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8)統一は劉裕のおかげ、北魏

華北を統一した、最後の勝者・北魏です。
北魏の前身の、代から説き起こさねばなりません。

鮮卑の拓跋力微は、西晋に侵入した。277年、衛瓘の画策のせいで、憂死させられた。
八王の乱のとき、并州刺史の司馬騰を救援し、劉淵や石勒と戦った。拓跋イロは、西晋の懐帝から、310年10月に代公に封じられた。拓跋イロは、并州刺史の劉琨と兄弟の契りを結んだ。

代は、北魏の前身。『魏書』では、西晋を正統な王朝と仰ぐ。何せ、代王にしてくれたんだから。しかし、西晋を滅ぼして、趙漢が立つ時代である。舵取りを露骨に誤ったな。


拓跋部は分裂したが、338年11月、後趙の人質だった拓跋什翼犍が、建国という年号を立てた。後趙と親交した。339年から前燕と通婚し、前燕の滅亡まで同盟した。
夏の劉衛辰が先導し、前秦が攻めてきた。376年12月に滅ぼされた。苻堅は、代の旧領を分割した。

晋を模した国を作った。華北の脅威を受けずに済んだ。だが、支配下の匈奴の処遇の難しさと、前秦の苻堅の圧力によって滅亡した。

◆代の感想
これだけだと、ただの弱小国家。北魏の前身だから、注目に値します。
西晋に忠実だった、というのはポイントが高い。また、華北統一の最後のハードル・匈奴の夏と宿敵だったというのは面白い。北魏の前身・代を滅ぼしたのは、夏だ。

北魏

代が滅びたとき、拓跋什翼犍の孫・拓跋珪は逃げた。

肥水の後、386年1月に、賀蘭部の推戴を受けて、代王となった。4月に、魏王になった。盛楽あたりの小さな勢力で、祖父の拓跋什翼犍のときより小さかった。
だが、387年に後燕と結んで、オルドスの劉顕(匈奴)を討ち、391年12月に劉辰を滅ぼした。390年前半に、オルドスからモンゴルを加えた。匈奴を討つことで、代の旧領をやっと上回った。
395年、参合陂で後燕を破り、中原への道を開いた。398年1月までに、後燕の黄河以北を支配した。後燕から、多くの漢人を獲得した。宰相の崔宏を手に入れた。
中原には遷都せず、平城で国力を蓄えた。だがまだ200万人に満たなかった。

409年10月、拓跋珪は次子に殺害された。長子の拓跋嗣が継いだ。劉裕が、410年に南燕、417年に後秦を滅ぼした。北魏は、華北の勢力と武力衝突せずに、江南王朝と対立することになった。
423年、拓跋トウが即位した。夏、西秦、北涼、北燕、後仇池が存続していたが、強いのは夏のみ。427年6月、10万を率いて、夏の統万城を滅ぼした。西に逃げた夏は、西秦を滅ぼした。夏は、吐谷渾に滅ぼされた。
残りは、北燕、北涼、後仇池。
436年4月、遼西国を揺さぶって、北燕を1万で滅ぼした。439年9月、北涼に親征。442年、後仇池を滅ぼした。
華北に150年ぶりの統一政権を樹立した。

◆北魏の感想
北魏を統一政権に押し上げたのは、東晋の劉裕かも知れない。後燕を痛めつけたあたりでは、他の十六国とそんなに変わらない。しかし、劉裕が中原に空隙を作ってくれたから、一気に大きくなれた。
「六朝時代」というと、華北と華南では別の時間が流れていたようである。しかし、密接に関わっている。
前秦が瓦解したのは、肥水で敗れたから。このとき東晋は華北を分裂させるキッカケを作ったが、劉裕はその逆で、華北を地ならしする手伝いをしてしまった。
「劉裕のバカ。その勢いでなぜ全土を統一しないか」
と恨み言を言いたくなるが、通じない話である。東晋が成立してから100年近くが経ち、すでに華北への帰属意識が薄れていたんだ。
劉裕の価値観に照らせば、
「兵站の維持できない遠隔地など、軍人としての私が地位を確立するには、不要である。ただ、敵国を滅ぼしたという勲章があれば良い」
という、根っからの軍人でした。

北魏が統一政権としてどう振る舞うかは、五胡十六国ではなく「南北朝時代」の話として、別に語られるべきですね。