表紙 > 読書録 > 石井仁「漢末州牧考」「都督考」を読む

05) 軍閥私設の監察官「原・都督」

石井仁「都督考」を、「写経」します。

はじめに_都督制の先行研究

六朝時代の軍事制度の根幹は、221年に始まったとされる、都督制である。

軍事制度の話をするんですね。それを忘れないように読もう。

注1は研究史をならべる。小野論文は、研究史をまとめる。

本来、軍団長職をさす都督は、中央・地方をとわず設置された。
 全国的な領域の軍事支配・・・都督中外諸軍事(何茲全、越智)
 局地的な領域の軍事支配・・・都督州郡諸軍事
 特定の軍事行動のみ限定・・・・都督征討諸軍事
わけても州郡都督は、地方行政と密接に関連した。一定の管轄区をもつ地方長官として、管内の州刺史・郡太守などを、軍事的に支配し得た。
厳耕望は「都督区」という概念を提出し、州郡県の上級地方行政単位として、都督に注目した。

軍団長職が、もとの意味。州郡都督が、地方行政と「密接に関連」し、行政長官を「軍事的」に「支配し得た」って、どういうことだろう。軍政の反対語は、民政?行政?
軍政の反対を民政というのは、近代の言い方だろうから、違うな。
1つ、行政長官がやる軍事行動(州郡の兵を動かすこと)を、支配した(指揮権を奪った)ということか。つまり、刺史が「右に行け」と言い、都督が「左に行け」と言えば、州兵は左にゆくという。もしくは、2つ、行政の日常業務まで、刃物で脅して、思うようにしたのか。行政官が減税したいなーと思ったが、都督がカネを欲しがり、増税するという。
読みながら、確かめよう。

王朝の創業者や、地方の独立政権は、例外なく都督の権限を中核に形成される、軍府(都督府)を権力の中枢とした。

州牧は、どこに行ったのだろう。

軍府の起源は、『南斉書』百官志がいう。後漢の御史中丞の馮緄。決定的な成立の京畿は、曹操の軍事制度。曹操は、配下の武将に、一定地域の軍事を掌握させた。

御史中丞の馮緄は、軍府を持っていなかろう。まあ『南斉書』に反論しても、むなしいのだが。
『南斉書』によれば、馮緄を起点として、ある1方向で州牧が生まれ、べつの1方向で都督が生まれた。石井先生は、州牧と都督を「双子」と書いていた。つまり、州牧から都督が生まれなくても、いいのだ。
どうなんだろうなあ。兗州牧や冀州牧の曹操は、州牧の権力を自ら振るいつつ、その権力の一部を、都督に割りふっていった。という理解する。制度的には、州牧と都督は双子かも知れない。しかしミクロに見れば、曹魏の都督は、「曹操の州牧権力」の子供たちである。さきを読もう。

都督は、軍制のみならず、政治社会を解明する上での、重要なカギ。

先行研究の問題点

以上が、先行研究が明らかにした都督制。
解釈が分かれるのが、都督の管制上の位置づけ。都督とおなじく、方面軍の指揮統率に関わった、四征将軍との関係。越智重明は、統属関係があるという。つねに兼任したので、都督は四征将軍を「領職」するという小尾孟夫。
越智氏の問題点。起源が異なる、都督と四征将軍が、いかなる契機で統属関係をもったか、不分明である。
注8。四征将軍は、光武が、馮異を征西大将軍、岑彭を征南大将軍に任じたのが始まり。後漢の征西将軍は、372頁に表がある。耿秉、鄧畳、劉尚、司馬鈞、馬賢、袁滂である。匈奴、羌族に対する遠征軍の、司令官ないしは副官。大庭、竹園を見よ。

小尾氏の問題点。なぜ将軍と都督という、ともに軍事に関係する2種類の官号を、兼任する必要があるか。
都督制の起源は、『宋書』百官志、『南斉書』百官志で理解される。だが、制度の起源を、直線的かつ事件史的な視点で、単純に解釈し得るのか。すみやかに機能し得る条件がともなわなければ、制度化は不可能である。制度に結実する、その過程の解明にこそ、制度理解のカギがある。

『南斉書』に文句つけても、むなしくないんだ。ひとつ学んだ。
前にぼくが書いたことがある。事実について、正史にケチをつけても、仕方ない。そう書いてあるんだから、そう書いてあるんだ。だが正史が、解釈や因果関係の説明をするとき、これに反論することは、現代人にも可能である。その手法を、いま読むことができた。

四征将軍と都督の関係は、制度の静態的な分析では、解決し得ない。

「鍵」「○○し得る」「し得ない」が、書き癖のようです。

起源をふくめた、発生論・段階論的な視角が不可欠。

「漢末州牧考」との関係

「州牧考」結論。郡県支配が一般的だった漢代、例外的に軍政が布かれたのは、動乱の起こった地方と、西北の辺境地域。前者には、臨時の地方鎮撫官(直指使者、監軍使者)などが派遣された。後者には、幕府の性格を具有する、持節領護官(西域都護、護烏桓校尉、護羌校尉、使匈奴中郎将、度遼将軍)などが派遣された。
官職としての州牧の実体は、「使持節・監(もしくは督)某州諸軍事・将軍・そこの州刺史」という、複合的な権力機構だ。地方鎮撫官の常設化と、辺境幕府の内地設置という、2つの意味をもつ。 刺史本来の監察範囲である、州を単位としたブロックを、軍政支配下に組み込むための、軍鎮形成を保証した
牧伯制によって、すでに地方軍鎮体制が、完成していた!
形態的・機能的に類似する州牧が、なぜ曹魏の都督に、取って代わられたか。都督の性格を解くカギがある。

この問題の立て方、待ってました!


都督は、本来は軍事組織である。軍制上に都督を位置づける視点もいる。「軍事権」「督軍権」の内容について、曖昧である。古代中世の中国で、軍隊はどのように維持・運用されたか、基本的な合意がない。これらを明らかにし、地方統治のあり方に帰納する。

「軍事権」の内容は、「分からなくて良い」のだ。そうだったのかあ!軍事の内容を積みかさねることで、地方統治のあり方がわかる。心がおどる、問題の立て方!


1 後漢末における「都督」の出現

直線的に、「後漢の州牧が、曹魏の都督になった」と説明できない。都督制の起源を、後漢末の軍事制度に見つける。
『三国志』孫堅伝にひく『英雄記』で、将軍・陳郡太守の胡軫が「大督護」となり、中郎将の呂布が「騎督」となる。

はじめから、将軍号を兼ねていたのかー。

董卓軍の都督が率いたのは、1千に満たない。六朝の都督は州郡をひきいるが、それより遥かに少ない。数百しか率いない、後漢末の都督を「原・都督」という。六朝の都督が、発生したときの形態である。
呂布伝にひく『英雄記』で、中郎将の高順が、「都督」して数百をひきいる。于禁伝、徐晃伝でも、曹操軍の武将が、おのおの「都督」として営を統率したとわかる。武帝紀より、孫権軍にも「都督」が営を統率したとわかる。
甘寧伝で、折衝将軍の甘寧が、「前部督」として、「都督」を手勢とした。甘寧の「前部督」は、前鋒都督の先駆的形態。孫権の先鋒軍には、戦闘単位の極大から極小まで、「原・都督」が、累積的に設置された。
甘寧伝にひく『呉書』で、将軍・江夏太守の黄祖が、「都督」蘇飛をつかった。呂蒙伝で黄祖は「都督」陳就をつかった。片腕の参謀・蘇飛、先鋒軍の勇将・陳就などが「原・都督」である。
「原・都督」は、あらゆる単位に無数に設置され、相対的地位と性格を保有する職である。

つまり「都督」という言葉だけで、具体的な職務が分からない。「軍事職のなにか」くらいの意味しかない。いまの「会社員」みたいに、意味が広すぎる。


州牧のもとに「督軍従事」「都督従事」がいた。『三国志』牽招伝で、冀州牧の袁紹の督軍従事となる。
袁紹伝にひく『九州春秋』によれば、州牧の韓馥は、「都督従事」の趙浮らを出陣させた。馬騰は涼州の「軍従事」である。馬超は、司隷校尉の鍾繇の「督軍従事」である。楊戯伝から、蜀にも都督従事がいたと分かる。
「従事史」なら、州官の代名詞のような官職である。だが「督軍従事」は、漢代と南北朝にない。後漢末だけの、特徴的な州従事である。

いきなり、どの会社も「CFO」を設置しまくった、みたいな。これで、CFOが廃れてくれれば、この時期に特徴的な、会社の肩書である、と言える。


将軍を司令官とする、漢代の征討軍は。文官の官僚に、長史、司馬、従事中郎、掾属がいた。武官の将校に、中郎将、行為、軍司馬がいた。『続漢書』を見よ。
後漢末、将軍ら軍号が濫発され、統帥が混乱した。大庭を見よ。覇権をめざす軍閥は、軍師、参軍事、領軍、護軍などの幕僚職を新設した。軍閥内の私的な秩序を形成するので、「軍閥私設職」という。 新しいタイプの、軍事編成を生み出した。

軍師、参軍事、領軍、護軍は、漢代の将軍府の公式の肩書じゃないんだなあ。

『曹瞞伝』で官渡のとき、袁紹の軍糧をまもるのは「都督・将軍」の淳于瓊。配下には「督将」「騎督」がいた。これも「原・都督」の編成だろう。袁紹は、校尉・司馬などの編成から脱却!していた。
「原・都督」は、漢代の正規軍における、階級を明示する武官職とは、系統が異なる。軍閥私設職である。

これが結論ですねー。ぼくは、州牧との関係に興味がある。ここまでは、なるほど!と、頷きながら読んでます。

「督将」とは、「都督」の職を兼任する、中郎将・校尉などの軍号保持者をさす、普通名詞。『後漢書』呂布伝で、高順を「督将」とする、また、凌統伝や曹純伝で、「原・都督」を「督」と省略する。本来「都督」は、同義語の「都」「督」を組み合わせた。刑罰をともなう監察権を示す官制用語であった。『アジア歴史事典』宮崎市定の記した「都大」の項目。

「都」は、全ての意じゃないんですね。
論文に書かれてないが。漢代に由来する肩書として、中郎将や校尉があった。彼らが「都督」の機能を果たした。はじめ「都督」は、軍事私設職でなく、ただの機能だったのだと思う。やがて、漢代の肩書よりも、軍閥のなかでの、機能のほうが重要となった。漢代からの任命が、途絶えるからな。やがて、機能のほうで呼ばれた。これが、軍事私設職になったと。

公孫瓚伝は、184年の辺章らの叛乱で「都督行事」となる。群雄割拠する以前に、出現していた。後漢の軍事制度に「原・都督」が萌芽していた。ともあれ、軍閥抗争により、「原・都督」の設置が助長された。

以上。軍閥の軍隊には、州牧から太守にいたるまで、軍事編成レベルでは、「軍」から「営」、さらに主将の親衛組織「帳下」まで。あらゆる軍隊の、あらゆる単位に、重層的に「原・都督」が設置された。副官、参謀から、部隊長まで、幅広い性格があった。

ぼくは思う。「原・都督」が長官である事例がなかった。都督は、長官にはなれないのか。さっきの宮崎市定の解説より、都督は監察官である。つまり、長官に代わりに取り締まることはできても、長官になれない。この「因子」が、どう影響するのか、気をつけて先を読む。


2 「都督」の職掌について

「督軍権」という言葉のあいまいさ。
近代国家における軍制は、3権から構成される。
 ①軍隊の建設・維持に関わる「軍政」
 ②軍隊の指揮・運用に関わる「軍令」=統帥
 ③軍隊構成員の秩序維持に関わる「軍事司法」
春秋戦国以降、官僚制的なピラミッドにより、近代軍隊に近づいた。②軍政と③軍法のため、「監軍」という軍目付け職を高度に発展させた。軍事権が、巧妙に分割されていた。

大都護の胡軫が、出陣のとき「青綬」中郎将・校尉の官位をもつ都督1人を殺した。袁紹の督軍従事する牽招が、舎人を殺した。「原・都督」は、③軍事司法をしている。『通典』149『魏武軍令』『魏武歩戦令』にもある。横領や敵前逃亡を斬った。
賈逵伝にひく『魏略』で、鄴城を包囲したとき、軍用の家畜を横領した人を、「都督」が取り締まった。軍営を、定期的に巡回したと分かる。武官の幘、杖刑の杖をもつ。憲兵のような姿。
呂範伝でも「騎督」が取り締まった。『江表伝』で孫策は、「都督に士大夫に相応しくない、小職だ」呂範にという。都督は、儒家官僚の理想とする清官とは、相容れない。法家的な職である。軍法に照らして弾劾し、罪に陥とすのは、煩雑な実務である。非士大夫の濁的な職務と見なされた。

まえ勤めてた会社で、経理部長をはずされた人が、内部監査室長をしていた。内部監査は、経理ノウハウが必要だが、嫌われ役、よごれ役、煩雑な実務である。笑

孫策は、兵2千をもつ呂範が「都督」に就くのは、「屈」という。「都督」になれば、指揮権を喪失する。統帥とは無関係の、純然たる軍事司法職だとわかる。

ぼくは思う。本官が中郎将で、付帯して期待される役割が「都督」である。つまり、本官は②軍令で、付帯して③軍事司法をやる。②軍令と、③軍事司法は、分かれているようで、分かれていない。
呂範は、②を手放して、③のみをやろうとしたから、孫策に慌てられた。ほんとうに「三権分立」をやろうとすると、「マジか、本気なのか」と、疑われる。
おなじことを、州牧の議論でもやった。
刺史は、もとは監察官だった。やがて行政官になった。刺史を例えると、もとは③軍事司法=監察だけだったが、②軍令=行政長官を帯びるようになった、という話になる。ぼくは牧伯も、③軍事司法が本分であると、前ページで考えた。②軍令=長官職は、将軍号によって手に入れたんだろうと。
②人に命じる職務と、③命じられた人を見張る職務。すべての議論は、この対立に収束していく気がしてきた。石井先生が、この枠組みを立てて話をしているから、「これでいい」のだろう。行政において、②命じるのは太守。③見張るのは刺史と州牧。軍事において、②命じるのは将軍、③見張るのは都督。
ところで、官制において、軍内を見張るのは、誰の仕事だっけ。

杜畿伝で、杜畿は、将軍・河東太守になった。前任の王邑が、鎮北将軍・河東太守だったので、杜畿も将軍号を兼ねたはずだ。杜畿は、郡掾の衛固を「都督」に任じ、中郎将の范先に、将校吏3千余人を督せしめた。

ぼくは思う。この「史料にない」石井先生の推測は、何を意味するか。杜畿が「都督」を置いたのは、太守の属官でなく、将軍の属官として「都督」を置いたってこと。行政官でなく、軍事官でなければならない。
この時代、太守が将軍を兼ねることが多い。董卓のところの、胡軫ですら、太守と将軍を兼ねていた。もはや、行政官としてか、軍事官としてか、という問いの立て方に、意味がないのだろうか。


孫河伝で、偏将軍・丹陽太守の孫翊は、孝廉の媯覧を「大都督」に辟召した。

また、将軍と太守を兼ねている、、
ずっと悩んでいること。
後漢の中期から末期にかけて。太守が郡兵を動かすのは、行政官としての権限か? 将軍が属兵を動かすのは、軍事官の権限か? 刺史が州兵を動かすのは、監察官の権限か?行政官の権限か?軍事官の権限か?、、兼務した場合は?、、答えが出そうにない問いだ。問いの立て方が悪いのだろうか。 「区別がつかなくなった時代として、軍閥はどのような制度であるか」という問題になるのか。

大都督は、230年に大将軍の司馬懿、257年に大将軍の司馬昭が任じられたのが、始まりとされる。配下の「小都督」を監督した。『宋書』百官志より。大都督は、小都督を殺せた。
「原・都督」も、軍事司法をやる。杜畿の河東、孫翊の丹陽も、郡兵3千がいる。「原・都督」大都督は、下の階層の都督を、監督できた。「都督の都督」を指す呼称だった。清濁はともかく、大都督は主将に次ぐ地位である。孝廉にあげられる、河東や丹陽の実力者が任じられた。
蜀にもある。
219年に関羽は、使持節・都督荊州諸軍事・前将軍の関羽だが、捕縛された。最後まで従ったのが「都督」趙累だ。張飛は、使持節・都督中外諸軍事・車騎将軍・領司隷校尉である。221年に暗殺されたとき、「営都督」が上表した。側近として、主将を補佐したのだろう。江夏郡の蘇飛、関羽の趙累、張飛の営都督も、側近という点で「大都督」だった可能性がある。
史料を記す魏晋に、地方の軍団長としての都督制が行われており、「大都督」をそのまま記すことに躊躇した。

おなじ言葉を使っていると、こういうことが起きるのね。面白い。ぼくらなら、さしずめ「カッコに入れる」をやるだろう。


以上。「原・都督」は、軍隊の各単位におかれた監軍職。設置単位で、将兵の軍令違反を摘発して、処断した。これは、③軍事司法職である。②統帥権を発動しない。
しかし実際には、「営」などの戦闘単位で、中郎将や校尉などの軍号を保持する指揮官が、「原・都督」を兼任することが一般的だった。高順の「陥陣営」のように、武将と部曲が、私的情誼によって、つよく結合した。武将に②軍令と、③軍事司法を集中させて、自律性をフルに発揮させる、きわめて実戦的な編成だった。

どうなんだろう。②軍令と、③軍事司法を分けるというのは、西洋で発達した軍隊の形式だ。中国古代に、類似があるとして、これは「わざわざ」分けたのである。「わざわざ」分けなけりゃ、軍隊のトップが全てを兼務するのが、自然である。話題から落ちてるが、①軍政だって兼ねるだろう。武将が部曲に「飯を食わせる」というかたちで。
小さな組織は、「命じる」と「見張る」が分かれない。なぜか。管理コストの費用対効果だろう。1万の軍隊なら、長官は、彼らが離叛するリスクに鑑みて、監察官を置くだろう。監察官は、付加価値を生まない(戦闘で役に立たない)が、置かねばならない。だが10人の軍隊なら、監察官を置かなくても目が届くし、彼らが離叛しても構わない。10人のリーダーに、「命じる」「見張る」を兼務させれば良い。
前者は、1億円を守るために、5千円の金庫を借りるようなもの。後者は、1万円を守るために、5千円の金庫を借りるようなもの。
石井先生は、各階層に重層的に「原・都督」があるという。史料にある。だが、階層が一定まで下り、規模が小さくなると、③軍事司法は、②軍令と未分化になるな。「わざわざ」分けるメリットがない。「実戦的」ならば、いっそうコストにシビアになる。
小さな販売会社には、経理マンは1人でいい。大きな製造会社は、事務1号館、事務2号館」、、と、管理用の自社ビルを建てまくる。それでも利益が出る。利益のほうが大きいと考える。この発想に通じる?

魏晋以降の都督が、つねに将軍などの軍号を兼任した形態であらわれるのは、必然となる。

けっきょく、古代中国に、②軍令と、③軍事司法の区別があると考えるのは、厳しかったということでは。たしかに史料上、③軍事司法のみを 担当する官位が出てくる。だが「実戦的」でなかった。いちばん効率よく動かすには、②軍令と、③軍事司法が、ピリピリ緊張した状態でない。②軍令と、③軍事司法が一体化して、長官が何でもできたほうが、効率がよい。
淮南の三叛とか、②軍令と③軍事司法が、いかに曹魏の成熟期にあっても未分化であったか、示すと思う。「淮南で叛乱させない」なんて、③軍事司法のキモのキモだ。淮南の話は、あとから出てくるかな。
ぼくは、③軍事司法の独立が、皆無だと言いたいのでない。史料にあるのだから。しかし区別すべきだ。設置され、建前として制度設計の思想に含まれ、実際に機能した事例があることは、それが、制度として有効であることとイコールでない。
例えば、不良品が出まくっている製造ラインにも、「品質課長」はいるだろうし、品質の改善活動は、行われているだろう。だが、不良品が出続けており、しかも致命的な欠陥が出ている。こういう、組織の制度と、運用の実態が異なる状況は、容易に想像できる。ウソくさくない。
っていうか、品質チェック(③軍事司法も同じ)が、うまくいかないから、監察する人が目立つのだ。 ジレンマだなー。


次回、三国の話です。つづく。