表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』桓温伝の翻訳と小考

2)私は、楽毅・霍光です

「揚州の国が、益州の国を奪う」という、周瑜ができなかったことを、桓温がやろうとしています。

成漢の滅亡

時李勢微弱,温志在立勳於蜀,永和二年,率眾西伐。時康獻太后臨朝,温將發,上疏而行。朝廷以蜀險遠,而温兵寡少,深入敵場,甚以為憂。初,諸葛亮造八陣圖于魚複平沙之上,壘石為八行,行相去二丈。温見之,謂「此常山蛇勢也。」文武皆莫能識之。

ときに成漢の李勢は、微弱な君主だった。桓温は、蜀を滅ぼして勲功を立てたいという志があった。永和二(346)年、桓温は兵を率いて、西伐した。
ときに康獻太后が臨朝していた。桓温が出発するとき、太后に上疏した。朝廷の見解は、
「蜀の地は、險遠である。だが桓温の兵は、少ない。敵地に深入りすることは、とても危険である。諸葛亮は(孫呉に備えて)八陣図を魚複の平沙に作った。石を積み上げて(易経の)八行を表し、行きて相い去ること二丈(4.6メートル)だ。長江を攻め上るのは、無理だ」
であった。
桓温は朝廷の意見に対して、
常山の蛇の勢いで攻めます。勝てますよ」
とコメントした。文武百官は誰も、桓温が何を言ったか分からなかった。

常山の蛇とは、「頭を攻撃されたら尾が反撃し、尾を攻撃されたら頭が反撃し、胴を攻撃したら頭と尾が反撃する」というやつだ。
だが語意が分かっても、ぼくには桓温の作戦は分かりません。次段で読みますが桓温は、一直線に単調にゴリ押しするだけなのです。ちっとも常山の蛇ではない(笑)
「勢」という文字は、敵の李勢とカケている。それとも李勢本人のこと?


及軍次彭模,乃命參軍周楚、孫盛守輜重,自將步卒直指成都。勢使其叔父福及從兄權等攻彭模,楚等禦之,福退走。温又擊權等,三戰三捷,賊眾散,自間道歸成都。勢於是悉眾與温戰於笮橋,參軍龔護戰沒,眾懼欲退,而鼓吏誤鳴進鼓,於是攻之,勢眾大潰。温乘勝直進,焚其小城,勢遂夜遁九十裏,至晉壽葭萌城,其將鄧嵩、昝堅勸勢降,乃面縛輿親請命。温解縛焚親,送于京師。温停蜀三旬,舉賢旌善,偽尚書僕射王誓、中書監王瑜、鎮東將軍鄧定、散騎常侍常璩等,皆蜀之良也,並以為參軍,百姓咸悅。軍未旋而王誓、鄧定、隗文等反,温複討平之。振旅還江陵,進位征西大將軍、開府,封臨賀郡公。

軍次には彭模、參軍には周楚を命じ、孫盛に輜重を守らせ、桓温は自ら歩兵を率いて、まっすぐ成都を目指した。
李勢は、叔父の李福と、從兄の李權らに、彭模を攻めさせた。周楚らは、これを防いだ。李福は退走した。桓温はふたたび李權らを撃った。三戰して三捷し、賊軍は散り散りになり、間道を伝って成都に帰った。
李勢は全軍を動員して、笮橋で桓温と決戦をした。桓温方の參軍である龔護が戰沒したので、兵たちは懼れ、撤退したいと思った。だが、軍鼓を担当する役人が、ミスって前進の合図を叩き続けたから、桓温軍は退かずに攻めた。李勢の軍は、大いに潰走した。
桓温は勝ちに乗じて直進して、李勢方の小城を焼き払った。ついに李勢は、夜に90里退いた。桓温は、晉壽郡の葭萌城に到った。葭萌城を守る鄧嵩と昝堅は、李勢に降伏を勧めた。李勢は降伏した。李勢は面縛して、輿に乗って出頭し、命乞いをした。桓温は面縛を解いて、李勢を建康に送った。
桓温は蜀に30日とどまり、現地の賢人を登用した。(成漢から任じられたという意味で「偽」の)尚書僕射の王誓、中書監の王瑜、鎮東將軍の鄧定、散騎常侍の常璩らは、蜀の良き人材だった。桓温は彼らを參軍としたから、万民はみな悦んだ。ところが、桓温の軍が蜀から離れる前に、王誓、鄧定、隗文らは反乱した。桓温は、これを平定した。
桓温は蜀から軍を返し、江陵に戻った。征西大將軍に進み、開府を許された。臨賀郡公に封じられた。

北伐したくて、強迫

及石季龍死,温欲率眾北征,先上疏求朝廷議水陸之宜,久不報。時知朝廷杖殷浩等以抗己,温甚忿之,然素知浩,弗之憚也。以國無他釁,遂得相持彌年,雖有君臣之跡,亦相羈縻而已,八州士眾資調,殆不為國家用。聲言北伐,拜表便行,順流而下,行達武昌,眾四五萬。殷浩慮為温所廢,將謀避之,又欲以騶虞幡住温軍,内外噂遝,人情震駭。簡文帝時為撫軍,與温書明社稷大計,疑惑所由。温即回軍還鎮,上疏曰:

後趙の石季龍が死ぬと、桓温は兵を率いて北征したいと考えた。
さきに上訴して、朝廷に水軍・陸軍について検討してほしいと願い出た。だが返答はずっとなかった。桓温は、朝廷で殷浩らが、北征に反対していることを知った。桓温はひどく怒った。桓温と殷浩は、もとより友人だったから、桓温は殷浩に憚らなかった。
北征について具体的なプランが練られないまま、数年が経った。
桓温は東晋の臣下に違いないが、荊州で半独立して、中央からの統制は完全ではない。桓温は、8州で兵士や物資を調達して、私物化した。北伐をするぞとアジりながら、桓温は長江を下った。武昌についたとき、桓温の軍は4、5万人だった。
殷浩は身の危険を感じた。作戦を練って、桓温からの強迫を避けようとした。騶虞幡(晋帝が停戦を呼びかけるシンボルフラッグ)を桓温軍に立てた。桓温と殷浩が衝突するぞと、世論はビビッた。
司馬昱(のちの簡文帝)は、撫軍大将軍となった。司馬昱は、桓温に書状を与えて、国家の大計を明らかにし、北伐がダメな理由を説明した。桓温は、長江を下らせてきた軍を、江陵に戻した。
桓温は上疏した。

桓温の言い分

臣近親率所統,欲北掃趙魏,軍次武昌,獲撫軍大將軍、會稽王昱書,說風塵紛紜,妄生疑惑,辭旨危急,憂及社稷。省之惋愕,不解所由,形影相顧,隕越無地。臣以暗蔽,忝荷重任,雖才非其人,職在靜亂。寇仇不滅,國恥未雪,幸因開泰之期,遇可乘之會,匹夫有志,猶懷憤慨,臣亦何心,坐觀其弊!故荷戈驅馳,不遑寧處,前後表陳,於今歷年矣。丹誠坦然,公私所察,有何纖介,容此嫌忌?豈醜正之徒心懷怵惕,操弄虛說,以惑朝聽?

(抄訳)私は北伐して、趙や魏を片付けたいと思いました。自軍を武昌まで動かしたとき、司馬昱さんから書状をもらいました。読みましたが、しょーもないウソしか書いてなくて、話になりません。
私は取り柄のない人間ですが、中原が異民族に占領されているのが、我慢なりません。ここ数年、北伐を提案していますのに、シカトとはどういうつもりですか。朝廷に悪党がいるのではありませんか。

昔樂毅謁誠,垂涕流奔,霍光盡忠,上官告變。讒說殄行,奸邪亂德,及歷代之常患,存亡之所由也。今主上富於陽秋,陛下以聖淑臨朝,恭己委任,責成群下,方寄會通於群才,布德信於遐荒。況臣世蒙殊恩,服事三朝,身非羈旅之賓,跡無韓彭之釁,而反間起於胸心,交亂過於四國,此古賢所以歎息於既往,而臣亦大懼于當年也。今橫議妄生,成此貝錦,使垂滅之賊複獲蘇息,所以痛心絕氣,悲慨彌深。臣雖所存者公,所務者國;然外難未弭,而內弊交興,則臣本心陳力之志也。

戦国の楽毅、前漢の霍光は、国のために尽力しましたが、ハメられて不幸な目にあいました。楽毅や霍光を虐げたのは、国家の存続を危うくするほどの損害でした。私の意見を退けるのは、楽毅や霍光を退けるのと同じくらい、もったいないことです。
いま東晋は、人材・国力ともに充実しています。私も恩恵を受け、荊州を任されています。しかし私は、漢初の韓信や彭越のように、軍事的に独立して皇帝を邪魔する気など、1ミリもありません。
東晋のために働きます。私の提案を認めて、北伐させて下さいね。