2)裴松之が註釈した時代
裴松之の『三国志』の注釈提出まで、あと2年。裴松之は、三国時代を「近世の嘉史」と言っている。ここに出てくる宋の人にとっては、三国時代はまだ身近である。
もっとも、裴松之の感覚がズレていたら、その限りではないが。
後漢のそっくりの治世
四(427)年春正月乙亥朔、曲赦都邑百里內。辛巳、車駕親祠南郊。
二月乙卯、行幸丹徒、謁京陵。
三月丙子、詔に曰く、
「丹徒桑梓綢繆、大業攸始、踐境永懷、觸感罔極。昔漢章南巡、加恩元氏、況情義二三、有兼曩日。思播遺澤、酬慰士民。其蠲此縣今年租布、五歲刑以下皆悉原遣;登城三戰及大將家、隨宜隱恤。」
丁亥、車駕還宮。
戊子、尚書右僕射の鄭鮮之が卒した。
壬寅、夏至日の五絲命縷之屬を禁斷した。富陽令の諸葛闡之の提案である。
夏四月庚戌、以廷尉の王徽之を、為交州刺史。
五月壬午、中護軍の王華が卒した。京師疾疫。甲午、遣使存問、給醫藥;死者に家族がいなければ、棺器を国家が支給した。
六月癸卯朔、日有蝕之。庚申、以金紫光祿大夫の殷穆を為護軍將軍。
五(428)年春正月乙亥、詔に曰く、
「朕恭承洪業、臨饗四海、風化未弘、治道多昧、求之人事、鑒寐惟憂。加頃陰違序、旱疫成患、仰惟災戒、責深在予。思所以側身克念、議獄詳刑、上答天譴、下恤民瘼。群後百司、其各獻讜言、指陳得失、勿有所諱。」
甲申、車駕臨玄武館閱武。戊子、京邑大火、遣使巡慰賑賜。
夏四月己亥、以南蠻校尉の蕭摹之を、為湘州刺史。戊午、以始興太守の徐豁を、為廣州刺史。
五月己卯、以湘州刺史の張邵を、為雍州刺史。
六月庚戌、司徒王弘を降格して衛將軍にして、開府儀同三司。京邑大水。乙卯、遣使檢行賑贍。
ところで、少帝のとき頻繁にぶつかっていた、北魏が登場しませんね。華北の統一戦争に忙しいらしい。
以江夏內史の程道惠を、為廣州刺史。
秋八月壬戌、特進、左光祿大夫の范泰が卒した。
冬十月甲辰、車駕於延賢堂聽訟。
閏月癸未、以右軍司馬の劉德武を、為豫州刺史。辛卯、安陸公相の周籍之を、為甯州刺史。
十二月庚寅、左光祿大夫、領軍將軍の趙倫之が卒した。
是歳、天竺國遣使獻方物。
裴松之が提出した歳
六(429)年春正月辛丑、車駕親祠南郊。癸丑、以驃騎將軍、荊州刺史で彭城王の劉義康が為司徒、錄尚書事、領平北將軍、徐州刺史。
三月丁巳、立皇子の劉劭為皇太子。戊午、大赦天下、賜文武位一等。辛酉、以左衛將軍の殷景仁を、為中領軍。
夏四月癸亥、以尚書左僕射の王敬弘を、為尚書令。丹陽尹で臨川王の劉義慶を、為尚書左僕射。吏部尚書の江夷を、為尚書右僕射。
五月壬辰朔、日有蝕之。癸巳、以新除尚書令の王敬弘を、為特進、左光祿大夫。甲午、以撫軍司馬の劉道濟を、為益州刺史。乙卯、於雍州置馮翊郡。
七月己酉、以尚書左丞の孔默之を、為廣州刺史。
是月、百濟王遣使獻方物。
九月戊午、于秦州置隴西、宋康二郡。
冬十月壬申、中領軍の殷景仁が、丁艱去職。
十一月己醜朔、日有蝕之。十二月丁亥、河南國、河西王遣使獻方物。
倭の五王の朝献
七(430)年春正月癸巳、以吐谷渾の慕容璝を、為征西將軍、沙州刺史。是月、倭國王遣使獻方物。
三月戊子、遣右將軍の到彥之が北伐、水軍入河。甲午、以前征虜司馬の尹沖を、為司州刺史。甲寅、以前中領軍の殷景仁を、為領軍將軍。
夏四月癸未、訶羅單國遣使獻方物。
六月己卯、以冠軍將軍で氐の楊難當を、為秦州刺史。
秋七月戊子、索虜の確磝が、戍棄城走。丙申、以平北諮議參軍の甄法護を、為梁、南秦二州刺史。戊戌、索虜の滑台が、戍棄城走。
甲寅、林邑國、訶羅佗國、師子國遣使獻方物。
冬十月甲寅、南豫州をやめて、豫州に合わせた。以左將軍で竟陵王の劉義宣を、為徐州刺史。戊午、立錢署、鑄四銖錢。
戊寅、金墉城が、為索虜所陷。
十一月癸未、虎牢城が、複為索虜所陷。
壬辰、遣征南大將軍の檀道濟北討、右將軍の到彥之が、滑台から奔退した。
十二月辛酉、以南兗州刺史で長沙王の劉義欣を、為豫州刺史。司徒司馬の吉翰を、為司州刺史。乙亥、京邑火、延燒太社北牆。兗州刺史の竺靈秀が、有罪伏誅。
北魏からの圧力
八(431)年春正月庚寅、於交州複立珠崖郡。癸巳、以左軍將軍の申宣を、為兗州刺史。丁酉、征南大將軍の檀道濟が、、東平郡の壽張で破索虜。
二月乙卯、以平北司馬の韋郎を、為青州刺史。戊午、以尚書右僕射の江夷を、為湘州刺史。
辛酉、滑台が為索虜所陷。
癸酉、征南大將軍の檀道濟は、引軍還。丁醜、青州刺史の蕭思話は、棄城走。
以太子右衛率の劉遵考を、為南兗州刺史。
三月甲申、車駕は、於延賢堂聽訟。戊申、詔して曰く、
「自頃軍役殷興、國用增廣、資儲不給、百度尚繁。宜存簡約、以應事實。內外可通共詳思、務令節儉。」
夏四月甲寅、以衡陽王師の阮萬齡を、為湘州刺史。乙卯、以後軍參軍の徐遵之を、為兗州刺史。
六月乙丑、大赦天下。己卯、割江南及揚州晉陵郡屬南徐州、江北屬兗州。
2週前に「州郡志」を読んだだけのときは、区画の変更の意味が分からなかったが、やっと納得がいった。
以徐州刺史で竟陵王の劉義宣を、為南兗州刺史。司徒司馬の吉翰を、為徐州刺史。閏月庚子、詔に曰く、
「自頃農桑惰業、遊食者眾、荒萊不辟、督課無聞。一時水旱、便有罄匱、苟不深存務本、豐給靡因。郡守賦政方畿、縣宰親民之主、宜思獎訓、導以良規。鹹使肆力、地無遺利、耕蠶樹藝、各盡其力。若有力田殊眾、歲竟條名列上。」
揚州旱。乙巳、遣侍御史省獄訟、申調役。丙午、以左軍諮議參軍の劉道產を、為雍州刺史。
秋八月甲辰、臨川王の劉義慶を、解尚書僕射。丁未、割豫州秦郡屬南兗州。
冬十二月、罷湘州、還並荊州。