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7)統一の有力候補、匈奴の夏

後期に優勢になった国を見ていきます。まずは、珍しく修飾語なしで、漢字1文字で表現が足りてしまう、夏です。

南匈奴の後裔。310年ごろから、并州刺史の劉琨と結んだ、代から攻撃を受けた。赫連勃勃の曽祖父の劉虎(武)は、朔方に逃げて、前趙に服属した。前趙に属した。341年10月、劉虎は代に殺された。
子の劉豹子は、代に服属した。子の劉衛辰は、前秦に服属した。前秦が代を攻めるとき、先導した。 代が滅亡すると、代の旧領のうち、黄河以西を領有して、西単于になった。
肥水の後、自立を目指した。西燕や後秦と連携した。だが、391年11月に、劉衛辰は北魏に殺された。

代が前秦に滅ぼされ、生まれ変わったのが北魏だ。夏は、北魏と宿怨のあるライバルのようです。

劉衛辰の子・劉勃勃は、後秦に逃れた。後秦と北魏が仲直りしてしまうと、407年6月、高平で大王・大単于となり、後秦から独立した。後秦の攻撃を避けるため、オルドスで遊牧し、根拠地を定めなかった。勢力を、隴関の方面に伸ばした。

407年10月、南涼を攻撃した。27000人と家畜10万を獲得した。後秦を攻撃した。413年、五胡と漢族10万人を動員して、統万城を築いた。劉氏から、赫連氏に改めた。
418年10月、東晋の長安を包囲した。劉裕の子・劉義真を破り、長安を獲得した。12月、赫連勃勃は皇帝になった。勃勃は言った。
「長安を首都にせよと勧められた。だが、認めないよ。私は、長安が代々の皇帝が都した場所だと、もちろん知っている。要害の地である。東晋は遠いから、脅威ではない。でも北魏は、統万城から陸続きで、数百里しか離れていない。もし長安に移ってしまえば、今の首都の統万のあたり(国土の北)を失うだろう」
419年2月、統万城に戻った。南を朝宋門、東を招魏門、西を服涼門、北を平朔門とした。統万城で、中国全土を支配する意気込みだ。だが、420年中ごろ、北涼を一時的に服属させただけ。
425年8月、勃勃が死んだ。翌年に北魏の攻撃を受けて、首都・統万城は陥落した。滅亡した。

夏は南匈奴だが、鮮卑、氐、羌を合わせた政権だった。オルドスの牧畜地帯に拠点を置き、「農耕地帯を支配する征服王朝」の性格を保った。他の五胡の国とは違う。非漢族として、中国に君臨するつもりだった。
一時は華北を北魏と二分した。北魏も、夏と同じ征服王朝だった。夏は、北魏との抗争に敗れて、滅亡した。

◆夏の感想
国名は、『史記』で禹が開いたとされる、最初の世襲王朝から?
前秦が失敗した後、五胡が選べる国家戦略は2つに分かれたのでしょう。
1つは、前秦の旧領を分割して、中原でじわじわ勢力拡大を狙う方法。2つには、中原を支配するという方針をいちど捨て、後漢では「国外」だった北方で、国力を蓄える方法。
1つ目をやったのが、後燕や後秦でした。彼らの頭のなかは、1を2に、2を3に、という足し算の思考だった。前秦の旧領を修復するんだ。
2つ目をやったのが、夏や北魏でした。1を10、10を100にする、掛け算の思考をやったのだと思う。 結果、勝ったのは後者でした。
足し算をやってると、大きな失敗は少ないが、大きな成功も少ない。均衡した情勢の下で、じわじわと一進一退をする。一気に滅亡はしないのは嬉しいが、統一からは遠ざかる。
ドラスティックな統一には、掛け算が必要だ。

足し算と掛け算は、東晋でも並行して行なわれたと思う。高い理想を掲げて突っ走ったのは、前秦の苻堅と東晋の桓温。ともに人が付いてこれず。東晋五胡十六国の後半戦は、桓温と苻堅の次に、どんな戦略が成功するか競った、プレゼン大会である。
東晋で桓温が阻止された後、建業の司馬氏と、北府と東府の3勢力が、しのぎを削った。かつて桓温が持っていた絶大的なパワーを、ふたたび1人に集めようとする戦いだった。前秦の旧領を分割して、押し合った国々と、同じような動きである。
地味な押し合いは、やがて桓玄の簒奪に到る。桓玄が強くなり、桓玄が弱くなると、そのたびに亡命した人が、後秦や南燕に影響を与えた。似た境遇の国は、引かれ合う。

東晋に掛け算を持ち込んだのは、儒教国家の破壊者・劉裕でした。劉裕は、足し算時代の東晋と呼応していた、後秦と南燕を滅ぼした。後秦と南燕の掃除こそ、劉裕に任せたが、北魏はそれ以外を滅ぼした。劉裕と北魏は、掛け算の王朝として、同じである。
夏は失敗してしまったが、掛け算の勝者の、もう1つの候補だったのですね。北魏の華北統一戦は、同類である夏に、最後まで手こずった。いちばん手ごわいのは、同類なのだ。

次は、ついに北魏について見てみます。