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4)逆回転-西燕、後燕、南燕、北燕

前燕は、慕容暐が皇帝のとき、前燕に滅ぼされた。国こそ滅ぼされたが、人材は前秦に取り込まれた。旧前燕の勢力は、健在だ。

旧「燕」は、前秦が肥水で敗北したのを受けて、すぐに復活します。
前燕の皇帝の、極めて近い親族たちが、いちど手に入れた山東での影響力を武器に、五胡十六国時代を彩ります。

勝手なイメージだけで語るけれど、秦の始皇帝のときに似ている。始皇帝によって、戦国の六強は滅ぼされた。だが、陳勝と呉広が叛乱すると、続々と復活しました。
始皇帝の統一は、世代1つ分くらいのブランクを、戦国六強に与えた。だから立ち上がったのは、六強の君主の子供たちである。だが、いま前秦は一瞬で滅びたから、亡国の当事者たちが、自分たちの国を復活させた。

西燕

前燕のラストエンペレラー・ 慕容暐の弟である慕容泓と慕容沖は、前秦の将軍になって、収まっていた。
肥水で前秦が破れると、叔父の慕容垂が鄴に向った。それを横目に見つつ慕容泓は、384年3月、関中から関東に戻り、10万で華陰にやどった。慕容沖も2万で河東にやどり、慕容泓に合流した。
384年4月、建国したが、6月に慕容泓は殺された。弟の慕容沖が、皇太弟として長安に進軍した。12月、慕容暐が苻堅に殺されたので、翌385年1月に慕容沖は長安で即位。慕容沖は、関中に移住させられた、鮮卑の国を作ろうとした。
叔父の慕容垂が山東を抑えたから、慕容沖は関中に留まろうとした。だが鮮卑は東に帰りたくて、386年1月に慕容沖は殺害された。慕容垂の後趙に吸収された。

◆西燕の感想
前燕の最後の皇帝の、弟たちの国。
前燕を継承するとき、2つの方法がある。もとの前燕の根拠地、山東で自立する。もしくは、前秦に取って代わり、関中で自立する。
慕容泓は、前者の方針を仄めかしたが、途中でコケた。慕容沖は後者を志したが、人々の心が付いてこずに失敗した。徙民を定着させるのは難しいのが、よく分かる。まして前燕が滅びてから、まだ代替わりをしていない。そりゃ、故郷に帰りたいわな。
徙民とは、日薬ならぬ、世代薬が必要なほどのインパクトなのです。ぼくは、大阪から豊田に転職で引っ越した。仕事は別に問題がないのに、大阪に帰りたくて仕方がない。徙民は支持されにくいのだ(笑)

後燕

慕容皝の第5子で、慕容暐の叔父は、慕容垂である。東晋の桓温を退けたが、叔父に殺されそうになったから、前秦に亡命した。苻堅に登用されて、前燕の攻撃に参加した。
肥水の戦いでは、唯一の無傷で、苻堅を収容した。
肥水の敗戦を見て、自立の意を固めた。鄴での墓参りを願い出て、苻堅に許された。鄴にいたのは、苻堅の子・苻丕だ。苻丕は、慕容垂を鄴に入れなかった。苻丕は慕容垂に、
「洛陽に、丁零の翟斌が迫った。洛陽を救え」
と命じた。慕容垂は洛陽に行き、翟斌を吸収して、3万になった。384年1月、栄陽で燕王を称した。河北で、苻丕と競合して、中山を本拠とした。だが苻堅に恩義があるから、前秦の臣下のままだった。

慕容暐が苻堅に殺され、苻堅が姚萇に殺されると、386年1月に皇帝を名乗った。392年6月、翟魏を滅ぼし、394年8月に甥の西燕を滅ぼし、山東を東晋から奪った。前燕を凌ぐ領域を支配した。

後燕を終わらせるのは、北魏である。391年7月、慕容垂が名馬を求めたが、北魏は拒否して、西燕と結んだ。
西燕を滅ぼし終わった395年5月、太子の慕容宝10万が北魏を攻めた。11月、黄河が凍結したので、参合陂で、北魏が後燕を急襲した。後燕と北魏の力関係が逆転。慕容垂は、愧じて吐血した。

慕容宝が継いだが、国力は弱い。396年9月、北魏が并州を奪い、首都の中山に迫った。慕容宝は、龍城に引いた。398年、慕容宝は、無謀な中山奪還をやり、殺害された。
子の慕容盛が抵抗したが、遼東・遼西の小国だ。401年1月「庶民大王」に貶号した。406年に高句麗が進攻し、翌年に後燕は滅びた。

◆後燕の感想
燕という国は、初めは弱かったが、力を付けて拡大・南下した。負け始めると、拡大のときの逆回しをやって、滅びた。前燕と後燕は、ぴったり線対称である。燕という国は、徐々に北に押し込められて、立ち消えました。
山東の歴史をまとめる。

はじめ、劉淵を祖とするが栄えた。つぎはが趙末を乗っ取った。途中で前秦の包み紙を被ったが、1世代にも満たない短期間で、無視できる。燕を破った魏が、最終的な覇者となった。趙、燕、魏の順だ。

たった3国で語れる。五胡十六国、ぜんぜん複雑じゃない(笑)

ありし日の前燕を継いだのが、前燕に居場所を失った慕容垂だったというのは、歴史の皮肉です。いや、前体制と距離があったから、立て直すことが可能になったのか?

南燕

慕容垂の弟である、慕容徳の国。後燕が北魏に破れて、北の龍城に奔った。慕容徳は滑台で即位した。後燕が存立しているから、関係は微妙だった。
北魏に圧迫され、399年8月に、広固に遷都し、400年1月に皇帝に即位。北魏と東晋に挟まれた国で、斉魯地方に限られた。
404年3月、東晋の劉裕は、簒奪者の桓玄を殺した。東晋から南燕に亡命してくる人により、兵力37万、人口200万に膨らんだ。

慕容徳が405年8月に死ぬと、甥の慕容超が即位した。後秦に称藩した。410年、東晋の劉裕に滅ぼされた。後秦は、夏に攻められていて、助けに来なかった。

◆南燕の感想
後燕の領土は、北魏に中山を取られて、南北に2分された。トカゲなら、胴体は龍城に逃げた慕容宝で、切れた尻尾がこちらの南燕である。
桓玄に味方した人たちを収容したのは、話題性としては立派だけど、北魏と東晋に挟まれた位置関係は、とても不利である。切れた尻尾から、胴体や頭が生えることはない。

北燕

後燕の中衛将軍の馮跋は、407年7月、後燕皇帝の慕容煕(慕容垂の少子)を殺した。慕容雲が、皇帝に立てられた。これが北燕である。
慕容雲は、高句麗人である。前燕が342年に高句麗を攻めたとき、連行された人の後裔。後燕にいた、漢人と高句麗人の連合政権だ。

東晋と通好し、モンゴルの柔然と通婚した。北魏が、夏の攻撃を優先したから、存続した。北魏は夏を滅ぼすと、432年から連年で北燕を攻撃した。劉宋の属国となって救援を求めたが、436年3月に滅亡した。皇帝に代わっていた馮氏は、高句麗に逃亡したが、438年3月に殺害された。

◆南燕の感想
後燕が体力を失った後に、残存勢力で作った国だろう。冉閔の魏に似たものを感じるが、冉閔よりはよほどうまくやった。
胡漢の融合がこの時代のテーマですが、遼東で細胞分裂&合体をくり返した燕では、漢族と高句麗人 の融合が進んでいた。北魏に圧迫されても、五胡十六国時代の最後まで生き延びた。民族融合のひとつの到達点である。

ちょっと休憩

以上、「燕」という国号を持つ勢力を見てきました。
西晋のもっとも早い時期から、国家としての胎動を始めた。北魏が華北統一する最後まで、国家として存続した。辺境に出発して、中央に進出し、ふたたび辺境に引っ込んだ。
五胡十六国時代の標準的な盛衰のサンプルと言えるかも知れない。
それ以外の国は、燕より性急だったり、拡大に失敗したり、、とまとめることが出来るのです。