024年春、劉秀が王郎を斬る
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
023年春、漁陽と上谷の郡兵が、劉秀につく
安樂令の吳漢と、護軍の蓋延と、狐奴(漁陽)令の王梁も、彭寵に「劉秀に従え」と勧めた。だが官属が、みな王郎についたので、彭寵は漁陽の郡兵を動かせない。
呉漢は、城門の外亭で食事した。1人の儒者が来て言った。「邯鄲で尊號を名のる人は、じつは劉氏でない(王郎)」と。呉漢は喜び、劉秀の文書を偽作し、漁陽に檄をまわす。儒者を彭寵にあわせ、王郎の正体を教えた。たまたま寇恂がきた。彭寵は、步騎3千人を発した。吳漢を行長史とし、蓋延と王梁がひきいた。南へ薊城を攻め、王郎の大將・趙閎を殺した。
寇恂はもどる。上谷長史の景丹と、耿弇とは、南で漁陽の郡兵に合わさる。王郎の大將、九卿、校尉より以下を破り、斬首は3萬級。涿郡、中山、巨鹿、清河、河間らで、22県を平らげた。
景丹らは、廣阿にきた。廣阿の城中に、車騎がとても多い。景丹は「どこの兵か」と聞いた。「劉秀の兵です」と。諸将は喜び、廣阿の城下につく。
はじめ、漁陽と上谷の兵が来たとき、劉秀の兵は恐れた。みずから劉秀は、西城の樓に登り、どこの兵か確かめた。耿弇は城下から入り、状況を述べた。
劉秀は、すべて景丹らを召し入れ、笑った。「王郎は私を倒すため、漁陽と上谷の兵を発した。私も王郎をマネて、漁陽と上谷の兵を発すと言った。なぜか2郡の兵は、私のところに来てくれた」と。
【追記】goushu氏はいう。何意は「思いもよらない」 良は「まことに」で、「まさか本当に二郡の兵が私の爲に来てくれるとは」 ちょっと細かすぎる指摘だけど、本当に光武帝がびっくりしたというニュアンスをだす文法で書かれている。(引用了)
景丹、寇恂、耿弇、蓋延、吳漢、王梁は、劉秀の偏將軍となる。耿況、彭寵に大將軍を加えた。耿況、彭寵、景丹、蓋延を列侯とした。
呉漢の人となりは質厚で、作文も弁論もうまくない。だが沈勇で智略がある。しばしば鄧禹は、劉秀に呉漢を薦めた。劉秀は、じわじわ呉漢を親重するようになる。
更始帝は、尚書令の謝躬に6將軍をつけ、王郎を討つが、勝てず。劉秀は謝躬を合わせ、東へ鉅鹿をかこむ。1ヶ月餘かこんでも、鉅鹿は降らず。王郎は信都を攻めた。大姓の馬寵らは、開城して王郎の軍を迎えた。
更始帝は信都を攻めたが、勝てず。
劉秀は李忠をもどし、信都で行太守事させた。王郎は数万で、鉅鹿を救う。劉秀は南レン(鉅鹿)で、王郎に敗れた。景丹らの突騎が、王郎の援軍を破った。劉秀は言った。「私は、突騎は天下の精兵と聞いていた。いま突騎の戦いを見れば、言いようもなく楽しい」と。
024年夏、邯鄲の王郎が、王霸に斬られる
耿純は劉秀に言った。「鉅鹿は陥ちない。邯鄲の王郎を誅せば、鉅鹿と戦う必要がない」と。劉秀は、耿純に従う。
024年夏4月、將軍の鄧滿を鉅鹿におき、邯鄲にを破った。王郎は、諫大夫の杜威を送り、降伏を請う。杜威は、「王郎は、成帝の遺児だ」とほめた。劉秀は、ウソだと一蹴した。杜威は王郎に、萬戶侯をもとめた。劉秀は却下した。杜威は怒って去った。20余日、王郎をきつく攻めた。
024年5月甲辰、王郎の少傅・李立は、開門した。邯鄲をぬいた。王郎は夜に亡走し、王霸が王郎を斬った。劉秀は王郎の文書を焼いた。吏民が王郎と交際・謗毀した記録が消えた。
劉秀は、王郎の吏卒を再編成した。みな士は、大樹將軍(偏将軍)の馮異に属したい。馮異の人となりは、謙退・不伐だ。吏士に命じ、交戦しないよう、つねに後方に陣どる。論功するとき、馮異は樹の下に隠れた。だから軍中で、馮異は「大樹將軍」と呼ばれた。
【追記】goushu氏はいう。さすがに「交戦しないよう」と言っちゃうのはまずいと思うので、「非」は条件で読んで、「交戰受敵」の時以外は、「つねに後方に陣ど」らせたということじゃないかと思う。(引用了)
護軍する宛県の硃祜は、從容として劉秀に言う。「長安は政亂した。劉秀には、日角の相がある。これは天命だ」と。劉秀は言った。「刺奸は、硃祜を捕えよ」と。硃祜は、にどと劉秀の天命を言わない。
更始帝は、劉秀を蕭(沛郡)王とし、すべて兵を剥がす。更始帝は、劉秀と諸将を、長安に呼んだ。苗曾を幽州牧とし、韋順を上谷太守とし,蔡充を漁陽太守とし、北方を部させた。(つづく)