024年春、邯鄲で王郎が自立
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
024年春、信都と和戎に匿われ、兵を得る
劉秀は、下博(信都)の城西にきた。惶惑して、行く先なし。白衣の老父が、劉秀に言った。「努力せよ。信都郡は、長安のために城を守る。ここから80里だ」と。信都太守する南陽の任光と、和戎太守する信都の邳肜だけ、王郎に従わず。任光は城をひとりで守る。劉秀が来たと聞き、万歳した。
邳肜も、和戎から、劉秀と会いにきた。多くの議者は、信都の兵をつれ、長安にもどろうと言う。邳肜は反対した。「長安に帰るより、王郎を撃つほうが先だ」と。劉秀は、長安にもどるのを辞めた。
信都と和戎の2郡の兵は、弱い。劉秀は、城頭の子路と力子都の軍に入りたい。
任光が反対した。郡県から兵をあつめ、任光は左大將軍となり、信都都尉の李忠は右大將軍となり、邳肜は後大將軍となり、和戎太守をつづける。信都令の萬修は、偏將軍となる。みな列侯に封じる。南陽の宗廣をのこし、領信都太守事とする。
任光、李忠、萬修が兵をひきい、邳肜の將兵が先鋒だ。任光は檄文を作る。「大司馬の劉公(劉秀)が、城頭の子路と力子都をひきい、王郎を撃つ」と。劉秀は、鉅鹿を降してゆく。
城頭の子路は、東平の爰曾だ。河濟のあいだを寇掠した。20余万だ。力子都は、6、7千だ。だから劉秀は、この兵力を頼った。
昌城の劉植は、昌城にいる。劉植は、劉秀を迎えた。劉植を、驍騎將軍とする。耿純は、宗族・賓客2千餘人をひきいて、劉秀につく。老病する人は、板で運ぶ。劉秀は、育県(冀州)で、耿純を迎えた。耿純を、前将軍とする。
劉秀は、下曲陽を降す。数万となる。北へ、中山を撃つ。耿純は、宗家が異心を抱かぬように、從弟の耿キに廬舎を焼かせた。耿氏は、後戻りできず、劉秀に従う。
『後漢書』劉植伝を抄訳、光武帝に真定国を乗っ取らせたプロデューサー
『後漢書』耿純伝を抄訳、車1台で河北平定する光武帝を、支えた信者
ところで、故郷を焼かねば、劉秀につくことに迷いが出るほど、まだ弱い。
劉秀は、盧奴をぬく。邯鄲の王郎を撃つ兵をあつめる。郡縣は響應した。ときに真定王の劉楊は、10余万で王郎につく。劉植は、劉楊を説きおとす。劉秀は真定にいる。劉秀は、劉楊のめい・郭氏を夫人とした。
劉秀は、元氏(常山)、防子(常山)を降す。鄗(常山)で、王郎の部将・李惲を斬る。柏人(趙国)で、王郎の部将・李育を破る。李育は城にもどる。劉秀は、降せず。
024年春、漢中王の劉嘉がなびく
南鄭の延岑は、起兵にして漢中による。漢中王の劉嘉は、延岑を降す。校尉する南陽の賈復は、更始帝の政が亂れるので、劉嘉に説いた。「天下は定まらぬ。大王は、漢中を保つべきだ」と。
劉嘉は言った。「そのとおりだ。大司馬の劉秀は、河北にいる。劉秀は役立つ」と。
劉嘉は、賈復と、長史する南陽の陳俊に、劉秀への手紙を持たせた。賈復は、柏人で劉秀と会う。劉秀は、賈復を破虜將軍とし、陳俊を安集掾とした。
陣中で軍法を犯した人を、軍市令する穎川の祭遵が殺した。劉秀は、祭遵を捕えよと命じた。主簿の陳副が諌めた。「祭遵が正しい」と。祭遵を刺奸將軍にした。
劉秀は諸将に、祭遵の正しさをアピールした。
はじめ王莽は、鮑宣を殺した(003年)。上黨都尉の路平は、子の鮑永を殺したい。上党太守の苟諫は、路永を保護して生かした。更始帝は、路永を尚書僕射とし、行大將軍事させた。路永は、河東、并州の兵を安集した。路永は、偏裨をおく。路永は河東にきて、青犢を大破した。馮衍を立漢將軍とし、太原におく。上黨太守の田邑とともに、并州を守らせた。
【追記】T_S氏に、鮑永を、誤って「路永」としていたのを、ご指摘いただきました。
024年春、鄧禹が劉秀に、戦略をさずける
ある人が劉秀に言った。柏人を守るより、巨鹿を定めよと。劉秀は兵を東北に引き、廣阿(鉅鹿)をぬく。
劉秀は地図を広げ、地図を指差して、鄧禹に言った。「天下の郡國は、このとおり。いま始めて1郡を得ただけ。鄧禹は前に、私の考えでは天下取りできないと言った。どういうことか」と。鄧禹は答えた。「いま海內は殽亂し、人は赤子のように、明君を思慕する。德の薄厚がポイントだ。領地の大小がポイントではない」と。
薊中が乱れたとき、耿弇は劉秀とハグレた。耿弇は昌平に走り、父の耿況に「邯鄲を撃て」と説いた。ときに王郎は、漁陽と上谷に兵をまわす。多くが王郎に従う。上谷の功曹・寇恂と、門下掾の閔業は、耿況に言った。「邯鄲の王郎がつよい。劉縯の同母弟・劉秀は、賢士をとうとぶ。劉秀につこう」と。
耿況は言った。「王郎はつよい。防げない」と。寇恂は反論した。「上谷の兵は、1萬騎いる。私がゆき、漁陽と盟約をむすびます。王郎はこわくない」と。耿況は寇恂をゆかせ、彭寵と盟約した。それぞれ突騎2千匹を発し、歩兵1千で劉秀にあわさる。
鄧禹のいう「徳」が、寇恂を動かした。そう司馬光は言いたいのか。「徳」とでも説明しないと、分からないくらい、寇恂が劉秀に味方した理由が見えない。列伝から探ろう。