表紙 > 漢文和訳 > 『宋書』本紀第三「文帝紀」をバラす

7)皇帝暗殺、儒教のリセット

かろうじて北魏を退けた。
劉義隆の復興の腕前が見たいものですが、、

北魏への北伐

二十九(452)年春正月甲午、詔して曰わく、
「經寇六州、居業未能、仍值災澇、饑困薦臻。可速符諸鎮、優量救恤。今農事行興、務盡地利。若須田種、隨宜給之。」

北魏に6州を攻められた。復興を命じている。

二月庚申、北魏の君主である拓跋燾が死んだ。
庚午、立第十二皇子の劉休仁を、為建安王。
夏四月戊午、訶羅單國遣使獻方物。
以驃騎參軍の張永を、為冀州刺史。
五月甲午、罷湘州並荊州。以始興、臨賀、始安三郡屬廣州。
丙申、詔して曰く、
「惡稔身滅、戎醜常數、虐虜窮凶、著於自昔。未勞資斧、已伏天誅、子孫相殘、親黨離貳、關、洛偽帥、並懷內款、河朔遺民、注誠請效。拯溺蕩穢、今其會也。可符驃騎、司空二府、各部分所統、東西應接。歸義建績者、隨勞酬獎。」

北魏の君主は、天誅を受けて死んだ。だが、子孫がまだ、関中や洛陽を占領している。流れてきた漢族を保護せよ、と。

是月、京邑雨水。六月己酉、遣部司巡行、賜樵米、給船。
撫軍將軍の蕭思話は、率眾北伐。

攻められたら、攻め返す。敵は撤退して国力を消費した。まして君主が交代したばかりである。いちおう突いて、反応を確かめたくなる。

以征北從事中郎の劉瑀為益州刺史。
秋七月壬辰、汝陰王の劉渾を、改封武昌王。淮陽王の劉諱を、改封湘東王。
丁酉、省大司農、太子僕、廷尉監官。
八月丁卯、蕭思話攻確磝、不拔、退還。

あっけない北伐の失敗である。

九月丁亥、以平西將軍で吐谷渾の拾寅を、為安西將軍、秦河二州刺史。己醜、撫軍將軍、徐兗二州刺史の蕭思話に、加冀州刺史、兗州如故。
冬十月癸亥、司州刺史の魯爽攻虎牢不拔、退還。

またしても北伐の失敗である。

十一月壬寅、揚州刺史で廬陵王の劉紹が薨じた。
十二月辛未、以驃騎將軍、南兗州刺史で江夏王の劉義恭を、為大將軍、南徐州刺史、錄尚書事如故。

皇太子による暗殺

三十(453)年春正月戊寅、以司空、荊州刺史で南譙王の劉義宣を為司徒、中軍將軍、揚州刺史。以南兗州を、南徐州に合わせた。
庚辰、以領軍將軍劉遵考を、為平西將軍、豫州刺史。
壬午、以征北將軍、南徐州刺史で始興王の劉浚を、為衛將軍、荊州刺史。戊子、江州刺史で武陵王の劉諱は、統眾軍伐西陽蠻。

『宋書』が成立した時代の、梁の皇帝の名を侵したのですね。誰なんだ(笑)

癸巳、以豫州刺史で南平王の劉鑠を、為撫軍將軍、領軍將軍。青、徐州饑。
二月壬子、遣運部賑恤。甲子、劉義隆は、含章殿で崩じた。47歳だった。諡曰景皇帝、廟曰中宗。
三月癸巳、葬長寧陵。世祖踐阼、追改諡及廟號。

劉義隆は、皇太子に殺されたはずだったが・・・詳しく書いてないですね。
中宗景皇帝だったけど、太祖文皇帝になった。別に変えなくてもいいじゃん。何コダワリ?理由が分かったら、面白そうだけど。


史臣曰:太祖幼年特秀、顧無保傅之嚴、而天授和敏之姿、自稟君人之德。及正位南面、歴年長久、綱維備舉、條禁明密、罰有恆科、爵無濫品。ゆえに能く内清外晏、四海謐如たり。
昔漢氏東京常稱建武、永平故事、自茲厥後、亦每以元嘉為言、斯固盛矣!

後漢の光武帝のときに並ぶ。「元嘉の治」は、歴史用語だ。

授將遣帥、乖分閫之命、才謝光武、而遙制兵略、至於攻日戰時、莫不仰聽成旨。雖覆師喪旅、將非韓、白、而延寇蹙境、抑此之由。
及至言漏衾衽、難結商豎、雖禍生非慮、蓋亦有以而然也。嗚呼哀哉!

文帝紀をバラし終えて

宋はただの軍人政権で、殺るや殺られるか、それだけのパワーの論理だけの組織だった。劉裕が、そういう勝ち方をしたんだから、当たり前である。だが劉義隆は、後漢を模範にして、漢族の国家としての体裁を整えた。
もっとも「後漢が模範」とは、どこにも直接は書いてない。ただ、1回だけ章帝を意識した詔書が出たこと、儒教を重んじて国学を立てたこと、恤民を命じた詔書が多いこと、「史臣曰」の指摘から、ぼくが勝手に言っているだけです。

しかし劉義隆の努力は虚しかった。
北魏から外圧を受けると、たちまち国は揺らいだ。皇太子に背かれた。親殺しは、儒教最大のタブーだ。それを犯された。後漢化は失敗だ。
文人皇帝の劉義隆は、戦場で北魏を追い返したのだから、戦果だけなら赤壁の勝利に等しい。だが劉義隆の宋は、北魏からのインパクトを、吸収しきれなかった。敗者になった。
ちょっと比べます。
孫呉のときは、周瑜を中心にして、団結した。『演義』で諸葛亮に論破された人たちが、孫権の首級を手土産にして、曹操に降ってもおかしくなかった。だが、仮置きとしても君主に違いないから、孫権を討てなかった。呉郡の名族たちは、全国レベルの名声を持った周瑜に従った。周瑜は、三公の周異の家柄です。秩序の勝利です。
孫権の弟も、曹操に内通した。彼らにも、孫権を殺すという選択肢があった。だが、身内殺しには躊躇したのでしょう。儒教のタブーを犯して寝返っても、いい死に方はできないと、後漢の人なら自制できるんだ。
孫呉は、赤壁以降も栄えた。
宋にも、後漢末の孫呉なみの儒教秩序があれば、完璧な勝利を得ることができたはず。だが、皇族である劉氏が、闘争本能を抑え損ねた。劉義隆は突然変異だ。他の劉氏は、出鎮して軍を持った武人である。30年弱の劉義隆による儒教政策では、感化しきれなかった。

劉義隆を殺した皇太子は、さらに兄弟に殺されます。劉裕の時代に逆戻りです。皇族が露骨に殺しあう様子は、儒教が採用されていなかった、前漢の前期に近い。
前に『宋書』で劉裕の本紀を読んだとき、劉裕は儒教の夢を覚ました人だと書いた。盗賊・劉邦は、戦争だけで勝ち抜いた人だ。儒教に美化されたが、力づくだけの人だ。
劉裕は漢族を、前漢前期に逆行させた。劉義隆は、父に反して儒教国家を目指した。失敗した。劉義隆がアンチテーゼを投げかけてくれたおかげで、劉裕の集団の行動基準が、儒教と無関係であると、より明らかになりました。
おしまい。090913