3)中期の中原の主役、前燕
前期の勝者が見終わったので、中期の勝者を見ます。
前燕
慕容部の始祖は、曹魏の公孫氏北伐に従軍して、棘城に住み着いた。宇文部の圧力を避けるために、遼東に移動した。
309年12月、西晋の遼東太守が混乱を起こした。慕容廆が秩序回復をして、地歩を固めた。永嘉の乱では、流民の避難場所となった。慕容廆は、僑郡を立てて、積極的に人を収容したから、王浚を離れて合流する人もいた。
謀主、股肱、枢要など、原初的な官僚機構を作った。314年、王浚が石勒に破れた。319年、高句麗、宇文部、段部と結ぶ、西晋の崔ヒツを退けた。支配を確立した。
317年、司馬睿の即位に勧進した。320年代に段部を抑えた。後趙に攻められると、東晋や宇文部と結んで、退けた。東晋を尊重した。
337年、慕容皝が後継した。341年、東晋から燕王に封じられた。338年5月、後趙に棘城を10万で包囲された。降伏を進める臣下に、慕容皝は言った。
「私は天下を取るのだ。降伏などできるか」
段部を攻めた。高句麗を服属させた。宇文部、夫余を滅ぼした。
348年、慕容雋が即位。350年1月、20万で中原に進攻。冉閔を殺し、鄴を陥落させた。352年11月、慕容雋は中山で皇帝を称し、東晋の冊封から離脱した。東晋の使者に、
「皇帝が空位だから、私が中原の支持を受けて、皇帝になりました。こう司馬氏に伝えなさい」
と言った。357年11月、鄴に遷都。東晋、前秦とともに、三国鼎立を作った。三国統一のため、150万を徴兵したが、失敗したまま慕容雋は病死した。
子の慕容暐は、八公の支配機構を作り、364年8月に洛陽を獲得、366年までに淮北を制圧。369年4月、東晋の桓温の北伐を受けた。慕容暐の叔父・慕容垂が、桓温と対戦した。
「虎牢より東(洛陽を含む)を割譲するから、助けて」
と前秦に助けを求めた。
内部から崩壊を始め、370年9月に6万で前秦に攻められた。11月、鄴は陥落し、998万7935人の戸籍を前秦に差し出した。
◆前燕の感想
後趙の次に、中原を制圧する国です。だが、後趙が弱って初めて、台頭したわけじゃない。後趙とは関係なく、着々と力を蓄えていたようで。遠交近攻の原則に忠実で、遠かった東晋には服属し、お隣さんとなった東晋には敵対した。戦略的である。
三国時代までの遼東のイメージだと、辺境の田舎立国って感じだが、五胡十六国時代では違う。中原の文化人が流入しているから、きっちり中原で主役をやれる人材がいるのでしょう。孫呉に似ている。
世代を重ねて、徐々に首都を南下させるというプランは、生半可なブレーンには実現できないことです。最後には中原を平定しちゃったのだから、強い。前燕の進出は、永嘉の乱で遼東に逃れた人が、国家拡大というツアーを組んで、里帰りをしているようなものか。
中原に帰れたのだから、前燕の漢族は、東晋に従って長江を渡った人たちよりも、成功している。
だが、三国鼎立の悲哀で、他の2国から攻められると、絶対に滅びてしまう。三国時代には、実はこういう展開は実現していないのです。蜀が滅びたとき、呉は魏に味方してないから。
東晋の桓温に攻められ、追い返した。疲れたところに、前秦からの攻撃。イフで語るなら、夷陵で陸遜が劉備と対峙中に、曹丕が嬉しそうに全軍で突っ込んできたら、孫呉は前燕みたいに滅びた。
もっとも、前秦の「英主」苻堅のおかげで、燕の命脈は生き続けますよ。苻堅は、滅ぼした国を根絶やしにせず、噛まずに丸呑みにした。自国の人材として、活用した。
三崎氏の本とは順番が変わってしまいますが、燕のその後について先に見ておきます。