06) 曹操軍団の「原・都督」
石井仁「都督考」を、「写経」します。
後漢末の諸軍閥に見える、都督制の萌芽
192年、冀州牧の袁紹は、沮授を「監軍・奮威将軍」とした。199年、郭図と淳于瓊を新たに「都督」に任じ、1軍を統率させた。
『三国志』袁紹伝にひく『九州春秋』はいう。袁譚は青州にいたるや、都督たりて、いまだ刺史たらず。のち太祖 拝して刺史となすと。
袁紹は公孫瓚をやぶった。袁譚らに与えられたのは、刺史でなく「都督」だった。袁紹政権にも、強力な権限をもつ、征討都督、州郡都督が萌芽しつつあった。
つよいのは、州郡都督という制度でなく、袁紹軍の腕力である。私設軍事職の強さは、腕力によって決まる。州郡都督も強かった、という理解でいいのか。なんか「制度史とは何か」という、根本的なところで、つまずいてきたぞ。
そんなこと言ったら、後漢の制度だって、光武の私設官が、光武の腕力によってオーソライズされただけ、となる。曹魏の都督制だって同じだな。うーん。
蜀漢もおなじ。208年、軍師中郎将の諸葛亮が、3郡を「督」した。
214年、トウ寇将軍の関羽が「董督荊州事」を拝した。219年、鎮遠将軍の魏延が「漢中都督」に抜擢された。安遠将軍の鄧方が「庲降都督」に任じられた。222年の東征で、「大督」「前部督」「別督」が設置された。鎮北将軍の黄権が「江北の軍を督」した。
孫呉も、中護軍・建威中郎将の周瑜と、トウ寇将軍の程普が「左右督」に任じられた。征討軍を派遣するとき、陸遜のように「大都督」が任命された。夏口、陸口、西陵、楽郷、公安、濡須、牛渚などの戦略拠点に「都督」が常駐した。
劉璋は白水関に「都督」をおいた。
以上、
曹魏に始まったとされる、都督制に類似する制度は、袁紹、孫呉、蜀漢にもある。征討軍が、所期の軍事目的を終了したあとも、駐留することを余儀なくされた。駐留軍が占領地域に軍政支配をしけば、円滑に運営できる。
支配領域を拡大した、有力な軍閥は、問題を課せられた。すでに牧伯制によって実現していた、軍鎮体制を、いかに自己の政権基盤として消化するか。
軍事司法を管掌する「原・都督」は、軍隊の綱紀粛正、つまり軍閥内部の、私的秩序を維持するために、設置された職である。
暗黙の前提として、董卓以後の人たちは、「私的」な「軍閥」であるという前提として、解釈されている。ほんとうにそうなのか? ただの地方官では? そうでなくては、あれだけ禅譲するしない、正統か否か、にモメる理由がない。
漢代の将軍の官属では、役割を説明する言葉や、組織内での肩書が足りなかった。だから「都督」という流行語をテコに、新たな肩書が発生していったのでは。だがそれは、漢代の将軍号を否定するかたちでなく、補完するためだろう。
つぎに、いかに都督が牧伯に代わるか、という話になる。これは「いかに漢代の軍鎮制度を否定して、魏晋の軍鎮制度に移行するか」という、問題の立て方だと思う。2つの点で、違和感がある。1つ、牧伯は、都督のような軍鎮制度ではないはずだ。2つ、魏晋の制度は、漢制を「消化」して発生するものじゃないのでは。
っていうか、ぼく、後漢が好きなんだなー。笑
曹魏における都督制の完成
都督制は、曹魏の独創でない。すべての軍閥政権に萌芽が内包された。『隷釈』19にある「魏公卿上尊号奏」は、「原・都督」の痕跡と、成長過程を窺わせる。
46人ある。注目されるのは、車騎将軍の曹仁、四征将軍の曹真、曹休、夏侯尚、臧覇の5名が、「使持節・行都督督軍」と称している。列伝によれば、
曹仁=仮節・都督荊揚益州 諸軍事・車騎将軍
曹真=仮節・都督雍涼州 諸軍事・鎮西将軍
曹休=仮節・都督(揚州)諸軍事・征東将軍・揚州刺史
夏侯尚=仮節・都督南方諸軍事・征南将軍・荊州刺史
臧覇=仮節・都督青州諸軍事・鎮東将軍・徐州刺史
である。すべて「仮節・都督○州諸軍事」を将軍と兼任する。「使持節・行都督督軍」がその略称である。
なお「仮節」と「使持節」は、西晋以降のように、資格の上下をいわない。権限の授与と、それによって生じる官称の関係。竹園を見よ。
注目すべきは、「都督督軍」に冠する「行」である。漢代、「行○官事」は、○官の「事務取扱」とでもいうべき、兼任の形態。大庭を見よ。
しかし後漢末と三国は、「行」の使用幅が広がる。伝統ある官職でない、軍閥の私設職からくる、軍師、監軍、領軍、護軍、参軍などの諸官をおびるとき「行」という。役職を帯有する人が、ほかに品秩をしめす官号を保有した。すなわち「行事」という帯官の形態は、都督が、伝統的な漢王朝の官職(漢朝列職)でないことを示す。「原・都督」を起源としたことを、暗示する。
「都督督軍」という表現が奇妙だ。「都督○州諸軍事」の略称だが、なぜ「督督」と重複するか。沈約『宋書』は都督の条にいう。光武がおいた「督軍諸使」を、曹操が「都督」と名づけたと。征討軍の「大将」を「都督」と号したのが、起源であると沈約はいう。
都督制の本質が、臨時編成の行軍組織にあると示す。覇権ある有力軍閥のもとで「10軍20軍」という、大規模な分遣隊の指揮官だけを、「都督」といった。
漢代、内乱を鎮撫する権限を「使持節・督軍」(=監軍使者)があった。御史中丞、中郎将・謁者など、御史・光禄勲の系統の官位と結合して、「督軍御史」「監営謁者」とよばれた。
曹操政権にあって、都督とおなじく、分遣軍の監察を担当したのは、護軍。護軍は「都督・護○○軍事」が正式な名称。比較的、権限の軽かった「原・都督」の一形態だった。石井別論文。
例えば「リーダー」と言っても、それだけでは、どこの、どの範囲を監察するのか、追記しないと意味をなさないのと同じ。国際連合のリーダーかも知れないし(そんなものないか)、小学校の遠足の班3人のリーダーかも知れない。
後漢の監軍使者と、曹魏の都督とは、断絶でない。発展・継承の関係にある。都督にも、他の使者とおなじく、任務を示す「督軍」「監軍」の権限が付された。
ABCの3つがあるとする。AとBの似ている度合いと、AとCの似ている度合いは、共通点をN個指摘するなら、どちらも 2^(N-2) となる。つまり、思いつくだけフラットに共通点を指摘して良いなら、「AはBと連続するが、AはCと断絶する」ということは、原理的に不可能である。言いたい共通点にしぼって、類似と差異を指摘しないと、傾向が出てこない。という話が、たまたま読んでいた、中川敏『言語ゲームが世界を創る・人類学と科学』にあった。これを言うために、読んでたんじゃない。偶然。
いま、漢制と魏制で、
③軍事司法の権限が、共通するという。しかし軍事司法は、それこそ春秋時代からあって(石井先生が書いてる)、近代西洋にも認めることができる。この普遍的な権限のあり方を、共通点と言われても、。
「あなた、私に似ていますね。だって、腕が2本あり、脚が2本ある」と言われているのと同じ。肩すかしな感じが、しないでもない。
荀彧伝にひく『三輔決録』はいう。198年、「督軍御史中丞」の厳象が、袁術を討伐した。『後漢紀』で197年、「謁者僕射」の裴茂が、「三輔の諸軍を督して」李傕を討伐した。建安初期、都督でない官職が、督軍した。
沈約が見すごした「原・都督」こそ、両者を結合するカギだ。『上尊号奏』にある「使持節・行都督督軍」は、曹操軍団の「原・都督」の地位にあり、○州郡の軍事を監督する、皇帝の勅使という意味をしめす。「使持節・行都督・督(もしくは監)○州郡軍事」の省略表現だという、仮節がたつ。
曹操は献帝をむかえ、自己の「原・都督」の機能と、牧伯制の一角を構成した「監軍使者」の権限を、より合法的に結合させた。
牧伯制の一角「監軍使者」とある。この表現で足りるのか。牧伯の定義や本質(=抜かれると死ぬもの)は、この監軍使者だろう。劉焉は州郡を監察するため、牧伯を置けと言った。劉焉は、はじめ監軍使者として、益州刺史を監察にいった。牧伯から、監察の権限をぬいたら、牧伯が牧伯でなくなる。
ぼくなりに理解するなら、はじめ刺史が、郡国を監察した。刺史による監察が機能しないから、さらに牧伯をかぶせて、刺史と郡国を監察しようとした。しかし、どうやら曹操から見ると、牧伯による監察が機能しない。だから、曹操集団の「原・都督」に、牧伯を監察させた。もしくは、牧伯の代わりに、州郡を監察させた。
曹操軍団の「原・都督」は、曹操政権の外側にいる、州牧ども(軍閥ども)を取り締まった。曹操自身は、いち早く?州牧の地位をおりた。天子というか、丞相となり、「原・都督」をつかって、牧伯を取り締まる側にまわった。
このイメージを図式化するなら、
((((太守)刺史)牧伯)曹操の都督)である。
監察官の特徴は、どの範囲にも置けて、どれだけ重層的にダブっても、置けるってこと。「原・都督」がいろいろなのは、その監察官という性による。ぼくがこれを言うのは、あくまで性格(ないし定義)によるのであり、史料的根拠によるのでない。もちろん、石井先生が見せたように、史料的根拠もあるのだが。
つまり、
長官は、組織の数に縛られる。でも見張り役は、原理的には、無限に設置することができる。1人の部署に、100人の長官を置くことは不可能だが、1人の部署に、100人の監察官を置くことは可能である。天子や丞相が「見張りたいなー」と思えば、その欲望の数だけ、監察官が置ける。そして「監察官の仕事ぶり見張りたいなー」と思えば、さらに監察官の監察官を置ける。「都督の都督が、大都督」というのと同じ。
後漢から曹魏にうつる時期の、監察官のあり方は、袁紹を倒した後の、曹操の胸の内をさぐる作業となるなあ。曹操ファンでないと、やってられない!
60頁の表によると、各方面で、征討・鎮守をまかされたのは、曹氏と夏侯氏に集中する。
注40。張魯を降したのち、中護軍の韓浩を「留めて諸軍を都督」させる意見がおおいが、曹操は、征西将軍の夏侯淵を抜擢した。張郃伝にひく『魏略』で、夏侯淵は「都督」だが、劉備は張郃を恐れたという。夏侯淵は都督である。
夏侯惇の死後、杜襲は張郃を「督」に推戴した。夏侯淵が死んで混乱し、新たな「督」が出てくるのだから、夏侯淵は都督を兼任したのだろう。
夏侯楙は、持節・安西将軍に任ぜられ、夏侯淵のあとをつぎ「関中を都督」した。夏侯淵伝は、征西将軍としか見えないが、都督を兼任しただろう。
仮説をいう。宿将は、戦線が拡大したので、征討を委任された。司馬から、校尉、中郎将、将軍と、後漢から授けられる軍号を進めながらも、曹操軍団の秩序・編成においては、つねに「原・都督」であり続けた。
曹操の覇権が確立すると、「原・都督」が監察する対象が、営から軍へ、さらには複数の軍へと、権限を拡大した。都督制に成長・発展した。
都督制だって、「原・都督」のときは、語義くらいの意味しかなかった。「都督○州諸軍事」とまで言って、はじめて魏制における意味をなす。だが「○州諸軍事」が省かれるようになった。肩書として「都督」が固定されて、排他的に使われたと。もはや、小さな軍団長が、③軍事司法をやっても、都督とは呼ばれない。
ところで「専務」「常務」って、訳語? だったら事例が不適切だなあ。
◆まとめ
くり返す。
曹魏において成立した都督制(=州郡都督)の原質は、後漢末に挙兵し、一個の軍隊に過ぎなかった曹操軍団に、同時期の他の軍閥と同様に設置されていた、私設の監軍職「原・都督」である。曹操が覇権を確立すると、権限を拡大・強化した。牧伯制によって定着を見た、軍鎮による郡県支配体制をとりこみ、地方長官としての地位を獲得した。
瀕死の後漢王朝が、起死回生を狙って採用した牧伯制は、
軍政支配による秩序回復を意図する政策であった。反面、故事伝説に由来する、地方主権の主張としての権威を潜在させた。牧伯が、強大な実権を背景に、自立勢力を築くことを放任した体制に他ならない。
「県」とは、戦国秦に征服された「都市国家」であり、首級を城門に「懸」けられた怨みから、独立する可能性を「内包」することが「窺われ」「得る」なんて話になる。ちょっと、これは言いがかりだけど。もっと漢制の影響はおおきくて、牧伯に故事の匂いなんて、しないはずだ、と言いたかった。
牧伯を放置しておくこともできず、だが政治社会の情勢から、撤廃もできない。都督制は、このジレンマを解消し、
補正する機能を期待された。牧伯の無制限な権力拡大を阻止しつつ、
けっきょく曹操が勝ち損ねた牧伯は、劉備と孫権か。曹魏の都督制は、曹魏内部の牧伯を阻止するんじゃなく、曹魏外部にいる牧伯(劉備と孫権)を阻止するために、発明された?
石井先生は、そんなこと書いてないなあ。
あたかも、曹魏内部の「制度上」のライバルである牧伯を、「制度上」に都督をおいて、牽制したような書きぶりである。確かに、一般化したらそういう話になるが、、事実と違うような。これは、政治的、軍事的な戦いでない。制度における戦いである。ということ? 軍事制度を打ち合わせるテーブルがあったとして(ぼくの妄想)、荀彧や荀攸が、あーでもない、こーでもない、と首を傾げて、都督制を設計しているという感じか。「中原に牧伯を置き続けたら、やっかいです」と。
うーん。
曹氏や夏侯氏ら、州郡都督は、もっと自然発生的(というか仕方なく)発生した感じだ。 呉蜀が残ったから、やむを得ず駐留軍が離れられなくなった。という気がする。都督制の発生時期は、これを示してる。曹丕の初期は、もろにそういう時代だし。
州牧は査察官で、都督も査察官。
魏制においては、石井先生のいうとおり「政界にほとんど地盤を持たない曹操」は、使い勝手のよい「原・都督」のほうが、強調されたと。。
もともと13州は、両漢が治めやすいように、区分けした地域である。刺史が監察しやすいように、区分けしたのだ。厳耕望のいう都督区は、外敵と戦いやすいように、区分けしたものだ。いま天子の目的は、京師から刺史を出発させることでなく、外敵と戦うことである。目的に沿って、自然と使う分類が決まったのだ。
例えば中学校のクラスで、誰に補習を受けさせるか決めるなら、成績表による区分を使う。家庭訪問の径路を決めるなら、住所による区分を使う。生徒を区分する基準・観点には、必ず目的があり、それに沿った用途でもちいる。補習者を決めるため、居住地で区分して生徒を仕分けても、意味がない。
生徒を区切るのも、天下を区切るのも、原理は同じ。
州牧は、後漢の天子が、州郡を査察するために任命した。都督は(石井先生の理解では)私設された軍閥が、外敵と戦うために任命した。
州牧に、都督のような軍鎮の機能を見つけるのは、「前のめり」のような気がする。ゆえに、都督と州牧はバッティングしない。都督に、州牧を「補正」する機能を見出すのは、「後ろのめり」のような気がする。
うーん。2つの事物を「違う」というのは、誰でもできる。子供でもできる。「名前が違う」と言えば、一瞬で終わりである。ぼくがやりたいのは、そんな乱暴なことではなく、、宿題とする。 袁紹や曹操を、私設の軍閥とする前提に、ぼくは引っかかっているんだろう。矢野主税を、つぎに読もう。 せっかくコピってきた。
軍閥内部における、濃密な君臣関係と、軍隊秩序の維持装置を、郡県支配の場にもちこんだ。新たな軍政支配の秩序を形成し、さらには王朝国家の再編を企図した。
反中央的な権力に、容易に転化しうる危険性をもつが、都督制が六朝をとおして存続・継承された理由が、ここにある。
魏代の都督制と、南朝梁の都督制が、名称だけでなく、内容も同質であれば、石井先生の指摘を強く言えるなあ。どんな側面を強調して「内容の同質」をいうのか、定義、視点の固定が必要だけど。
おわりに
黄巾ののち、持節領護官にながれる軍政支配の論理と、内乱鎮撫官の権限「使持節・督(監)○州郡軍事」(=監軍使者)を融合的に継承した州牧の設置により、内地の軍閥化に結実した。
『上尊号奏』にある「使持節・行都督・督軍」は、後漢末に顕在化した、軍閥私設職と、地方軍鎮化の最終的な結合を明示する。曹魏の都督制とは、曹操軍団の「原・都督」の地位にあって、○州軍事を監督する勅使を意味する「使持節・都督・督(監)○州軍事」という複合的な官職に淵源する。
文帝時代に実施された、都督の制度的確立は、曹操軍団における「原・都督」体制を、最終的に解消した。くわえて、後漢の官制に起源するものと、軍閥の職制に起源するものと、が錯綜した監軍職を整理した。
『通典』32・都督の条にある。監を改めて都督となすと。これを、「漢代の監軍使者を改める」と理解する。
後漢の監軍使者の権限は、事実上、曹操軍団の「原・都督」に占有された。この既成事実を追認して、独自の監軍機構を整備した。黄初二年の改革を、『通典』32は伝えている。
注45。黄初元年、司馬懿は、督軍御史中丞に任命された。黄初二年、督軍の官が罷められたので、侍中・尚書右僕射に遷った。黄初二年、旧来の監軍職が廃止されたことを、窺わせる。
都督と四征将軍の関係について。
「原・都督」が征討軍司令官になると、統帥権をにぎる軍号も、見あったものが必要とされた。護軍将軍(武帝代の韓安国がつく)、都護将軍(光武代の賈復がつく)は、このニーズで再生された。
後漢では、輔政を任務とする、大将軍、驃騎将軍ら「三公につぐ」将軍は、宗室や外戚しか就けない。度遼将軍、征西将軍には就ける。曹操は『魏武故事』で征西将軍を望んだ。四征将軍は、曹操があこがれた。四征将軍が、都督そのものという理解(越智)もまた、否定できない。今後の課題。
監察官って、調べるの楽しそうだなー。120225