表紙 > 読書録 > 川村康之『クラウゼヴィッツの戦争論』と三国志

05) 歴史の使い方と戦争論

『戦争論』第2編は、人間の精神的要素を論じたという点で、画期的なのだそうです。見ていきます。

戦争の区分

戦争は2つに分けられる。
 1.闘争の遂行
 2.闘争の準備
公儀の戦争術とは、2.についても言及したものだ。闘争の準備とは、武器の研究と製造、兵士の徴募と訓練など、戦闘力を創造する活動だ。経済、産業、科学技術、教育などが含まれる。

シミュレーションゲームで、時間をかけてやらされる「民政」とかが、これに当たる。戦闘シーンに特化した『真・三國無双』だって、アイテムの付け替えやレベル上げをやらされる。まさに闘争の準備である。


戦闘力を使用する分野も2つに分けられる。
 1.戦略
 2.戦術
戦略とは、戦争の目的を達成するために、どのように戦闘を行なうか考えること。戦術とは、戦闘でどのように戦闘力を使用するか。

戦略を立てられるタイプの軍師と、戦術を立てられるタイプの軍師。この区分は、ファンの間では有名でしょう。
今日は、戦略を語ったほうが高級な人物だと見なされる風潮がある気がする。どっちも大切だ。混同や逆転は戒められるべきだが。
「三国志のファンです」と言うと、戦略の概念をよく理解していると勘違いされる。皆さんもそうではありませんか (笑)?

戦争を理論家する困難

戦争は、複雑な現象だ。人間の精神的な部分との関わりもある。

複雑さを言い訳に理論化の作業を辞めたら、文章家として失格だ。「みんな違って、みんないい」では、話が先に進まないのだ。異なる事象をイコールで結んだり、括ったり、比べてみたりしないと。
クラウゼヴィッツも、この点は心得ていらっしゃるようで。

理論化は難しいが、とりわけ3つの要素が難しい。
 1.精神的な力(敵対感情や勇気)
 2.相互作用(敵と味方の応酬、裏のかきあい)
 3.情報の不確実さ
以上を乗り越えるには、2つの方策がある。
 1.地位による場合分け(下級兵士の精神等を無視)
 2.理論は実務マニュアルではないと割り切る

2.は、ぼくの三国ファンとしての態度と共通です。べつに『三国志』を熟読したって、天下が取れるとは思っていない。取りたくもない。ただ叡智が蓄積された体系として好きなだけだ。
「もしも現実生活で天下を取れないなら『三国志』を読む自体がムダである」とも言えまい。まんま真似してどうするんだ。

戦争理論の役割

 1.戦争を構成する対象を区分する
 2.戦略と戦術を区別する
 3.戦闘の特性を明らかにする
 4.戦闘がもたらす効果を示す
 5.戦争における目的の本質を定める

上の5つと対立するのがマニュアル主義である。マニュアル主義とは、行動を機械的に実行できるように定めること。小規模部隊では有効である。なぜなら、指揮官の能力には個人差があるからだ。個人差を埋めるには、マニュアル化してしまえば良い。画一的に訓練すれば、戦争における摩擦を受けにくくなる。
だが戦争計画を立てる指揮官には、役に立たない。1つとして同じ戦争は起きないからだ。自分の頭で考えるべきである。

社会科学は、経験科学である。自然科学はモノを対象として、実験室で結果を反復させることが可能だ。しかし社会科学は、人間の行為を堆積させることでしか、対象に近づけない。つまり実験はできない。

この辺りは、歴史の読み方についての本質論です。個人で違うし、土地柄で違うし、時代で違う。
思うに中国の歴史書の類いは、戦術をそのままパクるには、あまりに記述が簡潔すぎると思うのです。パクりたくてもパクれない。書き手のニーズや関心が戦争行為そのものにないから、詳しく書いてない。
「AがBを討ち、斬った」
という調子だ。クラウゼヴィッツが戒めた、過去の戦勝のコピーは、やりたくても出来なかったんだろうね。

戦争理論は、判断力の強化を促すのが目的である。歴史的事実を自分の都合よく利用する「歴史の濫用」をしてはいけない。

戦争に限っていえば、前例をマネるだけではダメだろう。だが中国史では、確信犯として歴史を濫用する。これが面白いところだ。
劉備が漢中王に即位したことが、その最たるものです。


以上で第2編は終わり。
具体的な戦争の指摘というよりは、入れ物の話でした。
次は第3編「戦略を考察する」です。