもらう。中央官の肩書は取れるが、気持ちとしては、中央官の延長である。中央官=天子の首輪がついた役職、が強調されている。と思う。
牧伯は、刺史がうっすら残した監察の役割を、濃くして受け継いだ。刺史が、太守と一緒になって悪事をして、収拾がつかない場合、あらためて「天子の使者だからね」と強調された人が、州牧として派遣されたのだろう。おつかいのとき、「覚えてたら、大根を買ってきて」と言われるか、「絶対に大根を忘れないで、晩飯ぬくよ」と言われるか。刺史と州牧の差異は、これである。
ザ・監察官・オブ・ザ・監察官。巴郡太守、犍為太守を殺しちゃう!
(太守を殺す、州の監察官って、ふつうにすごいな)
ぎゃくに言えば、太守が悪事しないとか、刺史による抑制が利いている場合は、州牧は要らない?

権力の根源は、後漢の中期以降、地方鎮撫のために頻発された、「使持節・監(=督)州郡軍事」を兼任することによって生じる。

劉焉の益州牧は、行政の長官だろうか。軍事の長官だろうか。むー。
刺史と州牧は、同時期にちがう州に任じられるが、同時期におなじ州には任じられない。つまり州牧と刺史は、両立しない。
ってことは、牧伯と刺史は、重複する部分があるはずだ。
監察の重複は、上で見た。
牧伯は、刺史がうっすら(太守よりは劣る官秩で)持っていた、行政の長官の権限を受け継いだか。刺史が持っていた程度の権限は、継承しただろう、、という控えめなことしか、ぼくは言えない。
厳耕望は、後漢の守相が弱まり、刺史が直接に、治水や軍事をしたという。これらは、いかにも非常時の対応である。平時において、守相がスキマなく治めているのだから、刺史はダブっているのだ。
石井先生のいう「権力の根源」は、使持節・監(=督)州郡軍事である。つまり、ザ・監察官・オブ・ザ・監察官であるにも関わらず、監察の対象であるはずの刺史を兼ねてしまった。これが歴史のイタズラなんだなー。
もともと、刺史の行政官としての権限は、「有能な人が、有事に臨めば、勢力を持てる」という程度のものだ。「何でもできるが、何にもできない」という、着任者の能力次第で、おもしろみが変わる職務である。固有の領土があって、決まった仕事をやるんじゃない。
思考実験をする。もし劉焉が、単なる「益州刺史」であったら、何か変わったか。ぼくは、ほぼ同じ権限を持ったと思う。劉焉は、彼自身がやり手なのだ。監軍使者の権限がなくても、1割減もしなかったのでは?
まとめると、
牧伯は、刺史(やや監察官、ときに行政官)の強化版として、発想されたわけじゃない。太常の劉焉を赴任させたように、行政官としての権限は与えず、監察を重点化するのが、当初のねらいだった。たまたま、やり手の劉焉が、益州刺史(やりようによって、おもしろくなる行政官)までも兼ねてしまったので、反則レベルの強さを持ってしまった。劉焉の建議に、行政官としての権限は含まれない。
監察官としての権限は絶大、刺史としての権限は人次第。その証拠に、同時期に州牧になった人々は、劉焉ほど活躍していない。もともと、刺史になっても平凡だった人なら、州牧になっても、平凡なのだ。
行政の長官は見た。軍事の長官については、下記。


使持節・監(=督)州郡軍事の権限により、郡県に出兵を督促できる。軍律違反者を、処分できる。

うーん。劉焉は将軍号がないから、軍事の長官でない。州郡の長官に兵を出させて、その兵を督察することしかできない。御史中丞の馮緄は、あくまで督察官であり、将軍でなかった。
督軍使者として、軍事をやったのは、中郎将の来歙、中郎将の竇固。いずれも、軍事の長官としての官職をもつ。劉焉は、彼らとは違うのだ
(漢安都護の文脈に、目を奪われていると、これを見落とすだろう)
劉焉が使えるのは、益州の州兵だけである。州兵を中核として、まわりに郡兵をおく。州兵に対しては、全権をもつ。軍兵に対しては、督察権だけをもつ。ぼくが思うに、これでは、最強とは言いがたいなあ。だから、蜀郡属国都尉の董扶に、協力してもらったのか。ぎゃくに言えば、蜀郡属国都尉をはじめ、守相に叛かれたら、劉焉には貧弱な州兵しか残らないと。
太守や令長を殺しまくったのは、劉焉が郡県に「督察権のあるオレに、兵を指揮させよ」と要請し、郡県が「督察権だけでしょ。指揮権はないよ」と抵抗したってことか。
「州牧と将軍を兼務する」への、伏線だな。この流れは。

後漢末の「牧伯制」は、従来の州刺史の権限である、民事上の監察権とあわせて、州の軍事上の監察権(軍事司法権)を掌握する制度である。

ぼくは勘違いして読んでいたのか。厳耕望にしたがい、後漢の刺史は、行政官の色合いが強いという前提で、上を書いてた。石井先生は、刺史は民事の監察権をもつ、民事が主な性質、という認識だったのか。
みずから行政府をもたず、将軍府をもたず(つまり、決まったデスクを持たないで、天子にヒモづく威嚇だけで)、これだけの権限を振るったってことかあ。


○州牧=○刺史+督○州軍事

『全三国文』56にある『劉鎮南碑』はいう。劉表は、荊州刺史から、安南将軍・荊州牧にうつる。ついで、鎮南将軍にすすみ、「開府辟召、儀 如三公」となった。最後に「仮節」と「督交・揚二州」の権限を与えられた。李傕時代のことだ。
劉表の最終的な官位は、
使持節・鎮南将軍・開府辟召・儀同三公・督交揚二州・荊州牧・成武侯
である。「督荊州」の肩書がない。荊州牧は、正式には「監軍使者・荊州牧」であったなら、「督荊州」がいる。劉表に「督荊州」がなければ、劉焉の「州牧+監○州軍事」が、一般的な組み合わせと言えなくなる。
『三国志』烏丸鮮卑伝より、袁紹の正式な官位は、
使持節・大将軍・督青幽并・領荊州牧・阮郷侯
である。「督冀州」がない。
『三国志』孫策伝にひく『江表伝』より、呂布の官位は、
使持節・平東将軍・領徐州牧・温侯
である。1州のみの「督徐州」は、肩書が不要だとわかる。「州牧」と「督州」は一体化したものだ。「○州牧」=「○州刺史」+「督○州軍事」という図式となる。

劉焉は、当初なにに任じられたか。『三国志』劉焉伝にひく『漢霊帝紀』はいう。はじめに益州刺史となる。 『華陽国志』5では、はじめに監軍使者となり、益州刺史の郤倹を、懲罰するのが目的だった。監軍使者と、益州牧の任命時期には、隔たりがある。

『三国志』『後漢書』の列伝でも、そうだった。

劉焉のシナリオ。
中平四年4月、涼州刺史の耿鄙が殺された。五年3月、并州刺史の張懿が殺された。劉焉の提議が認められた。益州刺史の郤倹を、更迭・処断するため、「使持節・監(督)益州軍事」に任じられた。

待った。なんで「軍事」なんだっけ。
確認すると、石井先生が監軍使者の前例として使ったのは、本官が中郎将の、来歙と竇固である。彼らは武官だから、軍事をみた。御史中丞の馮緄は、文官である点が同じだが、馮緄は「持節・督揚州諸郡軍事」であって、監軍使者じゃない。劉焉は、監軍使者であるが、持節とも、督益州軍事とも書いていない。
来歙と竇固とは、本官の文武がちがう。馮緄とは、言葉(役割)がちがう。
「馮緄と同じようなことを、劉焉は期待されたんでしょ、近接&包含&類似する事例がおおいし」という話は通らない。言葉が違うなら、違う。言葉が同じなら、同じである。そういうルールのゲームだ、これは。
刺史1人を更迭するのに、持節し、州軍事を督さないとダメなのか? ちょっと、よく分からない。辞令1通で、ぽーんと呼び戻すのが、国家権力でしょう。郤倹を連れ戻すため、順帝末の叛乱と、おなじ対応をした? 不自然だ。
もしくは、郤倹は天子を名のるほどの独立勢力で、超・脅威だったか。

劉焉が誅殺する前に、郤倹が殺害された。朝廷は改めて、劉焉に益州刺史をさずけた。すでに拝受していた、監軍使者の権限が、刺史に吸収された。初めて、統治と征討の二本柱を骨子とする、牧伯制の実がともない、「牧伯制」の実が伴った。

コピーをめくり間違えて、さっき、ここ引用した気がする。すみません。
ところで、刺史が監軍使者の権限を「吸収」するって、どんなだろう。石井先生の定義では、刺史も監軍使者も、監察が職務だ。益州の郡国を監察する権限(益州刺史)が、益州刺史を監察する権限(今回の監軍使者)を吸収した?
ウロボロスの蛇だ。
ここから、何が言えるか。劉焉が、自分で自分を見張った、のではない。劉焉は、誰にも見張られなかった、が正解だろう。
しかし、注意したい。ふつう州刺史には、監軍使者のような「目付」はいない。郤倹がひどいから、特別に今回だけ、劉焉が任じられたのだ。
いま益州刺史の劉焉は、監軍使者のいない、ノーマルな刺史という立場である。すなわち、劉焉の益州牧は、それ以前の益州刺史と、完全にイコールである。という結果がでました。オオオ、、
でも、所期の目的は果たされている。「刺史や太守が腐っているから、優れた人物を牧伯にせよ」というのが、劉焉の建議だった。つまり、腐った刺史や太守を叩きだして、優れた劉焉が益州を改革した。ほら。べつに州牧が「督○州軍事」を兼ねていなくても、 劉焉の益州牧を理解することは、可能である。
もちろん、劉表、袁紹、呂布については、州牧に「督○州軍事」を含むと理解するほうが、自然な解釈なのだが。「劉焉のときは、定義があやふや、従来の制度に収まるものだった。のちに州牧が強化され、」という話になるのか。
劉焉の段階で、完成された州牧の権限を探そうとすると、ちょっと推論が飛躍して見える、かも知れない、みたいな?

劉表が、刺史から州牧に遷官したのは、「督州軍事」権限の追認。
刺史から州牧にあがるのは、陶謙、劉繇、張津。袁紹伝に、州牧と刺史が並記される。並記されるということは、刺史と州牧に区別があったことを示す。異なる機能の官職と、認識されていた。

益州牧の劉焉と、ほぼ同時期に刺史となったのは、劉表。劉表は順次、将軍に任命された。劉焉も、将軍号を帯びていた可能性がおおきい。将軍帯号が、一般的な州牧の形態。
幽州牧の劉虞は、太尉から大司馬。劉表は、安南将軍から鎮南将軍。徐州牧の陶謙は、安東将軍。雍州牧の劉繇は、振武将軍。益州牧の劉璋は、振威将軍。195年、胡才は、使持節・征北将軍・并州牧。李楽は、使持節・征西将軍・涼州牧。韓暹が、使持節・征東将軍・幽州牧。
太守の将軍号もある。廬江太守の陸康は、忠義将軍。行呉郡太守の陳瑀は、安東将軍。六朝時代に、将軍と太守の兼官が当たり前になる。『通典』33より。

刺史と将軍の兼務と、どう違うんだろう? いますぐに、やる気はないが、刺史と将軍の兼務も、いくらでも見つかるはず。州牧は、はじめ刺史から始まることが多いから(上記)同じことが起こる。
州牧の、刺史に対する差異が、言えるのだろうか。
上でぼくは、監軍御史(監察官)と刺史(監察官、ときに行政官)だけでは、それほど強くないと考えた。将軍号を加えることで、初めて強くなる気がする。監察するだけじゃ、自分でできることは少ない。
とすると、刺史+将軍でも、充分に強い事例を集めれば、州牧の軍事権は将軍号に依るのであり、州牧であることに依らないと言えるなあ。
刺史も州牧も、権限の種類(ベクトル)が同じで、権限の大きさ(スカラー)が違うだけ。刺史よりも州牧のほうが、より優れた人物が、より監察をがんばる、という位置づけである。名前が違うのだから、刺史と州牧は別物だ。
新たな権限の種類(ベクトル)として、軍事権がほしければ、将軍号をとるしかない。督○州軍事という権限は、将軍号に付帯したものである。と考えることも可能。上にあった、劉表、呂布、袁紹の事例は、いずれも将軍号とくっついていた!

将軍号を加官された州牧は、州内からあつめた、全軍の統帥権と軍政権をもつ。完全な軍事権を保有しえた。
なお、
『三国志』董卓伝にひく『霊帝紀』で董卓は、前将軍として扶風に駐屯する。并州牧に任命されたが、兵権を失うことを恐れて、拒否した。州牧の軍事権が、領兵権-軍隊の軍政・軍令権でなく、軍事司法権と分離されていたため、起きたトラブルである。

注38より。「-」ハイフンが、どこまで掛かっているのか、分からないので、とりあえず写してみた。ふつうに、前将軍は軍事権があり、并州牧に軍事権がないから、という理解では、足りないのだろうか。


再度、くり返す。「牧伯制」は、州の最高長官としての性格を強めつつあった「刺史」に、「持節」して、一定地域の軍事を監督・指導する「督軍」の権限を保有する、臨時の勅使「監軍御史」と「将軍」を有機的に結合させたもの。州に対する軍政支配を恒常化させる制度だ。

州牧と将軍がくっつくのは、史料どおりなのだが。「督軍」は関係ないよ、「将軍号」との兼務により、軍事を握ったよ、という話をつくりたい。

この制度の成立によって、内地の軍鎮化が完成した。都督制の基礎が固められた。内地機構に潜在していた、戒厳政府の常態化である。

つぎ「おわりに」です。つづく。