表紙 > 漢文和訳 > 『資治通鑑』を翻訳し、三国の人物が学んだ歴史を学ぶ

023年秋、王莽が死ぬ

『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。

023年8月、於匡と鄧曄が、関中を突破する

前鐘武侯劉望起兵汝南,嚴尤、陳茂往歸之;八月,望即帝位,以尤為大司馬,茂 為丞相。

さきの鐘武侯・劉望は、汝南で起兵した。

胡三省はいう。王子侯表を見ると。鐘武節侯の劉度は、長沙定王の孫だ。成帝の元延2年、侯の劉則がついだ。その後は、見えず。劉望は、劉則の子か。鐘武は、義陽の郡境にある。ぼくは思う。劉望は、班固が責めて、除いた?光武帝の敵だから。

嚴尤と陳茂は、劉望のもとに帰した。023年、劉望は帝位につく。厳尤は大司馬となり、陳茂は丞相となる。

王莽使太師王匡、國將哀章守洛陽。更始遣定國上公王匡攻洛陽,西屏大將軍申屠 建、丞相司直李松攻武關,三輔震動。析人鄧曄、於匡起兵南鄉以應漢,攻武關都尉硃 萌,萌降;進攻右隊大夫宋綱,殺之;西拔湖。莽愈憂,不知所出。崔發言:「古者國 有大災,則哭以厭之。宜告天以求救。」莽乃率群臣至南郊,陳其符命本末,仰天大哭, 氣盡,伏而叩頭。諸生、小民旦夕會哭,為設飧粥;甚悲哀者,除以為郎,郎至五千餘 人。

王莽は、太師の王匡と、國將の哀章に、洛陽を守らせる。更始帝が命じ、定國上公の王匡は、洛陽を攻める。西屏大將軍の申屠 建と、丞相司直の李松は、武關を攻める。三輔は震動した。
析県(南陽)の鄧曄と於匡は、南鄉で起兵して、漢兵に応じた。鄧曄は、武關都尉の硃 萌を攻め、硃萌をくだす。右隊(弘農)大夫の宋綱を殺す。西で湖県(弘農)をぬく。王莽はいよいよ憂う。崔發は言った。「古代、国に大災があれば、哭いて天に救いを求めた」と。王莽は、郡臣と南郊にゆき、天を仰天大哭,

胡三省によると『周礼』『春秋左氏伝』に基づくようだが、あまりに芸がない。こんなことして、漢兵に勝てるか!儒教国家のバカ!宗教的な裏づけは、現実の政治が整ったあと、追加するものだ。さきに宗教がくると、「精神論」「神頼み」でしかない。

諸生や小民は、泣きにこれば、飧粥がもらえた。ひどく悲哀すれば、郎になれた。郎になった人は、5千餘人。

莽拜將軍九人,皆以虎為號,將北軍精兵數萬人以東,內其妻子宮中以為質。時省 中黃金尚六十餘萬斤,它財物稱是,莽愈愛之,賜九虎士人四千錢;眾重怨,無鬥意。 九虎至華陰回谿,距隘自守。於匡、鄧曄擊之,六虎敗走;二虎詣闕歸死,莽使使責死 者安在,皆自殺;其四虎亡。三虎收散卒保渭口京師倉。鄧曄開武關迎漢兵。李松將三 千餘人至湖,與曄等共攻京師倉,未下。

王莽は、虎がつく将軍号を9人任じた。将軍の妻子を、人質とした。王莽が、九虎将軍に4千銭しか黄金を与えなかったから、兵は闘意をなくした。

【追記】T_S氏はいう。王莽は黄金財宝をたくさん持っていたが、ケチだったので九虎将軍の兵に、銭4000ずつしか下賜せず、みんな恨んで戦意がなかった、ということでしょう。(引用終了) ぼくの訳文を直しました。

九虎将軍は、華陰の回谿にきた。隘路で漢兵をふせぐ。南郷の於匡と鄧曄は、九虎将軍を突破した。

胡三省は、九虎将軍の名前を記す。逃げた4人は、名前が分からない。
ぼくは補う。関中を陥としたのは、光武帝でも更始帝でもない。赤眉でもない。

鄧曄は、武關を開いて漢兵を迎える。李松は3千をひき、湖県にくる。李松と鄧曄は、京師倉を攻めた。降せず。

鄧曄は、弘農掾王憲為校尉,將數百人北度渭,入 左馮翊界。李松遣偏將軍韓臣等徑西至新豐擊破莽波水將軍,追奔至長門宮。 王憲北至 頻陽,所過迎降。諸縣大姓名各起兵稱漢將,率眾隨憲。李松、鄧曄引軍至華陰,而長 安旁兵四會城下;又聞天水隗氏方到,皆爭欲先入城,貪立大功、鹵掠之利。莽赦城中 囚徒,皆授兵,殺豨,飲其血,與誓曰:「有不為新室者,社鬼記之!」使更始將軍史 諶將之。度渭橋,皆散走;諶空還。眾兵發掘莽妻、子、父、祖塚,燒其棺槨及九廟、 明堂、辟雍,火照城中。

鄧曄は、弘農掾の王憲を、校尉とした。王憲は、渭水を北渡し、左馮翊の境界に入る。李松が命じ、偏將軍の韓臣らは西へゆく。新豐で、莽新の波水將軍を破り、長門宮に到る。

胡三省はいう。竇融伝によれば、王莽は竇融を、波水将軍とした。波水は、長安の南だ。ぼくは補う。胡三省は断定しないが、このとき漢兵に敗れたのは、竇融なのか?
【追記】T_S氏はいう。おっしゃる通りでしょう。おそらく意図的な理由から、漢書や東観漢記では竇融の敗北を隠蔽されているのではないかと思います。後漢王朝の大物で皇太后の先祖。 趙翼か誰かが指摘してたような。 (引用終了)

王憲は北へゆき、頻陽に到る。諸縣の大姓は、漢の将軍を称して、起兵した。王憲が通ると、王憲に降る。李松と鄧曄は、華陰に到り、長安をかこむ。天水の隗氏がきて、争って長安に入城した。王莽は囚徒を赦し、新室の兵とした。莽新の更始將軍の史諶が、囚徒をひきいた。渭橋をわたり、みな逃げた。史諶は、兵を失ってもどる。王莽の妻・子・父・祖の塚をほり、棺槨を焼いた。九廟、明堂、辟雍を焼いた。

023年9月、王莽が斬られ、舌を食べる

九月,戊申朔,兵從宣平城門入。張邯逢兵見殺;王邑、王林、王巡、帶足惲等分 將兵距擊北闕下,會日暮,官府、邸第盡奔亡。己酉,城中少年硃弟、張魚等恐見鹵掠, 趨讙並和,燒作室門,斧敬法闥,呼曰:「反虜王莽,何不出降!」火及掖庭、承明, 黃皇室主所居。黃皇室主曰:「何面目以見漢家!」自投火中而死。

023年9月戊申ついたち、は宣平城門から長安に入る。張邯は、兵に逢って殺された。王邑、王林、王巡、タイ惲らは、北闕で漢兵をふせぐ。日が暮れ、官府、邸第は、すべて燃えた。
9月己酉、城中の少年・硃弟と張魚らは、鹵掠されるのを恐れ、作室門を焼いた。敬法闥を斧で壊した。「反虜の王莽よ、なぜ漢兵に降らないか」と呼ばわる。黃皇の室主は、管理する建物が燃えてしまったので言った。「なんの面目で、漢家に見えるか」と。室主は、火中に投身して死んだ。

莽避火宣室前殿,火輒隨之。莽紺袀服,持虞帝匕首,天文郎按式於前,莽旋席隨 斗柄而坐,曰:「天生德於予,漢兵其如予何!」

王莽は紺の袀服を着て、虞帝の匕首を持つ。王莽は言う。「天は私に徳を与えた。漢兵が私に、手を出せるか」と。

胡三省はいう。虞帝の匕首なんて、あるわけない。王莽は、自分で作ったのだ。王莽のセリフは、孔子のパロディである。ぼくは補う。虞帝とは、舜である。堯のつぎ。
ぼくは思う。後漢が堯の子孫だと固まった、班固のころ、創作された話かも。王莽のセリフは、面白いが、班固の小説だろう。「儒教にとりつかれた」のは、王莽でなく、班固である。東晋次氏の本のタイトルに、ケチをつけてしまった。笑


庚戌,旦明,群臣扶掖莽自前殿之漸 台,欲阻池水,公卿從官尚千餘人隨之。王邑晝夜戰,罷極,士死傷略盡;馳入宮,間 關至漸台,見其子侍中睦解衣冠欲逃,邑叱之,令還,父子共守莽。軍人入殿中,聞莽 在漸台,眾共圍之數百重。台上猶與相射,矢盡,短兵接。王邑父子、帶++足惲、王巡 戰死,莽入室。下餔時,眾兵上台,苗□、唐尊、王盛等皆死。商人杜吳殺莽,校尉東 海公賓就斬莽首;軍人分莽身,節解臠分,爭相殺者數十人。公賓就持莽首詣王憲。憲 自稱漢大將軍,城中兵數十萬皆屬焉。捨東宮,妻莽後宮,乘其車服。癸丑,李松、鄧 曄入長安,將軍趙萌、申屠建亦至。以王憲得璽綬不上,多挾宮女,建天子鼓旗,收斬 之。傳莽首詣宛,縣於市。百姓共提擊之,或切食其舌。

9月庚戌、王莽は腋をかかえられ、ひっこむ。公卿1千余人が、なお王莽に従う。 王邑の父子、タイ惲、王巡は戦死した。苗ソ、唐尊、王盛らも死んだ。商県の杜吳が、王莽を殺した。校尉する東海の公賓就は、王莽を斬首し、王憲を詣でた。王憲は、漢大將軍を自称した。王憲は、王莽の後宮を妻とし、王莽の車服に乗った。
9月癸丑、李松と鄧曄が長安に入る。將軍の趙萌と申屠建も入る。王憲が璽綬をうばったから、王憲を斬った。王莽の首を、宛城の更始帝にとどけた。百姓は王莽の首を撃ち、舌を食べた。(つづく)

司馬光は、班固の賛をひく。王莽の批判。後日読もう。