023年冬、劉秀が河北へ
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
023年10月、更始帝が洛陽に入り、使者を発す
更始將都洛陽,以劉秀行司隸校尉,使前整修宮府。秀乃致僚屬,作文移,從事司 察,一如舊章。時三輔吏士東迎更始,見諸將過,皆冠幘而服婦人衣,莫不笑之。及見 司隸僚屬,皆歡喜不自勝,老吏或垂涕曰:「不圖今日復見漢官威儀!」由是識者皆屬 心焉。
定國上公の王匡は、洛陽をぬく。莽新の太師の王匡、哀章を斬る。
023年冬10月、奮威大將軍の劉信は、汝南で劉望を殺す。嚴尤、陳茂を殺し、すべて郡県を降す。
潁川の許都にいる曹操は、安心できないなあ。官渡のとき、潁川をまたぎ、汝南に袁紹軍や黄巾が残っていても、不自然ではない。
更始帝は、洛陽を都にしたい。劉秀を行司隸校尉とし、さきに宮府を整修させた。劉秀は、僚屬をおき、文書をまわした。從事・司
察は、舊章と同じにした。
ぼくは思う。劉秀の本領は、口八丁の扇動だ。軍事がすんだ地域を、なだめて統治するのが上手い。だから更始帝は、劉秀を先に洛陽に入れた。
ときに三輔の吏士は、東に更始を迎えた。更始帝の諸将が、卑賤の冠幘や、婦人の衣服を着るので、みな笑った。司隸(劉秀)の僚屬を見て、みな歡喜した。老吏は垂涕して言った。「ふたたび今日、漢官の威儀を見られるとは思わなかった」と。
更始帝は、洛陽に都した。更始帝の使者が、郡國をめぐる。「先に更始帝に降れば、爵位を取りあげない」と。上谷太守する扶風の耿況は、使者をに印綬をわたした。使者は一泊し、上谷太守の印綬を返さない。功曹の寇恂は、兵をつれて印綬をもとめた。使者は返さない。「私は、天王の使者である。なぜ功曹の寇恂は、私を脅すか」と。寇恂は言った。「あなたを脅すのでない。あなたの行動は、更始帝への信頼を損ねる。更始帝は、郡国に号令できなくなる」と。使者は、印綬を返さず。
寇恂は印綬をうばい返し、寇恂にむすんだ。やむをえず使者は、寇恂を更始帝の上谷太守とした。
宛県の彭寵、吳漢は、漁陽に亡命した。鄉人の韓鴻は、更始帝の使者となり、北をまわる。彭寵を偏將軍とし、行漁陽太守とした。呉漢を安樂令とした。
更始帝が赤眉を降した。赤眉の樊崇らは、漢室が復興したと聞き、渠帥20餘人をつれて洛陽にきた。更始帝は、みな列侯とした。樊崇らは、更始帝から國邑をもらえない。更始帝から離れた。
023年冬、劉秀が河北へゆき、鄧禹が独立を勧める
更始欲令親近大將徇河北,大司徒賜言:「諸家子獨有文叔可用。」硃鮪等以為不 可,更始狐疑,賜深勸之。更始乃以劉秀行大司馬事,持節北渡河,鎮慰州郡。 以大司徒賜為丞相,令先入關修宗廟、宮室。
莽新の廬江連率(太守)する穎川の李憲は、廬江で淮南王を称した。
もと梁王・劉立の子は、劉永である。劉永は洛陽にきて、更始帝の梁王となる。劉永は、睢陽に都した。
更始帝は、親近な大將に、河北をめぐらせたい。大司徒の劉賜は言う。「南陽の諸家子のうち、劉秀だけが使える」と。硃鮪らは、劉秀を行かせたくない。更始帝は狐疑した。劉賜が勧めるので、劉秀に行大司馬事させ、持節して黄河を北渡させた。劉秀は、州郡を鎮慰する。
ぼくは、ちがうと思う。光武帝は、ろくに靡かない河北を、口八丁で平定に行ったのだ。軍事でなく、交渉のお仕事。赤壁の前夜、孫権に乗りこんだ諸葛亮にちかい。諸葛亮は、兵を持たない。光武帝も、おそらく兵がロクにいない。
大司徒の劉賜は丞相となり、先に関中に入り、宗廟や宮室を修繕した。
大司馬の劉秀は、河北にきた。通過した郡縣で、官吏を考察して、黜陟や能否を判定した。囚徒を調べ、王莽の苛政をのぞく。漢の官名にもどす。吏民は喜悅した。牛酒を持ち、劉秀を迎勞した。劉秀は、すべて受けず。
南陽の鄧禹は、杖策して劉秀を追い、鄴県にくる。劉秀は言った。「私は更始帝から、封拜する権限をもらった。鄧禹は遠くからきた。更始帝の官位がほしいか」と。鄧禹は「ちがう」と言った。劉秀は言った。「だったら、何しに来たか」と。鄧禹は言った。「劉秀の威德が四海に加わってほしい。私(鄧禹)は、ちょっと功績を得て、歴史に名を残したい」と。劉秀は笑って、語り合った。
Kay氏のサイト『光武帝と建武二十八宿伝』の鄧禹評伝では、光武帝が鄧禹に、「当時まだ22歳の親友を先生と呼び、わざわざ自分が出世したことを宣言して、仕えにきたのか聞いたのである。実にひねくれている」と解釈されてます。ちがうと思います。
鄧禹は、劉秀に説いた。「まだ山東は安んぜず。赤眉と青犢の屬は、萬を数える。更始帝は、平凡な才能で、みずから聽斷できない。更始帝を見切って、劉秀が高祖の業を立てよ」と。劉秀は大悅し、つねに鄧禹をそばにおく。ともに計議を定めた。劉秀が諸将を任じるたび、みな鄧禹の才能にふれた。
023年冬、劉林が王郎をかかげ、邯鄲で自立
劉秀は、兄の劉縯が死んでから、1人のときは酒肉を食べない。枕席で涕泣した。主簿の馮異は、叩頭して喪を終えよと言う。劉秀は「妄言するな」と、馮異に言い返す。
ぼくは思う。更始帝の手前、兄の死が悲しくない振りをしただけ。
馮異は、劉秀に説いた。「更始帝の政が亂れた。百姓は、依戴する君主がない。劉秀は、河北を任された。官屬を分けて、郡縣を徇行せよ」と。劉秀は納れた。騎都尉する宋子(鉅鹿)の耿純は、劉秀に邯鄲(趙国)で会った。劉秀の官屬・將兵に法度があり、ほかの将軍とちがう。寇恂は、劉秀についた。
もと趙繆王の子は、劉林である。劉林は劉秀に勧めた。「黄河を決壊させ、赤眉を沈めましょう」と。劉秀は、従わず。
ぼくは思う。劉林は、鬼畜だよ!でも、秩序を回復するために、真心からやっていること。いま劉秀が劉林を退けたせいで、劉秀にとって最初&最大の強敵・王郎が立つことになる。因果が分かりやすくてよいが、ホントウだろうか。
劉秀は劉林を、真定(真定国)に去らす。劉林は趙魏のあいだで、任俠として知られる。王莽のとき、長安に成帝の子・劉子輿を名のる人がいた。王莽は、劉子輿を殺した(010年)。邯鄲の卜者は、王郎である。王郎は、劉子輿を名のる。「王莽に殺された劉子輿は、偽者である」と。
劉林は王郎を信じた。劉林は、趙國の大豪・李育や張參らと、王郎を立てた。赤眉が黄河を渡ると聞き、劉林は宣言した。「赤眉は、劉子輿(王郎)を立てるために、河北へやってくる」と。百姓はおおく信じた。
023年12月、劉林は邯鄲に入り、もと趙王の王宮で、王郎を天子とした。將帥に幽州、冀州をめぐらせ、州郡に移檄した。趙國より北、遼東より西は、みな王郎に響應した。 (次年へつづく)