表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』桓温伝の翻訳と小考

6)クイズの答えは「桓温元子」

もとは「いい人」だったのに、ついつい皇帝になりたくなってきた。

敗北の始まり

太和四年,又上疏悉眾北伐。平北將軍郗愔以疾解職,又以温領平北將軍、徐兗二州刺史,率弟南中郎沖、西中郎袁真步騎五萬北伐。百官皆于南州祖道,都邑盡傾。軍次湖陸,攻慕容將慕容忠,獲之,進次金鄉。時亢旱,水道不通,乃鑿钜野三百餘裏以通舟運,自清水入河。將慕容垂、傅末波等率眾八萬距温,戰于林渚。温擊破之,遂至枋頭。先使袁真伐譙梁,開石門以通運。真討譙梁皆平之,而不能開石門,軍糧竭盡。温焚舟步退,自東燕出倉垣,經陳留,鑿井而飲,行七百餘裏。垂以八千騎追之,戰於襄邑,温軍敗績,死者三萬人。温甚恥之,歸罪於真,表廢為庶人。真怨温誣己,據壽陽以自固,潛通苻堅、慕容。

太和四年、桓温はまた北伐を願い出た。
平北將軍の郗愔は、病気で解職になった。桓温は平北將軍を領ね、徐州と兗州の2州の刺史になった。弟で南中郎の桓沖と、西中郎の袁真を率いて、桓温は歩騎50000で北伐した。百官はみな南州祖道にいて、都邑はすべて傾いた。
(抄訳)慕容氏と苻氏と戦ったが、桓温は敗れて3万人の死者を出した。桓温は敗戦を、部将の袁真のせいにした。袁真は桓温を恨んで、敵に通じた。

◆原文省略、抄訳
司馬程は、桓温の子の桓熙を豫州刺史にして、假節を与えた。桓温は、まだ桓熙を独り立ちさせまいとしたが、詔は許さなかった。桓温は遠征が長引き、疫病が流行った。桓温の軍は、10人のうち4、5人が死んだ。万民は桓温を嗟怨した。
桓温に責任をかぶせられた、袁真が死んだ。袁真の子は、慕容氏と苻氏とともに、桓温と戦った。桓温が勝った。袁真の宗族は、数十人が処刑され、袁真の賓客は数百人が穴埋めになった。

皇帝を廃す

温既負其才力,久懷異志,欲先立功河朔,還受九錫。既逢覆敗,名實頓減,於是參軍郗超進廢立之計,温乃廢帝而立簡文帝。詔温依諸葛亮故事,甲仗百人入殿,賜錢五千萬,絹二萬匹,布十萬匹。温多所廢徒,誅庾倩、殷涓、曹秀等。是時温威勢翕赫,侍中謝安見而遙拜,温驚曰:「安石,卿何事乃爾!」安曰:「未有君拜於前,臣揖於後。」時温有腳疾,詔乘輿入朝,既見,欲陳廢立本意,帝便泣下數十行,温兢懼,不得一言而出。

桓温は、才能と権力を自負して、久しく皇帝に取って代わる志を持っていた。北伐で功績を立てたから、建康で九錫を受けた。桓温は、哀帝を廃して簡文帝を立てた。桓温は、諸葛亮の故事と同じ待遇を与えられた。桓温は、反対派の粛清をやり、庾倩、殷涓、曹秀らを殺した。
桓温の威勢はますます強くなった。侍中の謝安は、桓温に会うと、遠くから拝礼した。桓温は、驚いて言った。
「謝安よ、なんでそんなことをするのか」
謝安は答えた。
「まだ桓温さんは、皇帝の前で礼をしていない。だから私は、キミの後ろで礼をしたのだ」

皇帝と臣下は、向き合って座ります。謝安は、「桓温と向き合って礼をすれば、桓温を皇帝と認めたことになる。それは出来ない」と言ったか。?

桓温は足が悪かったから、入朝するときは輿を使った。
桓温は新しい簡文帝に、なぜ皇帝の首を代えたのか、本心を説明したいと思った。桓温が説明を始めると、簡文帝はズルズルと泣き出した。桓温は(簡文帝が即位を不快に思っていることを知り)懼れて、それ以上は何も言えなかった。

初,元明世,郭璞為讖曰:「君非無嗣,兄弟代禪。」謂成帝有子,而以國祚傳弟。又曰:「有人姓李,兒專征戰。譬如車軸,脫在一面。」兒者,子也;李去子木存,車去軸為亙,合成「桓」字也。又曰:「爾來,爾來,河內大縣。」爾來謂自爾已來為元始,温字元子也;故河內大縣,温也。成康既崩,桓氏始大,故連言之。又曰:「賴子之薨,延我國祚。痛子之隕,皇運其暮。」二子者,元子、道子也。温志在篡奪,事未成而死,幸之也。會稽王道子雖首亂晉國,而其死亦晉衰之由也,故雲痛也。

はじめ東晋で、元帝・明帝のとき、郭璞は占って言った。
「君主に後嗣がいなければ、兄弟が代わって即位する」

簡文帝は、明帝の弟。明帝の孫まで、皇位継承が進んでいた。だが明帝の系統を押しのけ、簡文帝が即位した。

成帝には子がいたが、皇帝の位を弟に伝えた。

郭璞の予言は、成帝のことを言ったのではない。桓温のとき、まだ的中前で、有効だったことを指摘している。

また郭璞は、こう言った。
「姓を李という人がいる。李氏の児は、ずっと出征して家にいない。車の軸のようなものは、抜けてしまう」
これは文字遊びだ。「児」は「子」と同じ。「李」から「子」を除くと、「木」となる。「車」から、縦軸の「|」を抜けば、「亘」となる。 「木」と「亘」を並べれば、桓温の「桓」となる。
また郭璞の予言は、こうも言う。
「爾來、爾來、河内郡の大県」
爾來とは、「すでに来てから」という意味で、「元始」のことだ。桓温のあざなは「元子」だから、似ている。
河内郡の大きな県とは、温県である。桓温の「温」である。

あまり上手くないよなあ・・・しかも温県は、東晋の皇帝、司馬氏の故郷です。皮肉なクイズを作ってしまったものです。


成康既崩,桓氏始大,故連言之。又曰:「賴子之薨,延我國祚。痛子之隕,皇運其暮。」二子者,元子、道子也。温志在篡奪,事未成而死,幸之也。會稽王道子雖首亂晉國,而其死亦晉衰之由也,故雲痛也。

成帝が崩じたとき、すでに桓氏は強大だった。こんな言葉があった。
「子が死んでくれれば、国の命運は延びるだろう。子に痛めつけられれば、国の命運は持たないだろう」
「子」とは、息子のことではない。元子(桓温のあざな)と、道子(会稽王で、簡文帝の子)の2人である。元子(桓温)は、簒奪の志を持っていたが、実行する前に死んだ。東晋にとって幸運なことだ。
司馬道子は、東晋の政治を乱した。だが司馬道子は東晋に貢献したので、彼が死ぬと、国力は弱まった。ゆえに、痛ましいと言われた。