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02) 長安に置かれた「外鎮」

石井仁「漢末州牧考」を、「写経」します。

2 漢安都護の設置・順帝末の叛乱

持節領護官の機構は、幕府だ。内政にむけた郡県支配の論理とは、明らかに異なった思想のもとに創設された。

「論理」ってなんだろう。たしかに、官位の機構は、将軍府とそっくり、という話は確認されていたが。長官がいて、副官がいて、その部下がいて、、というのは同じ。監察する主体と、監察される客体がある、というのも同じ。
ところで、「論理」ってなんだろう。(2回目)
郡県だって、もとは戦国秦が滅ぼした地域を、統治し、監察し、有事のときは軍事行動するものだったのでは? いや、軍事行動は、組織に設計されていないのか? 「軍隊をひきいる太守」と、「将軍」は、どれだけ「論理」が違うのだろう。
前に厳耕望でやったところの、州府、将軍府、都督府、などの話?
そりゃ、百官志などに書かれる職名は、郡県と将軍では、異なる。持節領護官は、石井先生の確認されたとおり、将軍に近い。ここが引っかかるのでない。「論理」まで抽象化すると、共通点が多く見えてくるのでは?


後漢末、軍政支配の論理が、中国の内地にも導入される。

ところで、「論理」ってなんだろう。(3回目)

じつは、内政機構のなかにも、一定区域に戒厳令を発動できる装置が、萌芽していた。

前節から「戒厳令」という言葉が使われている。 この近代?の用語は、比喩的に、後漢にも使っても「だいじょうぶ」ということだ。
いま「萌芽」とあった。3つの意味をこめた、比喩に感じられる。1つ、当初の設計のなかに(無意識にせよ)組み込まれていた。もし、種子が単なる果肉のかたまりなら、芽はでない。2つ、しばらく発芽せず、眠っていた。発動してなかった。3つ、ついに発芽した。

郡県の軍隊を、指揮下におさめて内乱を鎮圧する「督軍」「監軍」の勅任官である。
前漢のとき、「直指使者」「繍衣使者」と呼ばれた。
『漢書』雋不疑伝にある。武帝の前099年、暴勝之は「直指使者」に任じられ、「繍衣」を着て「斧」を持った。盗賊を追捕し、郡県に戒厳令を発令した。

戒厳令とは「郡国を督課する」ことの石井訳。

命令に従わない、刺史・太守以下を、軍法(軍興法)に照らして誅殺した。

後漢代、御史系統の官職が「持節」して、「督軍」の任務を帯びた。いわゆる「督軍御史」である。
『後漢書』馮緄伝にある。順帝末の144年、九江で叛乱あり。御史中丞の馮緄は、「持節・督揚州諸郡軍事」として派遣された。揚州刺史の尹燿と、九江太守の鄧顕を「督」した。都督の淵源と見なされる記事。

刺史は、平時に太守を監察する。御史中丞+持節+督○州諸郡軍事は、刺史すらもひきい、さらに「戒厳令」のもと監察する。
刺史には、有事の機能までは、期待されてないからなあ。監察官から行政官にうつったが、軍政官にはうつらない。という理解であっているのか?
南朝まで見渡せば、刺史そのものに、軍政官の機能は付けられない。州牧は刺史の上位代替?だし、都督は刺史を兼務する。
ここから言葉遊びなのだが。
もし皇帝が、領域内を州に分けるなら、州の長官を置かなきゃ。はじめに州ありきでなく、はじめに長官ありきでもない。州に分けたのと同時に、州の長官が必要になる。
この長官は、どんな名前でもいい。会社でも、グループ長、グループマネジャー、グループリーダーなどが、混在している。
長官には、行政と軍政の両方が期待される。全権を預けられた「州内の神」みたいな地位を置けば、制度の設計は一瞬で終わる。だが、3つの理由で、「州内の神」は置かれない。
1つ、歴史的な経緯に引きずられる。 もともと州は、監察官が「見る」単位だった。後漢にとって州は「所与」のものである。つまり、前漢が決めたものを、引き継いだだけだ。だから、後漢が領域内を州に分割するとき、「見る」長官の刺史を、無視できない。神を作るにしても、刺史に追加していく、という手法をとらざるを得ない。
(史料を検討するとコレが言えるのでない。言葉遊びの結果である)
2つ「州内の神」を置く必要があるか。軍政は、つねに必要か?
3つ「州内の神」を置いたら、独立しちゃう。この観点は、石井先生が、州牧から都督に移ったとする理由である。州牧は、いまぼくが言った「州内の神」みたいなものだから、独立したと。袁術、劉備、孫権になったと。後述。
さて、
ぼくが何にこだわっているかというと。
この議論をするとき、名称ベースで追いかけるのが良いか、機能ベースで追いかけるのが良いか、という話。名称ベースとは、「刺史がもっている機能は、どのように変遷したか」という問題の立て方。機能ベースとは、「州の○○権は、各時期で、どんな名称の官職に与えられたか」という問題の立て方。
史料に「即して」「実証的に」検討すると、前者の手法になる。すると暗黙のうちに、名称と機能が、一対一対応するという前提を含む。帯びる。筆者はそのつもりじゃなくても、読者は誤解する。
例えば、固有名詞「Aさん」の成長を記録するとする。Aさんの過去と、Aさんの近況を記述するとき、どちらも「Aさんは」と書き起こす。これは成長の記録だから、過去のAさんと、現在のAさんは「別人」だ。もし過去と現在が等しければ、成長の記録にならないから、記述そのものが無価値となる。結果、Aさんの変化を伝えたいのに、同じ「Aさんは」という語法を使わねばならん。ジレンマだなー。「前期Aさん」「後期Aさん」みたいに、術語を設定すればいいのか。
(勝手に解決したつもり;自問自答)
いま見ている、順帝末の事件も、名称が変わっただけなのか、機能まで変わったのか。おそらく、制度の起源において、カッチリ説明できないのだと思うが、、もやもやする!

叛乱が徐州に拡大した。馮緄は「督揚、徐二州軍事」に進んだ。九江都尉の滕撫と、中郎将の趙序を指揮した。 『後漢書』滕撫伝によれば、145年まで叛乱は継続。滕撫が、「中郎将・督揚徐二州事」として鎮圧した。

御史のほか、光禄勲の系統も「持節・督軍」として派遣された。光禄大夫、太中大夫、中郎将、謁者など。注16、竹園卓夫を見よ。
督軍御史をふくめ、「監軍使者」と総称された。

直指使者、あるいは督軍御史などは、一時的に軍政支配するので、外鎮のありかたと同じ。地方の鎮安を目的とする、牧伯制を先取する。内政機構に潜在していた、疑似軍鎮 である。
つまり、牧伯制に先行して、持節領護官の外鎮機構、督軍御史などの内乱鎮撫官など、内外の政治制度そのものに、地方の軍閥化にはたらく因子が内在した。黄巾により、漢王朝が秩序を回復できなくなると、因子が急速に表面化する。

異存はありませんが。あえて疑問をさしはさむなら、2つの方向性があるだろう。「因子」を、大きく見積もりすぎだ、小さく見積もりすぎだと。
まず大きいほう。外鎮は将軍府に同じというのは、異議なし。実際に異民族との戦闘があるのだから、戦闘できない組織をつくる理由がない。でも「内乱鎮撫官」に、そこまで言えるのか。順帝末の叛乱は、臨時の対応であり(石井先生もそう書かれている)それ以上でも以下でもないような。結果的に、黄巾以後、先生の言うところの「軍閥化」が進んだから、その起源を、遡及的に強調しているような気がする。
(それが歴史学の手法だ、宿命だ、とも思いますが)
例える。
ぼくが60歳を過ぎたとき、鎌倉に住んだとする。すると、現在 20代のぼくのなかには、「鎌倉居住可能性」の因子が含まれるの? 身体を探しても、あまり「身に覚えがない」である。だが鎌倉居住可能性は、絶対に含まれねばならない。石井先生の議論は、これを意味している。これは史学でなく、言葉遊びの次元で、絶対に正しい。
なお、きっと同じくらいの大きさで「静岡居住可能性」が含まれるかも知れない。同じツブの大きさの可能性は、無数にあるよ。さらに「大阪居住可能性」は、「鎌倉居住可能性」よりも大きい気がする。住みたいから。でも、もし鎌倉に住んでいたら、「大阪居住可能性」は、発現しなかったことになる。結果、そんな因子はなかったことになる?
「居住可能性」はバカっぽいから、病気になる因子でも同じ。ああ、病気に例えたほうが、比喩としては類例がおおいので、適切だったな。
石井先生の結論に異論があるのでなく、推論の形式について、こだわっただけです。言葉遊び。
つぎに小さいほう。
秦漢による統一が、むしろ異常事態であって、人々は「身の丈にあった(想像力が届く範囲で)治安を維持できる大きさ」を求めると思う。唯一、漢帝国の秩序だけに頼り、武装解除!なんて、できるはずがない。後漢の統一のもとでも、つねに有事に対応できる心構え、体制が用意されていたと考えるほうが、自然だろう。郡県のレベルで、けっこう緊張や摩擦が多かったのでは?
ところで、
有史以来(また大風呂敷を広げてしまった)軍事と関係ない統治組織なんて、ないはずだ。軍事行動により、権力を握って、組織をつくる。軍事の匂いがしない組織なんて、あり得ない。例外として、近代の民主主義?は、組織名や役職名に、軍事の「残り香」がない。民主主義は、「軍事とは関係ないことにしましょうね」という同意&約束&建前であって、フィクションが共有されているだけ。
(言葉をいじるだけで、思考や認識が左右される。人間はボロい)
日頃は、この同意署名に加わっているのがよいが(べつに政治活動がしたいわけじゃない)史料を読むとき、気をつけないと。
「後漢の内地にある郡県制に、軍閥化に働く因子がない」という前提を持つのは、とんでもない近代ボケ(平和ボケとはちがう)である。
ところで、 日本の江戸幕府が、平時は行政、有事は軍事にシフトできる体制だったと言われる。これは、天下統一の過程でつくった命名のクセが、残っただけだろう。石井先生は、曹魏の都督制が、曹操をふくめた軍閥らの「私設」組織から生まれたという。ちょっと似てる? 似てないか。
ただし、名前に軍事の「残り香」があっても、ほんとうにシフトするとは限らない。幕末には、既存の組織が、効率的で有機的に発動して、、なんて話にはならなかった。とぼくは認識してる。これは余談。
以上、因子の見積もりが、大きすぎると考えた場合と、小さすぎると考えた場合の、異議でした。余計なことを書いた。


ちなみに『三国志』荀彧伝にひく『三輔決録』はいう。厳象は、督軍・御史中丞をもって、揚州にゆく。袁術が病死したので、揚州刺史となると。
『晋書』宣帝紀はいう。魏が受禅すると、司馬懿は尚書となる。このころ、督軍・御史中丞に転じると。
督軍御史は、魏初まで継承されたと分かる。
『後漢書』献帝紀の建安三年4月はいう。謁者僕射の裴茂は、中郎将の段煨をひきい、李傕を殺したと。建安まで、使者による監軍が一般的だった。
すでに漢魏交替期は、都督が、派遣軍を監督した。督軍御史らがいかなる機能を果たしたか、改めて論じる。そうです。

やっと、漢安都護の設置

州牧の設置の1年後、

どうなんだろう。州牧が「設置」されたというのは、留保がいるかも。「劉焉による建言の一年後」が正確かな。
制度というものの捉え方によるが(また風呂敷が大きい)、建言され、決定され、詔され、施行され、、という、カッチリした運用ではないと思う。劉焉が建言して、「まあ悪くないよね」と判断されたので、数人が任命された。ただし劉焉は、州牧でなく刺史として赴任した。以後、各州でトラブルがあるたび、臨時の対応として、州牧を任命するというオプションもできた、という程度かな。
順帝のときの「持節・督揚州諸軍軍事」も、上記のようにカッチリ運用する制度ではない。非常時には、そういうオプションもあり得る、という程度。
「州牧の設置」というと、13人の刺史を解任して、13人の州牧を任命したようなイメージを生む。刺史と州牧が、同一人物であることも多いが、形式的には、まず刺史を解任しましたと。組織は、そういう「辞令遊び」が好きである。 石井先生は、そんなことを書いてない。ただぼくが誤読しやすいから、自戒したということ。
っていうか、
近代の法制みたいなカッチリした運用がないとき、いかなる状況を「制度」というのだろう。州牧なら、1人が置かれるだけでは「設置」には違いないが、「制度」とまで言えないだろう。1例で「制度」と言ったら、制度の数量が無限になる。個別の事象をある程度は捨てて、全体を見よう、という制度史の目標が果たせなくなる。
(制度史の目標がこれなのかは、知りません。ぼくの認識)
1例でも任命されたことを「制度」としたら、例外がなくなる。すべてに適応されたという意味でなく、すべてが制度どおりであり、かつ同時に、例外となるから。例外の事象がなくなるのでなく、例外という概念がなくなる。また言葉遊び。
州牧が、たとえば過半数の7州に任じられたら、制度と見なせるのか? もしくは、州牧たちが影響を及ぼし始めたら、制度として機能した、実質的な始まりだ、と考えるのか?
州牧が機能するのは、董卓政権の以降だなあ。劉焉の建言から、霊帝の死去まで、たった1年。劉焉が州牧になったのが、霊帝期か献帝期か、よく分からない気がする。史料は時系列の順序だが、こまかく月日まで書いてない。
霊帝の時代、州牧が董卓が任命しまくった。州牧らは、董卓に対抗するというかたちで、影響を発揮し始めた。うわー皮肉。
州牧の制度は、後漢の皇帝のために働いてない。州牧に任命された人らの個人的な発想は別にして(劉虞は献帝を重んじたとか)、霊帝の死が早過ぎたという理由で、州牧の制度が、皇帝のためにセッセと働く機会がなかった。
10皿の小鉢を食べたら、腹を壊したとする。どれが腐っていたのか、どれが健康に良かったのか、互いにどのように作用したのか(食べ合わせの問題だったか)分からない。後漢の滅亡と、州牧の制度の関係は、これである。

『後漢書』献帝紀はいう。189年12月、扶風都尉をはぶき、漢安都護をおいた。もっとも緊張した関中に、西域都護を彷彿とさせる「漢安都護」が出現した。
記事はこれだけ。長官に任命された人物、正確な職掌や組織は、全く不明。推測するに、長安を防衛するために置かれた「右扶風都尉(雍県)」「京兆虎牙都尉(長安)」を、統合・整理したものだ。

後漢の三輔には、例外的に常備軍がいた。「虎牙営」「雍営」が設置され、長安を防衛した。
はじめ、創業の功臣が、光武の直轄に移され「監営謁者」に統括された。安帝の110年、「右扶風」「京兆虎牙」の2都尉に再編された。羌族対策である。
『後漢書』西羌伝で、115年の討伐に2都尉がかかわる。
濱口重国「光武帝の軍備宿所と其の影響」『秦漢隋唐史の研究』を見よ。

羌族+黄巾により、関中に深刻な動乱あり。はぶく。
『後漢書』董卓伝の中平三年春。長安に駐留する張温が、太尉に任じられた。京師に不在。地方に割拠する軍閥に、三公が濫授される端緒となった。
中平六年四月、幽州牧の劉虞が、在外「太尉」となる。同年九月、「大司馬」が復活され、改めて劉虞に授けられた。大司馬と太尉が、初めて並置された。『後漢書』劉虞伝、『通典』20職官。
建安元年、河内太守・安国将軍の張楊が、在外の大司馬。『後漢書』董卓伝によると、李傕らが六府。各地に幕府が開設され、相対的地位を低下させた。

ところで、三公は「開府」する特権がある。開府は正確には「開府辟召」という。官房である「府」をひらき、属官を任用できる権限だ。後漢では、三公と将軍のみが、府を開置できた。大庭氏を見よ。
あくまで将軍は「不常置」と認識された。張温は、不安定な「行車騎将軍事」から、合法的に幕府を開置できる「太尉」になった。関中の幕府が、安定して治安維持できる基礎が固まった。

「将軍府」は、いつ解散するか分からない。だから「太尉府」によって安定させたと。石井先生の結論を変えず、言い方を変えてみると。後漢は、長安に安定した軍府を設置したいというニーズがあった。後漢の制度で、それを可能にするのは、三公府を置くことのみ。だから、前例がないことを承知で、在外三公を置いたと。このニーズは、直接は書いてないが、そう勘ぐれなくもない。
まあ、三公は交替が激しいからなー。将軍は、ポストそのものが消失するが、三公は、ポストが簡単に移動する。張温は「制度上」安定したのであり、「政治上」安定したとは言えないか。石井先生の指摘は、前者のみ。

『後漢書』董卓伝によると、中平三年冬、京師にもどされた。長安の太尉府と、張温がひきいる征討軍は、分離・解散した。関中の防衛は、ふたたび涼州刺史に移管された。
ただし『三国志』董卓伝で、楡中で討伐軍がやぶれ、董卓は扶風に駐屯した。王国が陳倉をかこむと、董卓は前将軍、皇甫嵩の副官。兵力を温存した董卓が、実際の関中駐屯軍の、総帥のような立場にあった。

漢安都護は、半分は右扶風都尉からできた。(もう1つは京兆虎牙都尉)。董卓は、長安には入れてもらえないが、強かったのは確か。しかし「総帥的な立場」とは、すごいことを書いてある。


京兆尹の蓋勛、五校尉をおく

中平四年四月、韓遂が隴西をかこみ、涼州刺史の耿鄙を殺した。馬騰(もと耿鄙の司馬)や、合衆将軍の王国が、韓遂に呼応した。

上で張温は、涼州刺史に権限を返して、京師に帰った。その涼州刺史が殺されたのだから、大混乱だ。
張温は、制度上は安定したが、政治上は安定していないことが、確認できた。笑

左将軍の皇甫嵩、前将軍の董卓がゆく。

京兆尹の蓋勛は、五都尉を新設した。『後漢書』蓋勛伝にひく『続漢書』にある。郡兵5千で足りず、1万を越そうとした

厳耕望がいうとおり、郡兵は数千のレベル。おおくて5千のイメージ。
注26に、士孫端や5校尉の血筋が、紹介されている。名望家を起用して、在地勢力を結集する目的も窺えるらしい。

三輔を防衛するため、「鷹ヨウ都尉」「破敵都尉」「威虜都尉」「鳥撃都尉」「清寇都尉」をおき、士孫端ら5名を任じた。
蓋勛を推したのは、司隷校尉の張温その人。蓋勛は、もと漢陽長史のとき、護羌校尉の夏育を救いにゆき、敗れた。涼州に軍鎮をおく重要性を痛感していた。張温から、後継者として認められた。名士を、文官でなく、名号の都尉という武官にまねいた。関中に、軍政支配の雰囲気がただよった。
漢安都護は、韓遂や馬騰により、無政府状態になった関中に、軍政支配を樹立するため。
ただし漢安都護は、董卓の長安遷都(190年3月)により、機能せずに自然消滅した。外鎮の名称である「都護」を、内地に導入したところが、画期的な官職・機構である。軍鎮の内地設置を象徴する。

関中の無政府状態は、211年に曹操が、韓遂と馬超をやぶるまで継続する。
司隷校尉の鍾繇が、委任された。 建安初、鍾繇は「侍中・守司隷校尉・持節・督関中軍事」として、袁紹と戦う曹操をささえた。并州牧の高幹に後押しされ、袁氏の河東太守・郭援が入ってきた。馬超や龐徳を利用した。鍾繇伝、馬超伝。鍾繇の統治は、半独立的な軍閥を懐柔し、合従連衡を利用したのだ。

もともと関中は、後漢初から、羌族問題に悩まされた。だが関中の他も、内部事情をあっかえた。牧伯制にすすむ。