024年春、更始帝の失政?
『資治通鑑』を翻訳します。
内容はほぼ網羅しますが、平易な日本語に置き換えます。
024年春、長安に入った更始帝の失政
春,正月,大司馬秀以王郎新盛,乃北徇薊。
申屠建、李松自長安迎更始遷都。二月,更始發洛陽。初,三輔豪桀假號誅莽者, 人人皆望封侯。申屠建既斬王憲,又揚言「三輔兒大黠,共殺其主。」吏民惶恐,屬縣 屯聚;建等不能下。更始至長安,乃下詔大赦,非王莽子,他皆除其罪,於是三輔悉平。 時長安唯未央宮被焚,其餘宮室、供帳、倉庫、官府皆案堵如故,市裡不改於舊。更始 居長樂宮,升前殿,郎吏以次列庭中。更始羞怍,俯首刮席,不敢視。諸將後至者,更 始問:「虜掠得幾何?」左右侍官皆宮省久吏,驚愕相視。
024年春正月、更始帝の大司馬する劉秀は、王郎が新らたに盛んだから、北の薊県(涿郡)にゆく。
申屠建と李松は、長安から、更始帝を迎えにきた。2月、更始帝は洛陽を發つ。はじめ三輔の豪桀は、王莽を殺せば、更始帝に封侯してもらえると期待した。だが申屠建が王憲を斬ったので、申屠建は屬縣を抑えられない。
更始帝は長安にきて、大赦した。王莽の子でなければ、罪を除いた。三輔はすべて平いらだ。長安は、未央宮が焼けただけで、その他はもとのまま。長安の市裡は、莽新のまま。更始帝は長樂宮にいて、前殿に出た。郎吏がならぶ。更始帝は羞じて、顔色が変わる。うつむいたまま。更始帝は、「王莽から奪い、どれだけの収穫があったか」と聞いた。左右の侍官は、みな驚愕して見合わせた。
『後漢書』劉玄伝を抄訳、袁術が目標とした、一番のりの皇帝
李松と棘陽の趙萌は、更始帝に説いた。「すべて功臣を、王とせよ」と。硃鮪は反対した。「高祖の約で、劉氏でなければ王にしない」と。さきに更始帝は、宗室を王にした。劉祉は定陶(済陰)王、劉慶は燕王、劉歙は元氏(常山)王、劉嘉は漢中王、劉賜は宛(南陽)王、劉信は汝陰(汝南)王だ。そのあと、功臣を王にした。王匡は泚陽(南陽)王、王鳳は宜城(南郡)王、硃鮪は膠東王、王常は鄧(南陽)王、申屠建は平氏(南陽)王、陳牧は陰平(広漢)王、衛尉大將軍の張卬は淮陽王、執金吾・大將軍の廖湛は穰(南陽)王、尚書の胡 殷は隨(南陽)王、柱天大將軍の李通は西平(汝南)王、五威中郎將の李軼は舞陰(南陽)王、水衡大將軍の成丹は襄 邑(陳留)王、驃騎大將軍の宗佻は穎陰(潁川)王,尹尊は郾(潁川)王だ。ただ硃鮪だけ、王を辞して受けず。
朱鮪を左大司馬とし、宛王の劉賜を前大司馬とした。李軼らとともに、關東を鎮撫させた。李通に荊州を鎮させた。王常に行南陽太守事させた。李松を丞相とし、趙萌右大司馬とした。ともに朝廷の内任をつかさどる。
更始帝は、趙萌の娘を夫人とした。著亡に政治をゆだねた。日夜、更始帝は後庭で飲宴した。群臣が上言したくても、更始帝は酔って会えない。侍中は、帷内に話しかけるだけ。韓夫人は、更始帝のそばで酒を飲むから、常侍の奏事を聞いた。韓夫人は「酒を飲んでいる最中だ!」と怒り、上書を壊した。
更始帝が出てこないので、趙萌は專權した。更始帝は、趙萌が放縱と聞き、趙萌の郎吏を斬った。だれも更始帝に文句をつけない。
軍師將軍の李淑は、更始帝を諌めた。更始帝は、李淑をとらえた。人事も政治もメチャメチャになった。関中の心は離れ、四海は怨んで叛した。
更始帝は、隗囂とその叔父を召した。軍師の方望が止めた。「更始帝は長くない」と。隗囂は聴かず、方望に手紙で謝り、長安にゆく。更始帝は、隗囂を右將軍とした。隗囂の叔父は、もとの號につく。
024年春、光武帝が薊城から逃避行
耿況は、子の耿弇を長安にゆかす。耿弇は21歳だ。耿弇は宋子にきたころ、王郎が起った。耿弇の從吏・孫倉と衛包は言った。「劉子輿(じつは王郎)は、成帝の正統だ。どうして劉子輿を捨てて、遠くの劉玄にゆくか」と。耿弇は剣を持って言った。「劉子輿は、弊賊だ。降虜となるだろう。私(耿弇)は長安にゆく。私は更始帝とともに、漁陽と上谷の兵馬と、烏桓の突騎で、劉子輿を倒す。キミらは、去就を知らん。そのうち族滅するぞ」と。だが從吏・孫倉と衛包はにげ、王郎に降った。
耿弇は、大司馬の劉秀が盧奴(中山)にいると聞き、駆けつけた。劉秀は耿弇を長史として留め、ともに薊県にゆく。劉秀は、功曹令史する穎川の王霸に命じ、市中で王郎を撃つ兵をあつめた。みな市人は大笑し、手をあげて邪揄した。笑われた王霸は、慚懅して劉秀に反した。
【追記】goushu氏はいう。 『後漢書』の伝では「反」が「退」の字になっていることからわかるように「反」の字は 反乱ではなく、「返」と同じ意味で「かえる」ということです。(引用了)
劉秀が南にもどる。耿弇は言った。「いま王郎の兵が、南から来る。劉秀は、南へ行けない。漁陽太守の彭寵は、劉秀の邑人だ。上谷太守は、私(耿弇)の父だ。漁陽と上谷の騎兵を発っせば、王郎に敵う」と。劉秀の官屬・腹心は、みな反対した。「死んでも、南にゆきたい。どうして北の果てに行くか」と。劉秀は、耿弇を指差した。「耿弇は、私の北道の主人である」と。
烏桓の突騎が、光武帝の兵力になるというのは、面白い。曹操と同じ。
【追記】goushu氏はいう。「死尚南首」 はちゃんと調べてないけど「死ぬ時ですら(故郷の方角の)南を向く(ほど、故郷を恋慕しているのに)」ということじゃないかと思います。そうだ、この文章は「尚」は「且」と同じ意味。「奈何」は反語「況」の置き換えられる。つまり学校漢文で習う「A且B、況C乎」(Aスラ且ツB,況やCヲヤ)の変形w(引用了)
このとき、もと廣陽王の子・劉接が、薊中で起兵し、王郎に応じた。薊城は擾亂した。
ぼくは思う。劉秀は、河北を扇動するために、派遣されたのに。滞在する薊城まで、王郎についてしまった。大失敗である。もう死ぬしかない。
邯鄲の使者がきたと言う。太守以下、みな使者を迎えた。劉秀は、急いで南城門にゆくが、閉まっている。城門を攻め、劉秀は薊城を出た。晨夜、南へ馳けたが、城邑に入れない。食糧を道傍に捨て、蕪蔞亭にくる。ときに天候は寒烈だ。馮異は、豆粥をつくる。饒陽に来て、官属はみな飢えた。
劉秀は、邯鄲の使者だと偽り、食糧にありついた。饒陽の傳吏は、劉秀がニセモノだと疑う。「邯鄲の將軍がきた」と太鼓をたたき、劉秀を試した。劉秀は「邯鄲の将軍に、会わせよ」とハッタリをかました。劉秀は晨夜兼行して、霜雪をおかす。顔面の皮膚が破裂した。
本紀の該当部分を、むかし脚色した:『後漢書』「光武帝紀」を楽しむ (5)
ぼくは思う。ピンチのときほど、人間は本領を発揮する。劉秀の本領は、口八丁!
劉秀は、下曲陽(鉅鹿)にきた。王郎の兵がきたと聞き、從者は恐れた。滹沱河にきた。候吏はもどって言う。「河水は流澌だ。船がない。渡れない」と。劉秀は、王霸に見にゆかす。王霸は王郎の軍にびびり、詭弁した。「河水は堅く凍った。歩いて渡れる」と。劉秀は笑い、「候吏がウソをついた」と言った。
王霸が見張って、渡った。數騎が通る前に、氷が解けた。南宮(信都)にきて、大風雨にあう。馮異が薪をかかえ、鄧禹が火をおこす。劉秀は、衣を乾かした。馮異が、麦飯をつくる。(つづく)