表紙 > 漢文和訳 > 『宋書』本紀第三「文帝紀」をバラす

3)北魏統一前夜、国固め

宋の人は、みな血走った殺し合いをやりたがる。ひとり劉義隆だけが、後漢を模範として、闘争本能の言いなりではない政治をやっている。
このバランスが続くといいのだが、、

南北で守りを固める

九(432)年春三月庚戌、衛將軍の王弘を、進位太保、加中書監。丁巳、征南大將軍、江州刺史の檀道濟を、進位司空。
夏四月乙亥、以護軍將軍の殷穆を、為特進。右光祿大夫、建昌縣公の到彥之を、為護軍將軍。
五月壬申、中書監、錄尚書事、衛將軍、揚州刺史の王弘が薨じた。
六月甲戌、以左軍諮議參軍の申宣を、為青州刺史。分青州置冀州。
戊寅、司徒、南徐州刺史で彭城王の劉義康を、改領揚州刺史。
己卯、以司徒參軍の崔諲を、為冀州刺史。
壬午、以吐谷渾の慕容延を、為平東將軍、吐谷渾の拾虔を、為平北將軍、吐谷渾の輝伐を、為鎮軍將軍。

吐谷渾は、河西の鮮卑である。吐谷渾から北魏を攻めれば、東に向うことになるから、東の付いた将軍号を贈ったのでしょう。

癸未、詔に曰く、
益州、梁州、交州、廣州の境界あたりは、治安が悪い。よく取り締まれ」
置積射、強弩將軍官。

北魏には勝てなくても、南方は固める。三国の呉蜀と同じだ。

乙未、以征西將軍、沙州刺史で吐谷渾の慕容璝を、為征西大將軍、西秦河二州刺史、隴西王。北秦州刺史で氐の楊難當に、加號征西將軍。
壬寅、以撫軍將軍、荊州刺史で江夏王の劉義恭を、為征北將軍、開府儀同三司、南兗州刺史。前將軍で臨川王の劉義慶を、為平西將軍、荊州刺史。南兗州刺史で竟陵王の劉義宣を、為中書監、中軍將軍。征虜將軍で衡陽王の劉義季を、為南徐州刺史。

東晋にいう北府と東府を、皇族が抑えるべし。劉裕の遺言に忠実である。

秋七月戊辰、以尚書の王仲德を、為鎮北將軍、徐州刺史。庚午、以領軍將軍の殷景仁を、為尚書僕射、太子詹事の劉湛を、為領軍將軍。壬申、河南國、河西王遣使獻方物。
九月、妖賊の趙廣が、寇益州、陷沒郡縣、州府討平之。
冬十一月壬子、以少府の甄法崇が、為益州刺史。癸醜、于廣州立宋康郡。
十二月甲戌、以右軍參軍の李秀之を、為交州刺史。庚寅、立第五皇子の劉紹を、為廬陵王。江夏王の劉義恭の子・劉郎を、為南豐縣王。

梁州の離反と合流

十(433)年、春正月甲寅、竟陵王の劉義宣を、改封南譙王。鎮北將軍、徐州刺史の王仲德に、加領兗州刺史。淮南太守の段宏を、為青州刺史。
己未、大赦天下。孤老、六疾不能自存者、人賜穀五斛。
後將軍、豫州刺史で長沙王の劉義欣を、進號鎮軍將軍。
夏四月戊戌、青州刺史の段宏に、加冀州刺史。封陽縣侯の蕭思話を、為梁、南秦二州刺史。
五月、林邑王遣使獻方物。
六月乙亥、以前青州刺史の韋郎為廣州刺史。闍婆州訶羅單國遣使獻方物。
秋七月戊戌、曲赦益、梁、秦三州。于益州立宋甯、宋興二郡。
八月丁醜、於青州立太原郡。辛巳、護軍將軍の到彥之が卒した。
冬十一月、氐の楊難當が、寇漢川。 丁未、梁州刺史の甄法は、護棄城走、難當據有梁州。

楊難當は、今まで味方だったじゃないか。ひどいなあ。梁州がなくなった。。


十一(434)年春正月、亡命した馬大玄の群黨數百人が、寇秦、梁、州郡討平之。
二月癸酉、以交址太守の李耽之を、為交州刺史。
夏四月、梁、秦二州刺史の蕭思話は、破氐楊難當、梁州平。

梁州は戻った。ここで活躍してる蕭氏って、南斉を立てる一族かなあ。

五月丁卯、曲赦梁、南秦二州劍閣北。戊寅、以大沮渠茂虔を、為征西大將軍、涼州刺史。
是月、京邑大水。六月丁未、省魏郡。是歲、林邑國、扶南國、訶羅單國遣使獻方物。

東晋の皇后の死

十二(435)年春正月辛酉、大赦天下。辛未、車駕親祠南郊。癸酉、封黄龍國主の馮弘を、為燕主。

黄龍国ってなんだ?曹魏の年号みたいな名前だが。燕に封じたから、北魏の北東にある国かな。

夏四月乙酉、尚書僕射の殷景仁に、加中護軍。丙辰、詔に曰く、
「周宗以寧、實由多士;漢室之隆、亦資得人。朕寐寤樂賢、為日已久、而俊哲難階、明揚莫效。用令遺才在野、管庫虛朝、永懷前載、慚德深矣。夫舉爾所知、宣尼之篤訓、貢士任官、先代之成准。便可宣敕內外、各有薦舉。當依方銓引、以觀厥用。」

周や漢が、安寧で隆盛したのは、人材を重んじたからだ。わが宋も、人材を大切にするよ!と。また常識的な布告だが、六朝では久しぶりなのか?

是夜、京郡地震。
六月、丹陽、淮南、吳興、義興大水、京邑乘船。己酉、以徐豫南兗三州、會稽宣城二郡に、米數百萬斛を、賜五郡遭水民。是月、斷酒。師子國遣使獻方物。
秋七月乙酉、闍婆娑達國、扶南國並遣使獻方物。
八月壬申、於益州立南晉壽、南新巳、北巴西三郡。乙亥、原遭水郡諸逋負。
九月、蜀郡賊の張尋が為寇。
冬十一月、以右軍行參軍の苟道覆を、為交州刺史。

十三(436)年春正月癸醜、劉義隆は有疾、不朝會。
三月己未、司空、江州刺史の檀道濟が、有罪伏誅。

何があったんだ?平和な文治の世の中なのに。

庚申、大赦天下。
以中軍將軍で南譙王の劉義宣を、為鎮南將軍、江州刺史。
夏五月戊辰、鎮北將軍、徐兗二州刺史の王仲德を、進號鎮北大將軍。庚辰、以征北司馬の王方俳を、為兗州刺史。
六月、高麗國、武都王が、遣使獻方物。
秋七月己未、零陵王の太妃が薨じた。追崇為晉皇后、葬以晉禮。

東晋の最後の皇帝、恭帝の皇后です。彼女が実家の兄たちに連れ出されている隙に、恭帝は殺されてしまった。
いちおう諡号を与えようと思ったらしいが、今さら貴ぶ気はないし、貶めるほどの敵意もない。だから「晋皇后」なんて、何の捻りもない諡号になった。「むしろ一周回ってセンスが良い」のかなあ。

八月庚寅、尚書僕射、中護軍の殷景仁を、改為護軍將軍。九月癸醜、立第二皇子の劉浚を、為始興王。第三皇子の劉諱を、為武陵王。

また名前を犯してしまったらしい。面倒くさい。
気まぐれにふざけて、ぼくも会社の直属の上司の名前を、伏字にしてみるか。「之」が入っているから、東晋以降の歴史を書こうとしたら、伏字だらけで、ワケが分からなくなること、必至である(笑)


十四(437)年春正月辛卯、車駕親祠南郊、大赦天下。文武賜位一等。孤老、六疾不能自存者、人賜穀五斛。

バラまき体質だが、歴史的な劉義隆の時代の評価は、「最晩年以外は、戦乱が少なくて、蓄財された」である。いま読んでる本紀の見かけでは、けっこう国力が貧窮しているように見えるが、実は儲かってる?ケチな人ほど蓄財しているという、パラドックス。

二月壬子、以步兵校尉の劉道真を、為梁、南秦二州刺史。
夏四月丁未、以輔國將軍の周籍之を、為益州刺史。
秋八月戊午、以尚書金部郎中の徐森之を、為交州刺史。
冬十二月辛酉、停賀雪。河南國、河西王、訶羅單國並遣使獻方物。