表紙 > 漢文和訳 > 『宋書』本紀第三「文帝紀」をバラす

6)宋は北魏に滅ぼされる?

文帝・劉義隆の善政は、あと2年で台無しになります。

宋の建国を懐古する

二十六(449)年春正月辛巳、車駕親祠南郊。
二月己亥、車駕は、陸道幸丹徒、謁京陵。
三月丁巳、詔して曰わく、
「朕違北京、二十餘載、雖雲密邇、瞻塗莫從。今因四表無塵、時和歲稔、複獲拜奉舊塋、展罔極之思、饗宴故老、申追遠之懷。固以義兼於桑梓、情加於過沛;永言慷慨、感慰實深。宜聿宣仁惠、覃被率土。其大赦天下、複丹徒縣僑舊今歲租布之半。行所經縣、蠲田租之半。二千石官長並勤勞王務、宜有沾錫。登城三戰及大將戰亡墜沒之家、老病單弱者、普加贍恤。遣使巡行百姓、問所疾苦。孤老、鰥寡、六疾不能自存者、人賜穀五斛。」

20年以上の自分の治世を振り返った。軍事行動はやまず、民衆の生活が充分に安定していないと認め、賑恤した。名君である。

人の命じて、東晋で司空だった忠肅公の何無忌の墓を祭らせた。

何無忌は、北府の将軍である。初代・劉裕の戦友だ。

乙丑、申南北沛下邳三郡複。ふたたび詔して曰く、
「京口肇祥自古、著符近代、衿帶江山、表裏華甸、經塗四達、利盡淮、海、城邑高明、土風淳壹、苞總形勝、實唯名都。故能光宅靈心、克昌帝業。頃年嶽牧遷回、軍民徙散、廛裏廬宇、不逮往日。皇基舊鄉、地兼蕃重、宜令殷阜、式崇形望。可募諸州樂移者數千家、給以田宅、並蠲複。」

自分が生まれ育ち、宋の建国の拠点となった、京口を視察している。劉義隆は、翌年に北魏との大決戦があることを、予感してるのかな。治世の集大成を見返して、自らを鼓舞しているようだ。

五月丙寅、詔して曰く、
「吾生於此城。及盧循肆亂、害流茲境。先帝以桑梓根本、實同休戚、複以蒙稚、猥同艱難、情義繾綣、夷險兼備、舊物遺蹤、猶存心目。歲月不居、逝逾三紀、時人故老、與運零落。眷惟既往、倍深感歎。可搜訪于時士庶文武今尚存者、具以名聞。人身已亡而子孫見在、優量賜賚之。」

劉裕のとき、京口の人は味方してくれた。当時の人はすでに老人なので、生き残った人や子孫に、褒美を与えた。劉義隆は、確実に国難を感じ取っている。そのための北行きだ。
正念場を迎えて、父祖の功績を確認するのは、後漢の章帝に似ている。儒教の精神と言うと美しいが、要はファザコンである。

車駕水路發丹徒、壬午、至京師。丙戌、婆皇國、壬辰、婆達國、並遣使獻方物。
秋七月辛未、以江州刺史で廬陵王の劉紹を、為南徐州刺史。廣陵王の劉誕を、為雍州刺史。
八月己酉、以中護軍で建平王の劉宏を、為江州刺史。癸醜、以南豐王の劉朗を、為湘州刺史。
冬十月、廣陵王の劉誕を、改封隨郡王。甲辰、以中軍將軍、揚州刺史で始興王の劉浚を、為征北將軍、開府儀同三司、南徐兗二州刺史。南徐州刺史で廬陵王の劉紹を、為揚州刺史。

宋に滅亡の緊張感

二十七(450)年春正月辛未、制交、寧二州假板郡縣、俸祿聽依台除。辛卯、百濟國遣使獻方物。
二月辛醜、右將軍、豫州刺史で南平王の劉鑠を、進號平西將軍。辛巳、索虜(北魏)が、寇汝南諸郡、陳南頓二郡

北魏による南征が、ついに始まってしまった!

太守の鄭琨と、汝陽潁川二郡太守の郭道隱は、委守走。索虜攻懸瓠城、行汝南郡事陳憲拒之。以軍興減百官俸三分之一。
三月乙丑、淮南太守の諸葛闡は、求減俸祿同內百官、於是州及郡縣丞尉並悉同減。

全ての役人の俸給を70%にしてまで、戦費をひねり出した。

戊寅、罷國子學。

儒教の学校を停止してまで、臨戦した。

乙酉、以新除吏部尚書の蕭思話を、為護軍將軍。
夏四月壬子、安北將軍、徐兗二州刺史で武陵王の劉贊は、鎮軍將軍に降格された。

降格人事は珍しい。北魏の侵入を許したからだろうね。

六月丁酉、侍中の蕭斌を、為青、冀二州刺史。
秋七月庚午、甯朔將軍の王玄謨に北伐させた。太尉で江夏王の劉義恭は、出次彭城、總統諸軍。乙亥、索虜(北魏)の確磝戍委城走。
冬閏月癸亥、王玄謨は、攻滑台、不克、為虜所敗、退還確磝。
辛未、雍州刺史で隨王の劉誕は、遣軍攻弘農城、克之。丙戌、又克關城。
十一月戊子、索虜(北魏)は、陷鄒山、魯、陽平二郡太守の崔邪利は沒した。甲午、隨王の劉誕は、所遣軍又攻陝城、克之。

劉誕は、弘農城と陝城で勝った。がんばれ!

癸卯、左軍將軍の劉康祖は、于壽陽尉武戍與虜戰敗見殺。丁未、大赦天下。
十二月戊午、內外は纂嚴とした。乙丑、冗從僕射の胡崇之と、、太子積弩將軍の臧澄之と、建威將軍の毛熙祚は、盱眙で北魏と戦って破れ、みな殺された。庚午、虜偽主率大眾至瓜步。壬午、内外は戒嚴とした。

纂嚴、戒嚴と表現されています。宋が滅亡する危機。ここで滅びたら、南北朝時代は出現せずに、北魏が統一王朝になって終わりだ。勢いがある。可能性は充分である。

二十八(451)年春正月丙戌朔、寇逼されているので、不朝會。丁亥、索虜自瓜步退走。丁酉、攻圍盱眙城。
是月、甯朔將軍の王玄謨は、自確磝退還曆下。
二月丙辰、索虜自盱眙奔走。癸酉、詔して曰く、
「玁狁孔熾、難及數州、眷言念之、寤寐興悼。凶羯痍挫、迸跡遠奔、凋傷之民、宜時振理。凡遭寇賊郡縣、令還複居業、封屍掩骼、賑贍饑流。東作方始、務盡勸課。貸給之宜、事從優厚。其流寓江、淮者、並聽即屬、並蠲複稅調。」

盱眙が助かり、辛うじて危機が去ったところで、劉義隆の詔です。戦争でダメージを受けたから、復興しなさいという命令だ。もしこのとき劉義隆がいなかったら、宋は滅びていたなあ。
後漢が完成させた「儒教国家の体制」は、国を永らえさせるのに、とても有効だ。万民を憐れんで、憐れんで、憐れんで、国力の面倒を見る。支配の正当性が武力ではないから、武力だけでは滅びない。もし宋の君主が、道徳を持たずに殺伐としていれば、持ちこたえられなかった。

甲戌、太尉、領司徒で江夏王の劉義恭を、降為驃騎將軍、開府儀同三司。辛巳、鎮軍將軍、徐兗二州刺史で武陵王の劉諱を、降號北中郎將。壬午、車駕幸瓜步、是日解嚴。

皇族の将軍の降格と、戒厳令の解除。ここからは戦後だ。

三月乙酉、車駕還宮。壬辰、征北將軍で始興王の劉浚を解南兗州。庚子、以輔國將軍の臧質を、為雍州刺史。戊申、徐州刺史で武陵王の劉諱を、為南兗州刺史。甲寅、護軍將軍の蕭思話を、為撫軍將軍、徐兗二州刺史。
夏四月癸酉、婆達國遣使獻方物。
索虜(北魏)の偽甯南將軍の魯爽と、中書郎魯秀が歸順した。戊寅、魯爽を為司州刺史。
五月乙酉、亡命した司馬順則は、自號齊王、梁の鄒城に據った。

司馬姓の人が、まだ残っていた。東晋とは無関係のようだが。

丁巳、婆皇國、戊戌、河南王、並遣使獻方物。
己巳、驃騎將軍で江夏王の劉義恭に、領南兗州刺史。戊申、以尚書左僕射の何尚之を、為尚書令。太子詹事の徐湛之を、為尚書僕射、護軍將軍。壬子、以後將軍で隨王の劉誕を、為安南將軍、廣州刺史。
六月壬戌、以北中郎將で武陵王の劉諱を、為江州刺史、以振武將軍。秦郡太守の劉興祖を、為青、冀二州刺史。
秋七月甲辰、安東將軍の倭王倭濟は、進號安東大將軍。

北魏からの当面の危機が去ったので、倭の朝貢を受けられたのかな。

八月癸亥、梁鄒平、司馬順則を斬った。
冬十月癸亥、高麗國遣使獻方物。
十一月壬寅、曲赦二兗、徐、豫、青、冀六州。
是冬、彭城の流民を、瓜步に徙した。淮西流民于姑孰、合萬許家。

北魏に受けたダメージにより、故郷を奪いました。