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6)荊州争奪、正史の消化不良

むしろ『演義』よりも完成度が高いかも知れない、
『平話』の赤壁を見てきました。

荊州4郡の混乱

赤壁のあと、劉備には荊州の南4郡を平定してもらいたいのですが・・・
この辺り『平話』はめちゃくちゃです。複数の列伝を足し合わせないといけないから、時系列が飛んでしまったんだと思います。

予め宣言しますが、次の10行ほどは意味不明です。書いてるぼくは、意識不明です。それをご承知の上で、ご覧下さい。
『平話』のあらすじは・・・
周瑜は長沙郡で趙範(正史では桂陽太守)と戦った。荊州の部将は、曹璋という人。曹操の子の曹彰じゃないから、誰だか分からない。そこに張飛が乗り込んで、周瑜・曹璋・張飛の三つ巴となる。
張飛が勝つ。周瑜が自分が長沙郡を接収する正当性を主張すると、劉琦が登場。周瑜はショックを受けて吐血。そこへ曹操からの使者が来て、劉備を「荊王」に任命した。
周瑜は諦めきれず、商人に化けて城攻めを試みたが、 巴丘で病没。
周瑜の死後、長沙郡が劉備に叛乱した。叛乱の黒幕は龐統だった。趙雲は、趙範を射殺して、長沙郡を平定した。他の郡も劉備に背いた。黄忠や魏延と戦い、彼らは劉備の仲間になった。

どうやら周瑜の死を挟み、劉備は荊州平定を2回やってます。だから分からなくなる。正史が消化できてない。

漢の滅亡

曹操は馬騰を呼び寄せた。狙いは、劉備と対決させるため。
「馬騰将軍は諸葛亮に、馬超は関羽に、馬岱は張飛に匹敵すると言えるでしょう」
と賈詡が言い出した。何を尺度に比較したのか分からないが、馬氏に期待して涼州から招いた。だが馬騰は、曹操を逆臣だ!と弾劾した。
曹操が馬騰を殺したから、馬超が挙兵した。正史では、馬超が挙兵したから、馬騰が殺されます。因果の逆転は、『演義』の独創じゃなく、『平話』の段階ですでに起きていました。

曹操は、献帝の太子が謀反を企んだとして、街中で斬刑にした。劉氏の後継が居なくなったので、曹操は大魏王となった。
ご存知、太子殺害は、正史にも『演義』にもないことです。(蛇足ながら正史で、献帝の死後に山陽公を嗣ぐのは、1代飛んで献帝の孫でした。『平話』の作者はそれを念頭に置いたのではないでしょうが)
孫権が呉王になった。
正史で孫権は、曹操の死後、曹丕から呉王に封じられます。劉備よりも先に、孫権が積極的に王になるなんて・・・『平話』は孫権の即位のタイミングや順序をどうでもいいと思っているのか。

曹操は、まだ生きているくせに、
「私の子の曹丕は、徳があります。皇帝を譲ってください」
と献帝に迫った。禅譲が実現した。
孫権も対抗して、呉の大帝となった。また劉備より孫権が先です。孫権の称号がランクアップする時期が遅い意義を、『平話』は見ていない。孫権の外交手腕は、興味がないらしい。

もうほとんどの人が忘れていますが、『平話』は韓信・彭越・英布の復讐物語です。曹操・劉備・孫権が全員生きているうちに帝位につかないと、漢の天下を持ち合えません。天帝との約束が守れなくなります。
しかし、曹操を皇帝にするという「史実無視」がやれず、
「曹操の生前に曹丕が皇帝に即位する」
という変則技を、『平話』は悩んだ末にくり出した。孫権には、曹操の生前に呉帝になってもらった。
『三国志』を熟読すると、三国の事情は極めてアンシンメトリーで、タイミングがズレまくっている。分かりにくい。それを単純化して粒を揃えた苦労が、『平話』の虚構ぶりの原因でしょう。

劉備の死

荊州で関羽が殺された。
劉備は関羽の復讐をするために、孫呉に出陣しました。出陣の動機は『演義』と同じです。
夷陵で劉備は、陸遜ではなく呂蒙に、焼き払われた。聴衆が覚える名前を減らすために、呂蒙が陸遜の仕事を吸収しました。『演義』もたまにやる技法ですが、『平話』はもっと雑です。

夷陵に行くために劉備は、孟獲から10万の兵を借りた。正史では沙摩柯ですが、また登場人物を節約してしまった。
ちなみに孟獲は、劉備の死後に、兵の返還を求めて挙兵します。しかし兵は、夷陵で焼け死んでしまったから、返還はできない。
諸葛亮が南征して孟獲を攻めた理由は、兵の貸し借りを踏み倒すためだ。「国力の回復」なんていう、小難しい理屈は聴衆に受けません。

次回、諸葛亮と司馬懿が戦います。