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5)幻の民族を超えた統一、前秦

燕を見たので、秦をみます。

前秦

前秦を建国するのは、略陽の氐族で、蒲氏である。前趙、後趙、東晋に帰属した。350年2月、ボウ頭で、大将軍・大単于・三秦王を称して自立した。10万人の勢力。蒲洪(苻洪)は、長安を取ろうとしたが、もと石虎の部下に殺された。
苻洪の第3子の苻健が、東晋に服属して、漢族の支持を集めた。351年1月、長安で天王・大単于となり、352年2月に皇帝に即位した。渭水の流域を支配しているだけだった。

354年2月、桓温が江陵から関中に侵入。関中の漢族が桓温に味方したが、6月に桓温を追い返した。豊陽に関市(交易場)を儲けて、東晋と通商した。重商主義をとった。
356年6月、苻健が死に、第3子の苻生が即位。前涼を服属させ、姚襄を殺し、姚萇を服属させた。苻生は残忍だったので、357年6月に苻堅がクーデターを起こした。

苻堅は、漢人の王猛を用いて、重農主義をとった。匈奴や鮮卑を関中に徙民し、農業生産を整備した。368年ごろまでに、国内を安定化。370年に前燕を滅ぼし、373年9月に蜀を東晋から奪い、376年8月に前涼を滅ぼした。華北を統一した。人口は2300万人。

漢人宰相の王猛は、
「東晋は正朔を受け継いだ王朝です。私の死後も、東晋を攻撃せぬよう」
と375年に言った。
苻堅は、382年に、
「東南の一隅に、まだ私に従わないものがいる」
と言った。東晋の攻撃は、苻堅にとって必然である。
378年2月、長子の苻丕に襄陽を攻撃させた。379年2月、襄陽は陥落。盱眙も陥落。兗州刺史の謝玄は、前秦を淮水の北まで、押し戻した。
383年、本格的に東晋を攻撃。肥水で敗れた。慕容垂(後燕)、慕容沖(西燕)、姚萇(後秦)が、自立に向けて動き出す。

385年5月、西燕の慕容沖を恐れて、長安を去った。7月、苻堅は姚萇に捕えられた。8月、姚萇からの禅譲要求を断って、苻堅は殺された。
長子の苻丕が、河東で即位した。後燕と西燕に挟まれて、386年10月に敗走しているところ、東晋に殺された。

苻堅の政策は、
鮮卑、羌、羯を畿内に住まわせ、同族を遠方に住まわせています。もし風塵の変が起これば、国家はどうなるでしょうか」
と批判された。苻堅は、
「天下を合わせて一家とするのだ。自民族(氐族)も異民族も、同じく赤子と見なすべきである」
と答えた。中国統一の理想は、現実に適応せず、諸民族の自立が再開された。

◆前秦の感想
苻堅は、あちこちで「英主」と呼ばれている。どこに典拠があるのか分かりませんが。
前秦という国は、苻堅がいなければ、ただの関中政権だったでしょう。苻堅が高い理想を掲げたから、高いリスクを冒してまでも、外征をしたんだと思う。前秦目線で見れば、肥水の戦いは、とても残念なことです。しかし、それ以前の前秦だって、いちど失敗したら取り返しが付かないような、大遠征をくり返している。
運わるく肥水で負けたのではなく、肥水まで運よく勝っていたとも言える。

関中から出発して、短期間で華北を統一した。まるで秦の始皇帝のようだ。始皇帝のときも苻堅のときも、統一は短期間で完了した。時間をかければ、誰にでも平等にチャンスがある、ではない。特大な人生プランを実現したいなら、参考になりますね。
始皇帝は、郡県制で直轄して、占領地をキープしようとした。苻堅は、滅ぼした国から徙民しまくって、占領地をキープしようとした。閉じられた関中から、遠くの山東を制御するには、ドラスティックな政策が必要。同時に、反発も必至。

五胡十六国時代は、肥水の戦いを挟んで、前期と後期に分けられる。
肥水の戦いは、東晋の正統性と、前秦がプロデュースした複数民族の団結力が、ぶつかった戦いだ。戦術の巧拙はあまり関係なく、統制をうまく利かせた方が勝ちという、あまり小説栄えしないバトルだったと思う。東晋が強かったのではなく、前秦が弱かったんだと思う。
人間は、安定を好む生き物です。苻堅の理想は、その内容に道理がなかったから、実現しなかったんじゃないと思う。ただ急すぎたという理由だけで、受け入れられなかった。
まだ中国大陸は、五胡の繚乱をやらせたかったようで。