023年秋、公孫述と隗囂が独立
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
023年夏、劉秀が、潁川を扇動する
劉秀復徇穎川,攻父城不下,屯兵巾車鄉。穎川郡掾馮異監五縣,為漢兵所獲。異 曰:「異有老母在父城,願歸,據五城以效功報德!」秀許之。異歸,謂父城長苗萌曰: 「諸將多暴橫,獨劉將軍所到不虜略,觀其言語舉止,非庸人也。」遂與萌率五縣以降。
王莽は、漢兵が「王莽が、前漢の平帝を鴆殺した(006年)」と言うと聞いた。公卿を王路堂にあつめ、泣いて弁明した。
劉秀は穎川にゆく。父城を攻めたが、降せず巾車鄉に兵をおく。穎川郡掾の馮異は、5縣を監す。漢兵は、馮異を獲えた。馮異は言った。「老母が父城にいる。もし帰してくれたら、5城を漢兵に寝返らせる」と。劉秀は許した。馮異は、父城長の苗萌に言った。「劉秀だけは、虜略しない。劉秀の言語や舉止は、庸人ではない」と。苗萌は、5県をひきい、漢兵に降る。
荊州北部から、潁川に攻めあがり、洛陽を目指す。このルートは王道!
023年夏、劉秀の兄・劉縯が、更始帝に殺される
劉縯と劉秀の兄弟は、威名が益盛した。ひそかに新市と平林の諸將は、更始帝に、劉縯の兄弟を殺せと勧めた。更始帝は、諸將をあつめた。繡衣御史の申徒建は、玉玦でを献じて、更始帝に決断を促した。更始帝は、劉縯を殺さず。劉縯の舅・樊宏は劉縯に、劉縯が暗殺されかけたと言った。劉縯は、危機に思わず。はじめ李軼は、劉縯の兄弟と仲がよい。のちに李軼は、新貴(朱鮪)にへつらう。劉秀は、劉縯に戒めた。「李軼を信じるな」と。劉縯は従わず。
劉縯の部將・劉稷は、更始帝が立つと聞き、怒った。「起兵して大事を図ったのは、劉縯の兄弟だ。更始帝とは何者か」と。更始帝は、劉稷を抗威將軍としたが、劉稷は受けず。更始帝は劉稷を捕え、殺したい。更始帝と劉縯は、劉稷の処分で、固争した。李軼、硃鮪は、更始帝に勧めて、劉縯を殺した。更始帝は、族兄の光祿勳する劉賜を、劉縯の代わりに大司徒とした。
劉秀は兄の死を聞いた。父城から宛城にきて、更始帝に謝した。司徒(劉縯)の官屬は、劉秀を弔問した。劉秀は私語せず、引きさがる。劉秀は、昆陽の功績を言わない。劉秀は、劉縯の服喪をせず、平常どおり飲食・言笑した。更始帝は、劉秀を見て慚じ、劉秀を破虜大將軍とし、武信侯に封じた。
023年秋、王莽の骨肉と旧臣がそむく
道士の西門君惠は、莽新の衛將軍・王涉に言った。「讖文は、劉氏が復興するという。國師公の姓名が、讖文に当てはまる」と。王涉は、國師公の劉秀と、大司馬の董忠と、司中大贅の孫キュウは、莽新の兵をひきはがし、漢兵に降りたい。
胡三省はいう。王渉は、王莽の一族だが、漢兵に降って宗族を全うしたい。
023年秋7月、孫キュウは、漢兵に降る謀略を、王莽に告げた。王莽は、董忠を詰責して、斬馬剣で殺した。董忠の宗族を、残酷に殺した。劉秀と王涉は、自殺した。王莽は、骨肉や舊臣が、内から莽新を潰すのを悪んだ。
王莽は、内外で敗れて、左右を信じられず。とおい郡國に、意識を払えない。王邑を長安にもどし、大司馬とした。大長秋の張邯を、大司徒とした。崔發を大司空とした。司中壽の容苗ソを、國師とした。王莽は、憂懣して食べられない。ただ酒を飲み、鰒魚を啖べた。
ぼくは思う。王莽の健康を損ねさせたのは、光武帝ではない。王莽は自滅した。
王莽は、軍書を読んでは倦み、肘おきに拠りかかり、ベッドで寝れない。
023年秋、涼州で隗囂、益州で公孫述が独立
成紀(天水)の隗崔や隗義と、上邽(隴西)の楊廣と、冀県(天水)の周宗は、漢兵に応じて、同時に起兵下。平襄を攻め、莽新の鎮戎大尹の李育を殺した。隗崔の兄の子は、隗囂である。隗囂は、經書を好む。隗崔らは、隗囂を上將軍に推した。隗崔は白虎將軍、隗義は左將軍となる。
隗囂は、平陵(昭帝陵のある県)の方望を、軍師にまねく。
方望は隗囂に、「前漢の高廟を邑東に立てよ」と言う。7月己巳、隗囂は、高祖、太宗、世宗を祀り、劉氏を興輔するとちかう。莽新の雍州牧の陳慶を殺し、安定大尹の王向を殺した。隴西、武都、金城、武威、張掖、酒泉、敦煌は、みな莽新から隗囂に降った。
はじめ、茂陵の公孫述は、清水(天水)の県長となる。公孫述は、導江(蜀郡)卒正となり、臨邛(蜀郡)を治める。
漢兵が起つと、南陽の宗成、商県(弘農)の王岑は、漢中で応じた。莽新の庸部牧の宋遵を殺した。公孫述は、宗成を迎えた。宗成らは、成都で虜掠・暴橫した。公孫述は、群中の豪桀に言った。「天下は同じく新室に苦しむ。劉氏の久しきを思う。漢兵だと聞き、宗成を迎えた。だが宗成は、寇賊だ。義兵でない」と。
公孫述は、漢の使者をしたてた。公孫述が輔漢將軍、蜀郡太守となり、益州牧の印綬を兼ねた。宗成を殺し、軍をあわせた。(つづく)