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2)中原に入る前趙、後趙、冉魏

成漢を見終わった次は、本格的に五胡の国へ。

前趙

トカク種の匈奴が立てた国。君主の確実な祖は、3世紀の劉豹。劉豹が、於夫羅単于の子だというのは、年代が開きすぎるので、きっとウソ。南単于とは関係なかった。
劉淵は八王の乱のとき、鄴で行寧朔将軍として、司馬頴に使われた。劉淵は自立したいと思ったので、
并州刺史の司馬騰や、安北将軍の王浚は、烏桓や鮮卑を使っています。匈奴を利用して、対抗すると良いですよ」
と言い、司馬頴を去った。304年10月、漢王を称した。
「漢の支配は長い。恩徳に人が懐くから、劉備は益州だけで、天下と張り合えた。兄の劉禅に孝懐皇帝と追尊し、建国しよう」
劉淵は、漢の名を借りて、漢族と胡族の連合国家を作ろうとした。309年1月、平陽に遷都した。前趙の基礎が、確立した。

310年6月、劉淵が病死。劉和が嗣いだが、弟の劉聡が、皇帝の兄を殺して即位した。311年、洛陽を陥落させた。次の皇帝を「大単于」として、二重統治をやった。漢族が220万人、五胡が400万人の国家だった。
316年、長安で司馬鄴を滅ぼしたが、王浚と劉琨が残っていた。石勒の部将・曹嶷が、独立していた。
318年7月、劉聡が死に、劉燦が即位。8月、外戚のキン準が、平陽の劉氏一族を殺害し、漢天王を自称して、東晋に投降した。

劉曜は12月に、平陽でキン準を滅ぼし、長安で「趙」を建国。
漢の国号をやめて、冒頓単于を天に配して、匈奴民族主義に転じた。328年7月、劉曜は、後趙の石勒の攻撃を凌いだ。劉曜は、洛陽奪還を目指した。12月、石勒に殺された。
前趙の滅亡に、劉曜の越度はない。石勒の国力増強と、前涼、前仇池への外交が万全ではないかったせいだ。

◆前趙の感想
「漢趙」とも呼ばれる国ですが、劉淵と劉聡のときと、劉曜のときは、別の国である。国号が違うのはもちろん、国の目指すところが違う。
だから別に論じます。

劉淵は、統治の下手クソな西晋を漢魏の後継と認めず、歴史を拠りどころにして立ち上がった。いわば、後漢の光武帝によって作られた、「漢王朝は永遠である」という神話を、受け継いでいる。
人質として、司馬昭に可愛がられたらしい。魏末の洛陽で、理想を論じたかも知れない。西晋が腐ったのを見て、「三国志的な使命感」で、魏晋に代わる新しい古代王朝を作ろうとしたんだ。 1枚だけ皮をむけば、魏は異民族との混交が進んでいた。
「北から突然に湧いてきた野蛮人によって、中夏の王朝は踏み潰されてしまった」
というのは、間違いである。漢族と胡族が、ミルフィーユみたいに交互に重なっている。今までは漢族がオモテに出ていたが、ちょっと胡族がオモテに出ただけだ。
胡族の攻撃は、想定外の反則技ではない。劉淵は、司馬氏にとって、宮廷で席を並べていた同僚である。
まるで、司馬懿の芝居が見抜かれ、司馬師のコブが酒席で戯れにつぶされ、司馬昭が曹髦に返り討ちにされ、司馬炎への禅譲に指示が集まらなかったかのように、司馬氏の敗北を楽しみたい。
この古代帝国は、キン準に滅ぼされた。完全に滅びた。

関中で趙を建国した劉曜だが、まず劉聡との血縁関係が、よく分からない。なんとなく劉姓だから、石勒よりは劉聡を正統に継いだように見えるけど、距離はそんなに変わらないだろう。
典型的な、胡族による割拠政権だと思う。どうせ石勒に負けたんだから、これ以上は言うことなし。
山西と山東が衝突すると、センターラインは洛陽である。命を張って、それを示してくれたのは良かった。洛陽は、どっち付かずの地勢なんだ。漢族が特別視したから、争奪の対象になったけれど。

後趙

石勒は、上党郡の羯族だ。羯族という民族名は、この時期だけ登場する。「高鼻、多鬚」なので、西方系の混血で、匈奴に従属していたか。
部落が解散したとき、漢人の郭敬を頼った。漢人の師カンの奴隷となった。建国後、2人のゆかりある漢族は登用された。
308年末までに鄴を陥落させ、冀州を平定して「君子営」を形成した。張賓を宰相として使った。

319年11月、襄国で大単于・趙王となり、自立。
北方に鮮卑がいたから、河南・山東へ進攻。東晋の祖逖と、黄河の南を取り合った。321年に祖逖が死に、河南を獲得。324年、同じく河南を争って、前趙と衝突。328年に劉曜を殺した。華北全域を支配した。
高句麗、鮮卑の宇文部、前涼が朝貢した。333年7月、石勒が死去。石弘に代わって、334年11月、石虎が居摂趙天王。
228年12月、東北の鮮卑段部を滅ぼし、慕容部と国境を接した。 340年9月、慕容部が侵攻。段部の故地は、後趙から慕容部が奪った。
343年、347年、前涼を攻めた。淮水を越えて、東晋に圧力をかけた。人口は600万人、石虎は『初学記』でゼイタクを謳われた。
八王の乱以来、混乱した華北に安定をもたらした。農業生産を回復した。

石虎の死後、349年4月から350年3月までに、4人の石氏の皇帝を出して乱れた。石勒の養孫・冉閔により、20万人の五胡虐殺が行なわれた。

◆後趙の感想
劉淵の漢は、劉聡のときに実質滅びた。319年から350年まで、30年も中原を安定させたことは、奇蹟だ。話が大きくなりそうで困るが、石勒と石虎の2人だけを追いかければ、後趙を追いかけることができるだろう。
350年までの五胡十六国時代は、5人の人間を捕捉しておけば、こと足りそう。漢の劉淵と劉聡、前趙の劉曜、後趙の石勒と石虎である。あとは、周辺事情の脇役と言っていい。

気になったのは、石虎が就任した「居摂趙天王」である。居摂というのは、まあ代行しているよーくらいの意味だが、王莽が設定した年号だ。漢人を登用したこの政権は、けっこう故事を踏まえていたのかも。
石勒の「羯族」が正体不明なのは、冉閔がみな殺しにしたからだ、きっと。子孫がいなければ、系統が分からなくなる。

冉魏

冉閔は、漢人。石勒に捕えられて、養子となった。338年以降、石虎の将軍となった。石虎の死後、石氏の皇帝を次々と立てて、李農と結んで、後趙を泥沼の末期に陥れた。
350年閏2月、石虎の孫を38人殺し、大魏の皇帝を称した。
漢族のみが支える、不安定な政権だった。鄴周辺だけを支配した。漢人政権だから、東晋との関係を調整できなかった。351年、河南の刺史が、一斉に東晋に帰順した。
前燕の慕容儁は、冉閔を352年4月に殺した。2年半あまりで滅亡。

◆冉魏の感想
漢人政権というから、歴史的な画期のようであるが、そうではない。冉閔が後趙を滅ぼせたのは、石勒の縁者だからだ。そういう意味では、中原に久々に復活した漢人の国ではなく、後趙の残りカスに、ちょっと火がついて鮮やかに燃えただけである。
ちなみに魏という国名は、鄴に首都があるから。曹操を意識したのではあるまい。後趙は北方から降りてきたが、冉魏は初めから鄴にいる。

皇帝の縁者として、王朝を撹乱し、即位をして1代で滅びたのは、王莽と同じだ。王莽は理想主義で、極端に異民族を貶したけれども、冉閔も同じである。若いころの不遇も、王莽に似ている。
石虎に捕えられて、性格が歪み、漢族至上主義に傾いていく冉閔の人生を描いてみたい(笑)冉閔が東晋と折り合えなかったのは、三崎氏が言ったように「漢人政権だから」ではあるまい。冉閔が、唯我独尊の性格だったからだろう。外交は王莽も下手だった。

石氏も冉氏も、捕虜からの出発だ。ゼロからのスタートである。政権の正統性は、洛陽の文化に触れた、劉淵から引き継いでいると言ってよいかも。
五胡十六国の全体から見れば、以後100年くらい山東で影響力を持つ、慕容部の燕を招きよせた役だった。