表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』桓温伝の翻訳と小考

7)「私は、やらんよ」

桓温と簡文帝は、ライバル。

ライバルの舌戦

温複還白石,上疏求歸姑孰。詔曰:「夫乾坤體合,而化成萬物;二人同心,則不言所利。古之哲王咸賴元輔,姬旦光於四表,而周道以隆;伊尹格於皇天,而殷化以洽。大司馬明德應期,光大深遠,上合天心,含章時發,用集大命,在予一人,功美博陸,道固萬世。今進公丞相,其大司馬本官皆如故,留公京都,以鎮社稷。」温固辭,仍請還鎮。遣侍中王坦之征温人相,增邑為萬戶,又辭。詔以西府經袁真事故,軍用不足,給世子熙布三萬匹,米六萬斛,又以熙弟濟為給事中。

(抄訳)桓温が白石に帰ってきたとき、詔があった。
桓温を丞相に進める。今の大司馬は兼任せよ。建康で、社稷を守れ」
桓温は固辞して、また荊州に出鎮したいと言った。中央から桓温へ副官を遣わし、増邑したが、桓温は断った。詔があった。
「西府(荊州)は、袁真の裏切りがあったせいで、軍資が足りないだろう。桓温の子らに、布や米を与える」

「桓温は、キミの子供たちに荊州を任せて、さっさと建康に出てこい」という簡文帝のメッセージか。


及帝不豫,詔温曰:「吾遂委篤,足下便入,冀得相見。便來,便來!」於是一日一夜頻有四詔。温上疏曰:「聖體不和,以經積日,愚心惶恐,無所寄情。夫盛衰常理,過備無害,故漢高枕疾,呂後問相,孝武不豫,霍光啟嗣。嗚噎以問身後,蓋所存者大也。今皇子幼稚,而朝賢時譽惟謝安、王坦之才識智皆簡在聖鑒。內輔幼君,外禦強寇,實群情之大懼,然理盡於此。陛下便宜崇授,使群下知所寄,而安等奉命陳力,公私為宜。至如臣温位兼將相,加陛下垂布衣之顧,但朽邁疾病,懼不支久,無所複堪托以後事。」疏未及奏而帝崩,遺詔家國事一稟之於公,如諸葛武侯、王丞相故事。温初望簡文臨終禪位於己,不爾便為周公居攝。事既不副所望,故甚憤怨,與弟沖書曰:「遺詔使吾依武侯、王公故事耳。」王、謝處大事之際,日憤憤少懷。

簡文帝は、桓温に詔を出した。
「大きな仕事を任せるから、建康に戻れ。ほら、早く早く!」
24時間以内に、4通の詔が送られた。桓温は上疏した。
「盛衰は隣り合わせです。どれだけ備えても、備えすぎということはありません。だから劉邦が病んだとき、呂后は功臣を問責したのです。前漢の武帝は、未来への備えを怠りました。だから霍光の助けを必要としたのです。いま皇子は幼い。しかし朝廷の名臣は、謝安や王坦之だけです。幼君を助けて、強い外敵に対処できるか、心配です。新しい人材を発掘して、謝安らを助けさせて下さい。もう私は役に立てません」

「司馬氏の東晋は、もはや先細りだ。手当てできない。いっそのこと、この桓温に禅譲せよ。丞相ではなく、皇帝としてなら、私は建康に行くつもりである」という意味か。

桓温からの上疏が届く前に、簡文帝は崩じた。簡文帝は遺言で、
「桓温は、諸葛亮や王導のようになれ」
と言った。桓温ははじめ、簡文帝が死んだら、自分が皇帝になるつもりだった。だが簡文帝はそれを許さず、周公のように摂政しろと命じた。桓温は、ひどく憤怨した。弟の桓沖に書状を送った。
「簡文帝は私に、諸葛亮や王導になれと言いやがった(怒)」
王坦之と謝安が政権担当したので、桓温は日に日に憤激を募らせた。

及孝武即位,詔曰:「先帝遺敕雲:'事大司馬如事吾。'令答表便可盡敬。」又詔:「大司馬社稷所寄,先帝托以家國,內外眾事便就關公施行。」複遣謝安征温入輔,加前部羽葆鼓吹,武賁六十人,温讓不受。及温入朝,赴山陵,詔曰:「公勳德尊重,師保朕躬,兼有風患,其無敬。」又敕尚書安等於新亭奉迎,百僚皆拜於道側。當時豫有位望者咸戰懾失色,或雲因此殺王、謝,內外懷懼。温既至,以盧悚入宮,乃收尚書陸始付廷尉,責替慢罪也。於是拜高平陵,左右覺其有異,既登車,謂從者曰:「先帝向遂靈見。」既不述帝所言,故眾莫之知,但見將拜時頻言「臣不敢」而已。又問左右殷涓形狀,答者言肥短,温雲:「向亦見在帝側。」
初,殷浩既為温所廢死,涓頗有氣尚,遂不詣温,而與武陵王晞游,故温疑而害之,竟不識也。及是,亦見涓為祟,因而遇疾。凡停京師十有四日,歸於姑孰,遂寢疾不起。諷朝廷加己九錫,累相催促。謝安、王坦之聞其病篤,密緩其事。錫文未及成而薨,時年六十二。皇太后與帝臨於朝堂三日,詔賜九命袞冕之服,又朝服一具,衣一襲,東園秘器,錢二百萬,布二千匹,臘五百斤,以供喪事。及葬,一依太宰安平獻王、漢大將軍霍光故事,賜九旒鸞輅,黃屋左纛,縕輬車,挽歌二部,羽葆鼓吹,武賁班劍百人,優冊即前南郡公增七千五百戶,進地方三百里,賜錢五千萬,絹二萬匹,布十萬匹,追贈丞相。


つぎの孝武帝が即位すると、詔した。
「さきの簡文帝は、遺言した。『大司馬(桓温)には、私(簡文帝=孝武帝の父)に仕えるのと同じように仕えよ』と」
(抄訳)謝安は桓温に政権参加を促したが、桓温は断った。
「桓温が、王坦之と謝安を殺すかも知れない」
というウワサがあって、人々は懼れた。
桓温が簡文帝の墓参りをした。どうも様子が変だった。従者が、簡文帝の霊が見える、と言った。この件は皇帝に報告されなかったから、広く知られていない。ただ桓温が陵墓の前で、
「私は、やらんよ」
と言ったらしい。
桓温は、葬った政敵の殷浩らに呪われて、病気になった。ウソのウワサを真に受けて、
「九錫がほしい。くれくれ!」
と桓温はしきりに催促した。王坦之と謝安は、桓温の病気が篤いと聞いて、九錫を許可した。

九錫は前にもらってましたが・・・

九錫文が完成する前に、桓温は62歳で死んだ。安平獻王(司馬孚)や、漢大將軍の霍光の故事にならって、葬儀が行なわれた。丞相が追贈された。

初,沖問温以謝安、王坦之所任,温曰:「伊等不為汝所處分。」温知己存彼不敢異,害之無益於沖,更失時望,所以息謀。

はじめ桓沖は、桓温に聞いた。
「謝安や王坦之に、政権を執らせていいんですか」
桓温は答えた。
「彼らは、お前(桓沖)に手を出さないよ」
桓温は、謝安たちが桓氏に敵意を持たず、桓沖に危害を加えないと見抜いていた。だが桓温の子の代に、桓氏は時望を失い、謝安に倒される。

◆原文省略、抄訳
桓温には6人の子がいた。末っ子の桓玄が桓温を嗣いだ。列伝が別にある。

桓玄が簒奪をやるのです!

次回、ちょっと考察をして終わりです。